第6話 富樫弁護士との対談Ⅴ
「僕は、その日の、1年前の8月25日の記憶が、ごっそり抜けているんです」
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「いやね、まぁ確かに、神谷さんの言っていることもよくわかるんです」
一拍空け、微笑みながら富樫はそう言った。
「私だって、ふっふ、何かモノを忘れるっていう経験のひとつやふたつ、いや、そんなケチケチしないでももっと、いくらでもありますよ。そうそう、ところで私、人の顔を覚えるっていうことができないんです。いえ、もちろん、毎回毎回会っているような人物の顔と名前はさすがに覚えますよ、しかし、なんていえばいいんですかね。ほら、よくアイドルとか、女優とかがテレビに出るでしょう? ああいうのが私、ダメなんです。女優、男優、まぁすべて大きくひっくるめて俳優さんとしましょう。そういった人々の名前がね、覚えられないんですよ私。いやぁ、違うなぁ。名前が覚えられない、というより、顔と名前が一致しないって言えばいいんですかね。O島U子さんという方がいらっしゃるとしましょう。その人がもし、あくまでもし、ですよ、あくまで『仮定』の領域内での話ですが、その方が一般的ないわゆる美人! 街中でスレ違ったら百人中七十三名ほどが「おぉ、こりゃあ間違いなく美人ですわ」と言うような程度の美人だと設定します。私はね、一回見ただけじゃ、いや、一回どころじゃない、三十回、四十回見てもその人の顔が覚えられないんですわ。今まで通算で五十回、そしてO島U子さんが私の目の前に通算五十一回目テレビにて見かけるとします。へっへ、いや、ダメなんですね。「あれ、この人知らない人だなぁ。一体誰だろう、ふむふむ」とかなんとか思いながらテレビを見ているわけですよ。まぁそこまで食い入るように見つめてる訳じゃありませんよ。何か作業の片手間で、です。んで、しばらくしたらテレビの字幕で説明が入るわけです。この女性の名前はO島U子である、と、その段階に至って初めて気づくわけですよ、「あぁ、この人がO島さんだったか。いやー、でもおかしいなぁ。前にも視たはずなのにどうして忘れちゃったんだろう、ってね。もしかしたら整形でもしたんじゃないかな、って要らん詮索までしちゃうわけですよ。まま、実際は整形なんてしてないわけですが。あ、これは、別にその人が生涯に一度も整形をしていないとかなんとか言っているわけじゃありませんよ。顔のパーツ、目とか鼻とか、口とかが著しく中央に集まっているようなちょっと普通じゃない顔の方が覚えやすいというのもまた真理なんですが、とりあえず私が間違えた直接的原因が整形にはない、と言ってるだけでありまして、別にO島さんがどうのこうのという話ではありません。
で、こんなに長々と結局私が何を言いたいのかと申しますと、まぁ、人間の記憶なんてそんなもんだ、と言いたいわけです。で、百の失礼をお詫びして申し上げたいのですが、記憶が曖昧、記憶がボケている、とか、そういうのは詐病することができる、というのもよく聞く話でしてねぇ」
残念ながら白銀にとって決して愉快な気持ちとは言い難い気持ちになった。そりゃ当然だ。こっちは正真正銘、とは言っても確かに僕にしか証明できないことなのかもしれないが、本当に記憶を失っているのだ。それも、大した記憶じゃないような記憶だ。そんなような部分の記憶喪失に、詐病だどうのこうのって、まるでこちらが詐欺師のような扱いを受けるのはごく控えめに言って、かなり腹立たしいことだった。
「富樫さん、つまりあなたはそれが言いたいだけなわけですね。つまり、僕は記憶を失っているフリをしているのではないか、と」
「いえいえ、そんなそんな」と手を振った。
「そういった可能性があると、ひとつの仮説を提案をしたに過ぎません。いえいえ、仮説と言うのもおこがましいものだ。そういったお伽噺がこの世にはあるんだよ、と、ちょっとした気分転換で言ったに過ぎません。アフリカの子供に金太郎の昔話を教えてあげるのとまったく同じです」