第三話:ミッション・陰ポッシブル
第三話:ミッション・陰ポッシブル
眠い。早く。早く終われ。トチギは度々教室の後ろにある時計をみてしまう。時刻は3時15分。日本史の授業の最中だった。密かに今、彼は便意を抱いている。だがしかし、教師にトイレに行く許可を取るなど、陰道に生きるものとしてはもってのほか。授業中に自ら手をあげ、ましてや教室の中を歩いて出て行くことの許しをこうなんてとんでもない。少しでも目立ってしまうといけないのだ。プロフェッショナル陰キャの彼にとって、教室という人に囲まれた空間は地獄でしかない。教師は出席番号順で質問に回答する人を当てていく。トチギの出席番号は24番とは真ん中の方で、そろそろ当てられるのではないかと心配になっている。あと5分で授業が終わる。ここを切り抜け、耐え忍ぶことができたらまた、しばらく当てられることはない。トチギの我慢がそろそろ限界に達しそうだ。
僕は軽く貧乏ゆすりを始める。早く荷物をまとめなくては。シャーペンと消しゴムをしまい始める。大胆に荷物をまとめると先生やら意地悪な陽キャに気づかれちゃうから、一個一個丁寧に、波風立てないように。エッジを指でなぞりながら、ノートと教科書の角をそろえる。プリント類を半分位におってノートに挟む。
そのころ、廊下では二人のいい体格をした生徒たちが話していた。廊下の掃除用具入れの陰で腕を組みながら教室を覗いている。
「おい、あいつじゃね?ターンうまいやつ」
「ほんとだ、このクラスだったのか。ちょうど新学期始まったくらいだし、また部活勧誘しようぜー!」
「まじか、またあれみたいな、一発かましてみるか!」
教室にて、教師が生徒に連絡を伝える。
「はーい、じゃあみなさん今日は早めに終わります。明日までに何か面白い語呂合わせを考えてくるように。これがみなさんの宿題です。」
陽キャたちが「ウェエエえいせんせーあざしたー!」なんて叫んだり、他の友人と世間話を始めるなか、陰道を生き様とするトチギは叫ばない。一人グッと拳を握りしめ、早く教室を出られることに対する溢れ出る喜びと我慢を静かに表現する。そしておそらくキモくない程度の勢いで立ち上がり、まとめた荷物をリュックに詰め込み、教室から出ることにした。早くトイレに行きたい。が、その瞬間、トチギは側頭部あたりに違和感を覚える。自動誘発陰術。
「セ陰ト・センス!!!」
ビリビリと伝わってくる活気。それもかなり強い気配だ。まちがいない。なんだこの少し離れていても伝わってくる明るいオーラは。そう、陽キャである。危機を察知したトチギは教室の内側へ一歩後ずさった。
「監督ーーーーーー!」
ラグビー部、いや、アメフト部の日本大がタックルを仕掛けてきたみたいだ。今回は陰スペクトをする間もなかったものの、ちゃんとセ陰ト・センスのおかげで回避することができた。
「おいお前よく避けたなー!すげえなー!」
「っす」
これくらい陰の者として当たり前だろうと僕は思う。どれだけ日常が修行になっていると思うんだ。
「なー!君さー、俺らとアメフトしようぜー!」
「いけたら行きます」
魔法のフレーズ。約束もしないので責任も裏切りもなにも生まれない。
「マジで信じてるからなー!」
「っす」
まずい。トイレに陽キャやヤンキーたちがたむろする時間になってしまった。仕方ないのでこうなったら即帰宅して誰にも邪魔されないトイレで自分の内側を解放するしかない。僕はすぐに校門に向かうことにした。東側の階段へ歩く。
「監督ー!」
僕は西側の階段を使って回り道したいが、便意的に回り道できない。「監督ー!」を教室に出てから5回くらい聞いている。そろそろうんざりだ。
「っす」
階段を降り、誰とも話すことはなく、上履きを下駄箱にしまい、靴を取り出した。
校門を出る。右腕につけた小さな黒いデジタル腕時計を見やる。15時25分。少し邪魔があったものの、早く学校から出られたことは、いつもより早く人混みから逃れられたことを意味する。もちろん学校で一番早く帰宅しているはず。唯一とは言えないが、一番親しいヤマダという友人がいる。だが彼は陰道のものでもなく、ただ単に普通に文化系の部活に入っている、陽キャでも陰キャでもない、適度に存在が認知された一生徒だ。部活があるか否かはあまり関係なく、基本的に週末くらいしか一緒に過ごさない。下校時も基本、トチギは孤高を貫いている。
僕は校門を出てすぐに裏道へ出た。万が一他に生徒がいて通学路にて見つけられたり、絡まれたりしては困るからだ。速いスピードで歩きすぎると、万が一の時に目立ってしまうかもしれないので、僕自身の人権を考慮しながらゆっくり歩く。
歩いてしばらくすると、前方に見覚えのあるかげがあった。影山下川高校の制服。痩せ型で、背は普通。腰まである長い髪の毛。名前はわからないが、クラスメイトにこんな女子高生がいたように思う。なんて思っている暇はない。早く解決策を導きださねば。学校外で同級生に出会ってしまうなんて陰道に生きるものとして、なかなかの屈辱。このシチュエーションでさらに気づかれてしまえば、もしかすると裏道である以上「トチギとかいう陰キャずっと裏道で後ろからついてきたんだけどー」とかなんとか噂されてしまう。そうなると崇高なる陰道に生きる陰キャではなく、ただ単にいじめられてしまう底辺インキャに成り下がってしまう。だがしかし、ここでどこかに立ち止まり、肛門括約筋を使う時間を伸ばすのも僕自身の人権を失うことにつながる。気づかれてはいけない。臀部に時限爆弾を抱えたまま、もしくは最悪のケース爆発しちゃった状態で同級生の女子に気づかれないでやり過ごす方法はあるのだろうか。
しかしこの女、セ陰ト・センスが働かなかった。嬉しいことに、陽キャではないようだ。女が右足を出して左足を出してと繰り返す同じテンポで、暴発しない程度の歩幅で歩き続けた。女がトチギの方を振り向くことは全くなかった。
気がつくともう駅についていた。幸い、駅は混雑していない。朝の時のように陰術、「陰スペクト」を使う必要はない。
トチギはいつもの「妹だけど結婚相手はお兄ちゃんでいいよね」を取り出し、進行方向右側、車両の一番端の席に座り込む。朝の時のように混雑していない。禁断の恋にむずがゆさとはしたない興奮を覚えながら電車に揺られる。
四十分たったあたり。電車は止まり、最寄駅に着いた。安全地帯。狭い歩幅で足を小刻みに動かしながら家に向かう。コンビニを抜け、小学校を左に曲がる。もうプロフェッショナルトチギには家というゴールしか見えていない。ラストスパートになってきた。そろそろ限界を超えそうだ。先ほどの学校をでたばかりの余裕はない。
陽キャに見られるリスクも、絡まれるリスクもない空間。マイハウス。マイルーム。マイプレース。完全プライベートが保たれる空間に急ぐ。焦りと限界がトチギを襲う。あと数メートル。足先をメインに利用した小走りで玄関へと急ぐ。
鍵穴が上下についたドア。上の穴に鍵を差し込み、ツイストする。一気にドアを開き、中に滑り込むと、靴を乱暴に脱いだ。家には誰もいない。ただいまも言わず、慌てて洗面所に向かうと学ランも靴下もズボンも投げ出し、トイレに入った。
トイレ。閉鎖空間の中一人で、なおかつ鍵がついているという、まさに孤高の極み。少し暖かくなっている便座の上に座る。
トチギは体のありとあらゆる緊張を緩め、括約筋を解放する。日本史の授業からの我慢からやっと解き放たれた。誰もいない家、拳を握りしめ、一人で思わずあの俳優主演監督有名アクション映画のラストシーンを真似してしまう。
「Mission Accomplished…」
僕はあまりの開放感に立ちくらみする。トイレが爆弾の残骸を流し去る。水分が足りないのか思春期特有のものなのだろうか。キッチンに行ってコップいっぱいのミネラルウォーターを飲んだ。眠い。四時四十分。フラフラしながら寝室に向かう。
ロンリーベッド陰。
語呂合わせを考える宿題はどうなったかって?
もちろん、陰コンプリート。(incomplete)
第三話「ミッション・陰ポッシブル」 ー完ー
まだまだトチギの日常は続きます。お楽しみに。