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ホットミルク

作者: ごま

 人は誰しもほんとうの危機に立ち向かわないといけないときが来る。光を欠いた空白が目の前にあって、背中にはじっとりとした暗い刃が突きつけられている。後ろに行けば暖かい血が背中を染めるかもしれない。前に行けば冷たい地面が受け止めてくれるだろう。どちらにせよ決定的な何かを失う。そうすると動きたくなくなる。人の時間はそこで止まってしまう。あのときのぼくもそうだった。

 

 そのころのぼくは仕事をやめていた。大学を卒業してから六年ほど銀行に勤めていた。自分にしてはもったほうだと思う。やめることを意識したのは冬だった。電車に乗っていた。昼間のことで、少し空いた車内。席には座らずドア際の手すりに寄りかかって、冬の街が通り過ぎていくのを眺めていた。すると視界がぼんやりとしだした。なんてことない。僕は意味もなく涙を流していた。だから、仕事をやめることにした。

 

 失業保険や貯金を使いながら、それからの日々を過ごしていた。実家には帰らなかった。仕事をやめたことも伝えなかった。ただアパートにひきこもってじっとしていた。冬が過ぎるまで死ぬこともなく生きていた。

 

 春になったころぼくは図書館に通いだした。歴史書を漁って、人間がやってきたことを学んだ。歴史は同じことを言うだけだった。人は死んでいく。富、名声、権力があっても死んでいく。

 いずれ死ぬのになお生きつづけるのは別に困難なことじゃない。それでも歴史に書かれることのない死者たちの視線のなかで、自分が生きている理由をはっきりと述べることが出来るだろうか。

 

 図書館に通わなくなったぼくはホットミルクを飲むようになった。真夜中に、レンジでマグカップごと暖めて、薄く張った膜を銀のスプーンでつついてから、息で冷ましてちびちびと飲んだ。砂糖を入れるときもあった。飲み終えたらベッドに入って、明かりを消した。朝まで暗い天井を眺める。スズメの鳴き声でぼくは浅い眠りにつきはじめるのだった。

 

 テレビをつけるのも億劫になってきたころ、春がやってきた。さめざめとした雨が幾日か続いてカーテンの奥をぬらしていた。それでもぼくは一人家でぼんやりとしていた。机に座って文字を書いたり、スマートフォンをベッドに放り投げたりそんなふうに。自分がどうしようもなく危ういところに居ることは自覚していた。このまま貯金を食いつぶしても何が起こるわけでもない。自分は空腹に耐えかねて働きに出かけるだろうか。


 そういう答える気もでない疑問が頭の中に居座り続けていた。ぼくはその夜ミルクを買いに行った。一リットルの牛乳パック。アパートを出て暗闇に抱かれるような心地で歩いていった。静かな住宅地を抜けて通りにでる。タクシーが走っていくのを横目でみる。誰かが誰かのためのどこかへ行こうとしているのだ。なんでもないことだが、どうしてだろうそのときのぼくにはなにか感慨深いものがあった。


 彼女に会ったのはそのときだ。その少女はパジャマ姿で裸足だった。下を向いてとぼとぼと歩いていた。どう見ても普通ではなかった。だがぼくはミルクを買わないといけなかった。少女とは距離をとってコンビニに向かった。明るい店内に入って1リットルの牛乳を買った。


 家に帰ってしばらくすると呼び鈴が鳴った。覗き見の奥にはパジャマ姿の少女がいた。さきほど見た子だった。ぼくはチェーンを外し、カギを開けた。

「どうしたんですか?」

「入れてもらえませんか、なんでもします」と少女は言った。ぼくは首を振った。

「それはできません。あなたが叫べばぼくはつかまるでしょう」

「叫ばないです、どうしても入れて欲しいんです」

「いいですか。今からぼくは警察を呼びます。あなたのためです」と言ってぼくは家に引き返そうとした。そのとき彼女はぼくの腕を掴んだ。強い力だった。ぼくは振り向いた。

「もし警察を呼ぶなら、あたし叫びます」

「叫んだとしても結果は変わりませんよ。あなたは警察に事情を聴かれる、ぼくはコンビニの店員に記憶を呼び起こしてもらう。そういうふうになるだけです」

 少女はじっとぼくをにらんだ。ぼくの腕は掴まれたままだ。

「なんでだめなんですか? あたしがかわいくないからですか?」と少女は涙声になりながら言った。

「そういう問題じゃないんです。あなたがこの深夜に出歩き、なにか大きな問題を抱えてるとしましょう。それはぼくの手にはあまる問題なのです。だから警察を呼びたい。そうすればあなたはあなた自身と向き合うことになるから。あなたの問題はあなたにしか解決できません。ぼくの問題がぼくにしか解決できないように」

 ここまで話すとさすがに相手が悪いことを少女は理解したようだった。ぼくの腕は解放された。ぼくはドアを閉めようとした。そのとき少女が裸足であることを思いだした。靴箱からサンダルを取り出して、少女の足元に投げた。

「履いておいたほうがいいですよ。これから長い夜になるでしょうから」

 ぼくはドアを閉めた。スマートフォンをもって玄関に戻り、覗き見を見たとき少女の姿はなかった。ぼくは警察に連絡することもなく、ホットミルクを飲みベッドに入った。眠りはすぐにやってきた。


 それから一週間が過ぎたころ、ぼくはまたその少女に出会った。図書館に本を借りに行ったときのことだった。セーラー服を着た少女は机で勉強をしていた。ぼくはそれを横目で見た。それで終わった。

 

 家に帰ってぼくはホットミルクを淹れた。砂糖を入れてかき混ぜる。白い渦がぼくの目の中をくるくると回っていく。彼女は自分の問題を自分で解決したのだろうか。ぼくはホットミルクに口をつける。まだ熱く、舌の先をすこしだけやけどした。口を離し、マグカップをテーブルに戻す。鈍い鼓動の音がぼくのなかを響いていた。冷ますことなくぼくはもう一度手にとり、ホットミルクに口をつけた。一度に飲み干す。甘い香りが鼻を貫いた。焼けるような痛みをのどに残して。

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