第一話 ようこそパンデミック
王都ラグドニア謁見の間。
そこでは、とある儀式が行われようとしていた。
ローブを着た魔術師たちが床を囲み、複雑奇異な魔法陣を描いている。
固い表情の騎士や、高級な服を着込んだ貴族が彼らの作業を見守っていた。
奥の玉座には国王が鎮座している。
幾多もの視線を浴びながら、魔術師たちは懸命に手を動かしていた。
張り詰めた空気は酷く息苦しい。
「魔法陣はまだできぬのか」
国王の催促に、魔術師の一人が必死に弁明する。
「も、もう少しでございます。ただいま最終調整中でして、僅かにでも成功率を高めるために……」
相当な集中を要するらしく、魔術師の顔には緊張以外に精神的な疲労が滲み出ていた。
これ以上の口出しは不毛だと察したのか、国王は不機嫌そうに鼻を鳴らすだけに留める。
彼らが行おうとしているのは勇者召喚の魔術だった。
異世界に干渉して絶大な力を持つ人間――勇者を呼び出すのである。
かつて闇の勢力たる魔王軍に対抗するための切り札として使われたらしい。
現代においては再現不可能な古代の禁術という扱いだったのだが、研究者たちの目まぐるしい努力によってついに魔法陣の復元に成功したのだ。
これで周辺諸国とのパワーバランスを覆せる、と国内では密かに期待されていた。
やがて魔術師たちは一斉に魔法陣から立ち退いた。
そのうち一人が玉座の前で跪いて告げる。
「国王陛下。準備が完了いたしました。魔法陣を起動します」
直後、魔法陣が仄かに紫色の光を灯し、緩やかな風を渦巻き始める。
光と風は段々と勢いを増していった。
謁見の間の人々は固唾を呑んで見守る。
果たしてどのような人物が召喚されるのか。
伝承では黒髪の青年が現れたと聞く。
そして、聖剣の担い手として魔族を薙ぎ払ったとされるのだ。
誰もが無言で注目する中、魔法陣が一際強い光を放つ。
謁見の間全体が輝きに包まれて何も見えなくなる。
にわかに広がるどよめき。
魔法陣を中心に吹き荒れる風が窓枠を軋ませ、カーテンをめくり上げた。
しかし、そこが限界だったかのように、光と風の暴力は途端に勢いを弱めていく。
残されたのは妖しげな光を放つ魔法陣と、その上に立つ一人の男だった。
人々の視線はその男に殺到する。
チェック柄のシャツを着た二十代前半くらいの若者だ。
ズボンは青いジーンズで、スポーツメーカーのロゴが入った運動靴を履いている。
黒髪を垂らした顔はうつむき加減で良く見えない。
しかし、この世界ではまず見られない服装なのは明らかであった。
――召喚の魔術は、成功したのだ。
「おぉ、異界の勇者だ! 私の研究は間違っていなかったのだ!」
国王の催促に答えていた魔術師が歓喜し、声を上げながら魔法陣へと歩み寄る。
召喚が上手く行ったことがよほど嬉しいのだろう。
彼は興奮冷めやらぬ様子で魔法陣の男の手を取る。
「ようこそ来て下さりました! 初めまして、私の名は――」
「ヴゥ……」
小さな呻き声。
魔法陣の男が発したものだ。
体調が悪いのか、ふらふらと頭を揺らしている。
歓迎の言葉を止めた魔術師は、訝しげに男の顔を覗き込んだ。
そして戦慄する。
「なっ!?」
男の顔は病的に青白く、口元が血肉で赤く汚れていた。
爛れた肌は所々が裂けている。
衣服も一部が破れて、抉れた皮膚と肉が露わになっていた。
「ググゥ……」
異常な風体の男がじろりと魔術師を見る。
濁り切った灰色の瞳。
そこに人間としての理性は到底感じられない。
「こいつは、まさかッ!」
「ヴギィグァッ」
魔術師が叫んだのと男が襲いかかったのは同時だった。
唾液を撒き散らしながら、男が魔術師を押し倒す。
痩せ細った両腕がローブを掴んで離さない。
顎が外れそうなほど開かれた口が、魔術師の首に食らい付いた。
黄ばんだ歯が皮膚を噛み破る。
「いだだだだだだ! や、やめろっ!」
魔術師は激痛に顔を歪め、懸命に男を引き剥がそうとする。
しかし、男の怪力のせいでそれも叶わない。
傷口から溢れる鮮血が瞬く間に床を染めていく。
予想外の事態に驚いていた騎士と魔術師が我に返って止めに入った。
抵抗する男のせいで新たな負傷者が出るも、両者を離すことに成功する。
「陛下、この不届き者を如何致しましょうか」
暴れる男を羽交い絞めにした騎士が問う。
魔術師に噛み付いたと言えど、相手は勇者召喚で現れた存在だ。
個人の判断では軽々と処罰できない。
一連の事態を冷淡に眺めていた国王は、顔色一つ変えずに言う。
「失敗ならば再度召喚すればいい。出来損ないは始末せよ」
国王が命じた瞬間、召喚された男は床に叩き付けられて首を刎ねられた。
頭を失った身体は数度の痙攣を経て動かなくなる。
その傍らでは魔術師が死に瀕していた。
噛み付かれた首の出血が止まらないのである。
もはや治療も間に合わないだろう。
他にも数名の騎士と魔術師がそれぞれ応急手当を受けていた。
男を拘束する際に噛まれたり引っ掻かれた者たちだ。
最初の魔術師ほどではないものの、出血を放っておくわけにもいかない。
古代の勇者召喚の魔術を経て、謁見の間は騒然としていた。
使用人が救急箱を抱えて慌ただしく部屋を出入りし、負傷者は隅で治療を受ける。
国王の前でも、緊急時は多少の無礼も許されるらしい。
息絶えた魔術師と斬首された男の死体はその過程で運び出された。
何もできない貴族は口々に文句を垂らしては、床に染み付いた血痕を睨む。
この場にいる誰もが油断していた。
トラブルこそ起きたが既に解決に向かっている、と。
静観を決め込んだ国王も同じ心境だろう。
元凶の男を処刑したのだから、それも仕方のない話かもしれない。
未知の魔術の行使には幾多もの失敗が付きものだ。
これくらいの事態は珍しくもない。
されど現実は無情であった。
惨劇は堰を切ったかのように連鎖する。
次のきっかけは甲高い悲鳴だった。
「ひいいいぃぃぃ!? ど、どうしてっ」
場の人間はぎょっとして声の主に注目する。
そこには、騎士に頬を齧られる使用人の姿があった。
白と紺色を基調としたメイド服が、鮮血で瞬く間に赤くなっていく。
「何なんだこいつ!」
「さっきまで普通だったんだ! いきなりおかしくなったんだよっ」
周囲の人間が止めるのも構わず、騎士は一心不乱に使用人を食らおうとする。
その姿はまるで、飢えた獣のようだ。
変貌した騎士の顔や首には、引っ掻き傷があった。
先ほど召喚された男に負わされたものだ。
毒々しい紫に変色しつつある。
そうこうしている間にも、負傷した騎士と魔術師が次々と豹変し始めた。
彼らは荒い息遣いと共に視線を巡らせ、近くの人間へと手当たり次第に襲いかかる。
見開かれた目に理性は窺えず、意味不明な言葉を吐き連ねていた。
手当てに従事していた者から噛み付かれて殺される。
今度こそ謁見の間はパニックに陥った。
「だっ、誰か、助けてっ」
「嫌だあああぁっ!?」
悲鳴を上げる使用人が騎士に圧しかかられ、後頭部から無造作に貪り食われた。
その隣では貴族が仰向けにされ、肥えた腹を引き裂かれている。
はみ出た内臓を数人の魔術師が仲良く啜っていた。
被害は瞬く間に拡大していく。
室内はどこもかしこも凶暴化した者たちによって蹂躙されていった。
生きたまま食われた人間もしばらくすると起き上がり、同じように他者を襲い始める。
抵抗を試みる者もいたが、四方八方から雪崩れ込まれて倒される始末だった。
白かった床が粘質な赤で染まり尽くし、無残な姿の死体があちこちに転がっている。
力任せに引っ張られて破れた高級カーテン。
誰かが逃げ出そうとしたのか、出入り口の扉には赤い手形がいくつも付いていた。
荘厳な趣のあった謁見の間は見る影も無くなり、血みどろの殺戮の舞台と化している。
凶暴化した人間は室内を徘徊するか死体に群がった。
新鮮な獲物を求めているのか、そのうち一部は残る生者への襲撃を試みている。
今や無事な者は数えるほどしかおらず、玉座付近に固まって必死に防衛戦を繰り広げている。
国王は顔面蒼白で、配下に命運を託した状態だ。
箍の外れた暴力の前では、権力など藁未満の価値でしかない。
まさに絶体絶命。
このままでは数分と待たずに生存者たちは全滅するだろう。
そんな中、出入り口の扉が勢いよく開かれる。
現れたのは純白のシスター服を纏った美女だった。
艶のある金髪をたなびかせながら、彼女は凛とした口調で言う。
「陛下、ご無事ですか! 遅くなってしまい申し訳ありません」
女の登場に気付いた生き残りの騎士と魔術師は、一様に安堵の表情を浮かべる。
誰もが事態の収拾を確信していた。
彼女の名はセシル・グロリア。
王国最高の僧侶であり、”光の聖女”と呼ばれる退魔の術のエキスパートだ。
セシルは厳しい眼差しで室内を見回すと、形の良い唇を悔しげに歪める。
「ゾンビ、ですか……痛ましいですね」
静かに涙を流しながら、セシルはそっと両手を組んで祈りを捧げた。
凶暴化した人間――ゾンビたちは新たな獲物に気付いてふらふらと歩き出す。
無数の呻きが底なしの食欲を訴えていた。
「安心してください、すぐに苦しみから解放してあげますから……」
迫るゾンビにも臆さず、セシルは片手を頭上に掲げる。
彼女の指先から温かな光が迸り、黄金の波紋となって室内へと広がった。
それはかつて一万を超えるアンデッドの軍勢を浄化した奇跡。
光の聖女セシルが扱える中でも最高峰の魔術である。
生者には癒しを。
死者には安らかな眠りを。
慈悲深く高潔な彼女にこそ相応しい術と言えよう。
セシルによって行使された魔術は謁見の間に浸透する。
同時に訪れる不思議な静寂。
聖なる光を浴びたゾンビたちはそのまま朽ち果て――なかった。
「えっ」
セシルの顔に初めて動揺が走る。
眼前の光景が信じられないとでも言いたげであった。
そんな彼女へとゾンビの群れが殺到する。
呆然としていたセシルに抗う術はなく、数の暴力によって押し倒された。
聖女の端正な顔や美しい肢体が容赦なく食い千切られていく。
「ガフッ、わっ、わだしは……救い、を……」
吐血するセシルは、激痛に苛まれながらつぶやく。
それが彼女の最期の言葉だった。
王国の誇る光の聖女は、あっけなくゾンビの餌と成り果てる。
セシルは知る由もないが、ここにいるのはウイルス性のゾンビであった。
地球という星で開発された史上最悪の生物兵器だ。
勇者召喚されたゾンビから感染したのである。
対アンデッド戦において絶大な効果を発揮する退魔の術だが、あくまでも魔術由来のモンスターが対象だ。
異世界の化学技術が生んだゾンビからすれば、少しまぶしい程度の発光現象に過ぎない。
唯一の希望だった聖女の死を受け、生存者たちの心が折れた。
彼らは嘆き悲しみ、抵抗の意志を失う。
「そ、そんな……聖女様が!」
「もう終わりだ! 俺たちはここで死ぬんだ!」
泣きそうな顔で剣を捨てた騎士の隣では、魔術師が自らの首に短剣を刺して自害する。
笑いながら窓に突進して、ガラスを突き破りながら落下する者もいた。
国王が半ば喚くように命令を下すも、そのような戯言に耳を貸す人間はいない。
結局、腹を空かせたゾンビに一人残らず食い殺される。
勇者召喚から二時間後。
王城を占拠したゾンビたちは、ついに市街地へと進出した。
人々は必死に抵抗したが、次から次へと溢れる死者の群れには敵わない。
噛まれたり引っ掻かれた者は彼らの仲間入りを果たした。
栄華を極めた王都の街並みは、大量のゾンビが彷徨う血塗られた土地となる。
やがて感染の波は王都の壁を越えて国中へと広がっていった。
止める術なき脅威は、確かな絶望の始まりを人々に告げる。
――こうして一つの世界を滅ぼしたゾンビウイルスは、新天地にてパンデミックを再開させたのであった。