第9話 富樫弁護士との対談Ⅷ
「
いや、こちらの配慮が足りませんでした。お詫びします。実はですね、被害者女性について名前を言うことができないのです」
「言うことができない?」
ふざけた出し渋りの態度に怒りを覚えつつ返事をした。
「そうです。本当に申し訳ありません。話をする順序を間違えてしまいました。こちらの完全な手落ちです。てっきり、1年前からこちらの村に住んでいるので、もう知っているものかと勝手に思ってしまったものですから」
「でも、殺人事件の被害者ですよね? 警察の管理からそういった個人情報が漏れ出るっていうのは普通にあり得ないとは思うんですが」
正論中の正論を返してやった。
「いえね、たしかにその通りです。……一般論では」
「一般論では」白銀は繰り返した。
「ここは一般論が通じない世界なのでしょうか? そんなことはないと思うのですが」
「えぇ、そうです。大筋では、その通りなのでしょう。まぁ、早い話がここの村は典型的な村社会の地です。昔ながらの何かしらカルトじみた宗教、因習までは残っちゃいませんが、根強い隣人付き合いなどは今も絶えず残っております。それが良いことなのか悪いことなのかは知りませんよ? そんなことを私に聞かないでくださいね。まぁそれはともかく。
そういった場所では個人情報、プライバシーの観念など驚くほど皆無です。プライバシーなんて無いようなものだと本気で思っているような方々が住む村ですからね。未だに自分の家に鍵をかけないような連中ばっかりですよ。さすがにひと昔前よりかは減りましたがね、それでもそこら辺適当に歩いていれば1軒2軒、鍵をかけていない民家が見つかります。窓ももちろん開けっぱなしです。
まぁ……、それと警察の情報管理を同列に語るのはまずいものかと思いますが、それでも実際、この村を管轄する警察署の情報管理能力は落第点のレベルです。木から落ちる猿以下です。そんな状況を知っている私ですから、まぁ、今回の事件の被害者女性の名前も例によって外に漏れ出ていると勘違いしてしまったのですよ。誠に申し訳ありません。
誠に申し訳ないのですが、私の口から被害者女性の名前を口にすることはできないのです」
「しかし、富樫弁護士は知っている。そうでしょう?」少し強い口調で詰問した。
「え、えぇ……まぁ、知らないこともないです」
富樫は明らかに動揺していた。目の焦点は定まっておらず、語尾が薄い。
「だったら別に、僕に教えてもいいんじゃないでしょうか。別に減るものじゃありませんし」
もちろん、多少強引な物言いである、ということはわかっている。しかし、白銀としても、橙坂森少女惨殺事件に深く関連しているとまで言われてしまったのだ。多少の強引さは許されるはずだ。
「いえ……えっと……それが、ですね。こちらとしても、もし、ですよ。このような事件があって、そのような要請を相手方がされましたらね、いつもだったら私もお教えするんです。もちろん、普通ではない方法で手に入れた情報ですので、相手方にはもちろん誰にも喋らないようにと釘をさしてですが、お教えはするんです。しかし、今回はちょっと事情が違いまして……」
演技ではなく、本当に狼狽しているようだった。説明も先ほどまで見られた冷静さは微塵も感じられない。
「じゃあまぁいいでしょう。被害者の名前は別に教えてもらわなくても構いません。その代わりにその教えられない事情というのは話してもらってもいいですよね?」
そう言うと、富樫は苦虫を潰したような顔をした。明らかに嫌がっている顔だ。
「少し時間を頂いてもよろしいでしょうか……」
聞いているのも辛くなるような、そんな声だった。
「もちろん構いません」
それに大して白銀は淡々と、それだけを答えた。
少しだけ間が空いたので、店員からもらったおしぼりで顔を拭き、水をコップ一杯一気に飲み干す。そして、おかわりを注ぐ。できるだけ時間をかけるように、ゆっくりと。そして。
「わかりました。お教えします」
まるで5kmを一気に走って来たランナーのような顔をして、富樫は白銀に言った。
「ですが、その、申し訳ありません。大変お手数をかけるようで申し訳ないのですが、私がこれから言うことを、決して誰にも話さないでいただきたいのです」
額に汗を滲ませながら言う富樫の行動は、まさに懇願だった。
「わかりました。その約束は、必ず守ります」
その鬼気迫る懇願に負けて、こちらがなんとなく折れるような形となった。
「ありがとうございます。そうですね、私がなぜそのことを言えないのか、つまりは、なぜ被害者少女の名前を言えないのかといいますと、早い話が警察組織に所属して、今回の事件の捜査に関わった者以外の人物は被害者少女の名前を知りません。被害者少女の父親がですね、かなり強く警察に要望したから、だそうです。普通でしたら被害者側の氏名というのは公開、報道されるものなのですが、今回は例外ということで公開はされませんでした」
「僕が聞いているのは、そこの部分の事情だと思っていたのですが」
「えぇ、えぇ。その通りです。回りくどくて申し訳ありません。大丈夫です、忘れていません。今のは背景の説明ですので。と言っても、話の本番というのは一言で済むことなのです」
「それは…………?」
「いえ、簡単なことです。被害者の少女は物理的な暴行の他に、まぁ、他のことはお察し頂きたいのですが、様々な、凄惨な暴力を受けたことが、明らかになったからです」
富樫弁護士との対談1回目はこれで終わりです。
な、長かった・・・。