106 巳四つ(午前10時半)展開7 郡境砦伏兵道・梶川隊主力・菅野弘明
「陣ぶれのお達しは、意味がなくなってませんかね?」
「そうかもしれないが、昨日とは状況も変わっているのではないか。御館様の命ならば、仕方がない」
私は梶川家の御曹司の秀朋様とともに、梶川家に仕えている40の騎馬兵と、今回の兵制改革以前から梶川家の与力とされてきた騎馬兵たち160を率いて、戦場へと急いでいた。
副将格の秀朋様と私達が率いるのが、本来の梶川陣営の主力であり、主将たる殿が率いるのが、今回の兵制改革で生まれた急増組なのだから、ちょっとした捩じれというべき状態だ。だが、急増組に無理はさせられないし、騎馬での長駆移動に慣れた主力を私達が率いた方が無理がないという判断なのだ。梶川家臣の精鋭10人を殿が補佐に連れてはいったが……。
我々は、徒立ちの槍衆・弓衆に行軍が妨げられる恐れがあったので、南東から四方村へと伸びる別街道を使って、いち早く村に到着した。
すると、村には御館様からの使いが待っていた。
「郡境砦と合わせて整備された北に伸びる伏兵道に進め。出羽守の隊との合流は、その方たちで顧慮する必要なし」
待っていた使者は、そう伝えて来た。来た道をわずかに戻り、郡境砦に行くと番兵がいたので、伏兵を配するための細道へ案内させた。
馬を2頭並べて進むには、ちょっと辛い。しかし、馬が歩くにはちょうどよいくらいに踏み固められた道だった。
その北端に達すると出口があり、そこは柵で塞がれている。
「こいつはいい。騎兵を伏兵にすることも考えていたのか」
森の方を見ていた秀朋様はそうつぶやて、にやりと笑った。
小道の東側の森の中にはところどころ、森の中の木が倒されている箇所があり、そのうちの一つに湧き水とそこから流れ出た水を湛えた窪地があった。湧き水は人の、窪地は馬の水場に使えるようになっており、下生えの草も馬の食用に堪えるもので、騎馬隊の待機地として申し分がなかった。
人が伏せるよりは敵に見つかりやすいだろうが、中山道を脇目も振らず進む敵の横っつらに不意の一撃を食らわすには、なかなか良いところだ。
「馬の手入れと水やりを交代でしながら、正午までに各自、早めの昼食を摂るように!」
私は森の各所に散った兵たちにふれて回った。
郡境までは低地が続いているので、森の中を探せば、まだ湧き水はありそうだ。きちんと井戸を掘れば、十分な水量を確保できそうだ。それだけに、雨水が集まりやすく、軟弱な土地も多く、森が広いことも相まって、農地としての開墾は遅れている。広っぱは乾きやすいから、馬の蹄に丁度よい硬さで、昨日も街道上でなくとも走らせやすかったが、森のそばなどは湿原が多いのかもしれない。
「よし、皆も落ち着いたようだし、御館様に着陣を知らせておこう。父上の隊がどこに布陣しているかも気になる」
「ご一緒いたしますか」
「ああ、後一刻ほどは動きもないだろうから」
「いや、それには、及びませんぞ」
「ん?」
「御館様からの伝令です。騎兵が潜んでいるのがばれないようにと徒歩で参りました……はははは」
「ご苦労さまにござるな」
「それでは、御館様からの命をお伝えいたします……」
本来は旗本の槍衆らしいその男は、御館様の口上を伝えにきたのだった。
滔々と開戦後の動きを伝える男……。
なるほど、この伝者から伝えられた命令は理にかなっている。だが……
「小を捨てて大を取る……という形になりかねない。その捨てる小に御館 様ご自身がなりかねない」
口上を聞き終えて、私は思わずつぶやいていた。
「しかし、やはり度胸が座っていらっしゃる」
「それはそうです。そもそも、朝から敵は集まってきているのに、こっちは、まだ集結していない。その中で敵前に本陣を晒し、平然としていらっしゃる」
「いや、確かに。すごい胆力ですな」
「策の方は、先鋒に続く第二陣の動き次第のところもあるが……ともあれ、ご命令、承った」
「よしなに」
伝者は森を真っ直ぐ西に出て、中山道を塞いでいる弟君の陣に向かっている。まるで森で用をたしたかのような様子で、まったく自然だ。きっと何か向こうの陣にも伝えることがあるのだろう。
あと一刻半ほどで開戦だろうか。我々も少し体を休めることにした。