第八十一話 杞憂尽くしの目覚め
一定のテンポで刻まれる鼓動。
静かな呼吸音。
混濁する意識が徐々に明瞭なものになっていく。
淀み切った泥の中からゆっくりと浮上するように、ルフトの意識は覚醒した。
「ここは……?」
ルフトは上体を起こす。
見覚えのある雑多な室内だ。
どうやら仮眠を取った雑貨店らしい。
ルフトはそこまで認識したところで、直前の記憶を思い出す。
(そうだ、重傷を負った僕は博士を召喚して……)
壮絶な戦いを振り返ったルフトは、反射的に自分の身体を確認する。
アルディから受けたはずの傷はどこにも見当たらない。
身体の不調はほとんど感じられなかった。
むしろ、全身に力が漲る気さえする。
ルフトはこの感覚に覚えがあった。
「気絶している間にミュータント・リキッドを注入した。処置があと三十秒遅ければ死んでいたな。君が運がいい」
ルフトは背後の木箱に座る博士に気付く。
そして彼によって助けられたのだと悟った。
ミュータント・リキッドは優れた身体能力でけではなく、再生能力をも付与する。
致命傷すら瞬く間に完治させてしまうほどだ。
その効力で一命を取り留めたらしい。
「助けていただき、ありがとうございます……」
「礼には及ばないよ。大した労力じゃない」
博士は軽く首を横に振る。
気遣いではなく、本当にそう思っている様子だった。
アルディとの戦闘も、博士にとってはそれくらいのものだったのだろう。
異世界人の強さに慄くルフトであったが、急にハッとした表情をして前腕に触れる。
そこに何らかの跡はない。
しかしルフトの脳裏に、先ほどの戦いの一場面がフラッシュバックした。
ナイフで突貫した際、ルフトはアルディに噛まれたのだ。
アルディは明確な意識を保って常人と変わらない様子だったが、ゾンビに噛まれたことがあると言っていた。
人間を喰らう衝動も有していたので、ほぼ間違いなく感染しているだろう。
そんな彼に噛まれたということは、同様にルフトも感染しているはずである。
「ど、どうしよう……」
ルフトは今更ながらに焦る。
今は特に何ともないが、いずれゾンビの仲間になってしまうのではないか。
その恐怖は耐え切れないほどに大きい。
ともすればパニックになってしまいそうだった。
しきりに前腕を擦るルフトの心境を察したのか、博士は淡々と述べる。
「ウイルスの感染を危惧しているようだが、それは杞憂だと言っておこう」
「どういう、ことですか……?」
「ミュータント・リキッドは悪質な成分を破壊する。つまり、君の体内のウイルスは既に排除済みだ。もっとも、ウイルスが定着しすぎると症状や変異を速めるだけで治療薬にはなり得ないがね」
それを聞いたルフトは安堵する。
どうやらゾンビになることはないらしい。
ほっと息を吐くルフトだったが、何かに気付いた様子でいきなり立ち上がった。
彼はどたばたと慌てながら出入り口の扉に手をかける。
「今度はどうしたのだね」
博士が尋ねると、ルフトは青ざめた顔で叫ぶ。
「拠点にゾンビの大群が押し寄せてきたんです! そちらをどうかしないと他の人たちが……!」
アルディは大量のゾンビを拠点内に招き入れた。
人間の個体だけでなく、魔物も多かったのでその脅威は計り知れない。
拠点内の生存者では間違いなく対処し切れないだろう。
事実、最後にルフトが確認した時にも、彼らは蹂躙されていたのだから。
話を聞いた博士は平然と告げる。
「なんだ、そんなことか。あのウイルス適合者が逃げた後、周囲のゾンビは私が一掃した。様々なサンプルが手に入ったので、なかなか有意義な作業だった。この世界には未知の生物がごまんといて楽しいよ」
やや嬉しそうに語る博士。
嫌味などではなく、本心からの言葉であった。
果たしてこの人が恐怖を感じることなんてあるのだろうか、ルフトは真剣に疑った。




