物語はまたここから始まる
アルフォンスに車いすを押されて、キルシェはパーティーの会場に踏み入れた。これはキルシェの婚約者であるロウエルの誕生祭、この国の王子の生誕祭である。
心臓が張り裂けそうなぐらい脈打っていて、なんだかもう痛いぐらいだった。威厳ある貴族の面々、品の良さそうな貴夫人に令嬢、それら全ての人間の視線がキルシェに集まっているのだ。キルシェはロウエルの婚約者なのだから貴族ではあるが、このように衆目にさらされたことは未だかつてない。このパーティーは、ロウエルの誕生を祝うと同時にキルシェのお披露目でもあるのだった。
「大丈夫ですよ、隣には必ず殿下がおります故。ついでに私もおります。キルシェ様の車いすを手放したりしませんから」
「わ、わかって、ます、わかってはいるんですけれどっ……」
視線を飛び道具だと思ったことはなかったが、これは確かに降り注ぐ矢の様である。視線で人が殺せる、という言葉を聞いた時はそんなまさかと思ったが、あながち嘘でもなさそうである。現に死にそうだ。
ロウエルは既に一段高い席に座っていて、キルシェもアルフォンスによってロウエルの隣に並べられた。ロウエルはちらりとキルシェに笑みを向けると、盃を持って立ち上がる。
「本日は、俺の生誕を祝うためにこれほどの人たちに集まってもらえたこと、感謝する。どうぞごゆるりとご歓談を楽しまれよ」
乾杯、とロウエルが高らかに宣言する。キルシェもなんとか取り落とさず盃を持ってそれを高くさし上げることは出来たが、口にすることは出来なかった。飲むふりだけ、と盃に口をつけ唇を葡萄酒で濡らすだけにとどめる。味はわからなかった。
前菜から順にフルコースで料理が運ばれてくる。ずっと席に座り続けているのはキルシェとロウエルだけで段下の人々は立食スタイルである。本来ならばキルシェとロウエルもそこに加わるのだが、キルシェが車いすであるということを考慮に入れた上でこうなった。―――のだが、キルシェも立食のブッフェ形式が良かった、とメインディッシュに差し掛かる前に悲しく思った。どうあっても食べきれないのである。
キルシェは子供もびっくりな小食だった。それが足の治りを緩やかにしているとはいえ、胃が小さいのに無理に詰め込むことは逆に不健康である。運ばれてくる皿は食べきらなくても良いとアルフォンスが耳打ちしたが、キルシェはそれどころではなかった。一口二口食べるだけで、緊張も相まって満腹感が襲ってくるのだ。これではメインディッシュなど一口も食べられない。食べきらない以前に、全く手をつけられないのだ。
「もういい」
すっとロウエルが人の波が途切れたところでキルシェに言った。もう食べなくていい、と。キルシェはカァっと全身が熱くなって、奥歯がかみ合わなくなる。
「無理に食べるな。デザートは食べられるだろう?」
そうしてロウエルは配膳係に全て飛ばしてデザートだけ持ってくるように告げる。それはもちろんキルシェを気遣っての提案だったが、ロウエルに恥をかかせるまいだとか外聞を汚すまいだとか色々考えていたキルシェには、ロウエルを失望させてしまった、としか思えなかった。車いすの後ろに控えているアルフォンスにだけはそれがわかったが、また波のように押し寄せてくる来賓と談笑しているロウエルにそれはわからない。
キルシェはデザートが来るまでの間ぎゅうっと拳を握りしめて、しかし話しかけられると笑顔で対応した。ご機嫌麗しゅう、初めまして、そういった決まり切った文句に、たどたどしくもきちんと返事をするキルシェは来賓の全ての人間に好印象を与えたことだろう。悪い考えを打ち消せずにいるのはキルシェだけである。
「ところでキルシェ様、キルシェ様は殿下にどのようなプレゼントをご用意されているのです?」
「え?」
「私は殿下の耳を飾るピアスをご用意いたしましたのよ」
「おや、私は何よりも速く駆ける駿馬をご用意しましたよ」
私は、私は、私は―――。次々とあげられていくプレゼントの余りの豪華さときらびやかさに、キルシェは軽く目まいを覚えた。そうだ、そうだった、ロウエルはこの国の王子、王位継承権第一位の尊きお方、そんな人間に贈るプレゼントが贅をこらしたものでないはずがない。キルシェは、懐に忍ばせていたプレゼントを服の上からそっと押さえて、奥歯を噛みしめた。唯一そのプレゼントの正体を知っているアルフォンスは―――ここに来る前に聞いていたのである―――気にせずともキルシェのプレゼントが一番だけどな、とキルシェの小さな頭を後ろから見ながら思った。
「それで、キルシェ様、キルシェ様は一体どのようなプレゼントを?」
「―――申し訳ありません皆さま、お教えできないのです」
「あら、どうして?何か……」
「わたくし、ここへ来る前に殿下とお会いできなかったもので、まだ殿下にプレゼントをお渡ししていないのです」
あら、とキルシェを囲んでいた面々が軽く目を丸めた。令嬢や婦人方は口元を優雅に隠しながらくすくすと笑う。
「それは仕方がありませんわねぇ」
「そうだな、我々が殿下より先にプレゼントの内容を知ることなど出来ようはずもない」
「それになにより、今話してしまっては殿下にも知れてしまいますもの」
手渡ししたい、という無垢な少女のささやかな願いを無碍に出来るはずもなく、人々はくすくすと笑いながらプレゼントの話を流していった。キルシェは、上手く笑えていただろうかと手をさすりながら考える。上手く笑えていたらいいのだけれど。
*****
パーティーもお開きの時間となり、最後にロウエルはまた感謝の言葉を述べた。そうして段から下り、今度は人々と同じ目線で軽く話しあい去っていく人々を見送る。キルシェは、その場でゆっくりと手を振るだけだった。ロウエルに、そこでいいといわれたから。
「何を考えていらっしゃいます?」
「え?」
手を振っている最中に話しかけられ、キルシェは後ろを振り返った。しかしアルフォンスは前をしっかり見ているので、キルシェも再び笑顔でこちらにお辞儀していく人々に手を振り続ける。
「隣に並べていただけないのは……」
私が至らないからか、と言葉を飲み込んで拳を握りしめる。
「それは絶対にありません、気遣ってのことですよ」
そうかしら、とキルシェはロウエルを見た。私を並べたくないのではないかしら。
「それにしても、みなさん、素敵なプレゼントばかりでしたね……」
「……私は、キルシェ様が用意されていたプレゼントも十分素敵だと思いますよ」
「ありがとう。でも、あんな……」
来賓の人々が全て部屋から出たのを確認して手を下げながら、キルシェはそっと目も伏せた。服の上からプレゼントを押さえて、微かに唇をかむ。
煌びやかな宝石でもなく、何よりも速く野を駆ける駿馬でもなく、ただの布切れである。
「では、買い物にでも行かれますか?」
「え……そう、そうね、そう……しようかしら……」
「殿下はまだ公務がございますし、こっそり出れば、」
「こっそり出れば、なんだって?」
後ろからひやりとした声が投げつけられ、キルシェは振り返った。いつの間に後ろに回っていたのかそこには仁王立ちのロウエルがいて、その表情は憤怒に彩られている。
「アルフォンス!!」
「はい、殿下」
「お前は、俺を出し抜いてキルシェと二人で出掛けるというのか!」
「あ、いえ……それは……その……」
まさか『ええ、殿下へのプレゼントを選びに!』などと口が裂けても言えるはずがなく、アルフォンスは曖昧に口を濁らせた。するとロウエルにはまるで聞かれたくない話を聞かれて戸惑っているように見え―――まぁ事実そうなのだが、意味が少しばかり違う―――憤りはさらに激しさを増す。
「キルシェ、お前は……アルフォンスといる方が楽しそうだな……!」
ロウエルは、見ていたのだ。さりげなく、けれどしっかりと、二人が会話しているのを。そして、キルシェが微かに微笑んだりするところも。
「ロウエル様……?」
「本当は俺ではなく、アルフォンスと結ばれる方が嬉しいのではないか?初めからずっと、自分は俺と釣り合わないなどと言っていたしな……!!」
「殿下!!」
アルフォンスが、キルシェの車いすから手を離してロウエルに向き直った。
「お言葉が過ぎます殿下、いくら……」
「なんだ、庇うのか!?」
キルシェは、もう聞いていたくなくて無意識に車いすを走らせていた。ああそうだ、ずっと思っていた、自分はロウエルには釣り合わない存在だと。自分の言うことを然程聞いてくれないこの足に、貴族とは名ばかりの血筋だけ重ねた家柄。今日のパーティーの参列者たちの様に、ロウエルに気の利いたプレゼントすら用意できない自分。令嬢たちは自分の腰をコルセットで綺麗に矯正して、豊満な胸とのコントラストで己を持って生まれたもの以上に綺麗にしている人たちばかりだった。それに比べて自分は、コルセットを締めることも出来ず、胸もそうなく、見事な幼児体型。すらりとした長身のロウエルとは見た目においても釣り合いがとれなさすぎるのだ。
ロウエル様は何故私を婚約者にお選びになったのだろう。キルシェはしばらく行った場所で止まり、溢れ出る涙を両手で覆いながらそんな事を思った。今だけでなく、今までずっと思い続けたことだった。
どれぐらいの間そこで静かに泣いていただろうか。人気のないそこはパーティーの後片付けをする使用人すら通らず、キルシェはただ静かに泣き続けていたのだが、とうとう後ろから人の足音が聞こえて、キルシェは慌てて涙を拭った。
「キルシェ様、やっと見つけましたよ……!」
「アルフォンス……」
アルフォンスは、キルシェの顔を見てやはりとため息をついた。目が赤くなっている。
「ほら、行きますよ」
「ど、どこへ……?」
「殿下のお部屋に決まっているじゃありませんか」
どうして、とキルシェは放心したように言った。私はロウエル様に嫌われてしまったのではないのか?
キルシェの考えていることがアルフォンスには手に取るようにわかって、自らの主を心の中で罵った。泣かせてどうする、嫌っていると思われてどうする。
「用意したプレゼントは持ってらっしゃいますね?どこかで捨てたりされてませんよね?」
「も、持っていますけど……でっ、でもこれはっ……!」
「いいですから、キルシェ様はそのままでいいのですよ」
わけがわからない……とキルシェは自分の車いすを押すアルフォンスを振り返る。だがアルフォンスは前だけ見ていてキルシェには目も向けなかった。どうやら答えは持っているだろうに教えてはくれないらしい。
そのままキルシェはロウエルの部屋まで運ばれ、アルフォンスは心の準備をする暇もなくドアをノックした。中から声が帰ってくればためらうことなく開け、キルシェを中に入れる。そうして、ドアの前でキルシェの車いすを止めると、あろうことかそのまま下がって行こうとした。キルシェはまさかここで放置されるとは思わずにアルフォンスを振り返るが、アルフォンスはジトリとした目でロウエルとキルシェを見て、逃げ出すことは許しませんからね、と子供に言い含めるようにゆっくりと言う。そうして、ぱたんと扉は閉まってしまった。
どうしたらいいのかさっぱりわからないままキルシェはおろおろと手遊びをするが、ロウエルはソファにふんぞり返るように座ったままキルシェの方へ顔すら向けない。また涙が溢れそうになるが、キルシェはとりあえず車いすの車輪に手をかけ、そっとロウエルの方へ向けて転がした。
「あの、ロウエル様……大変遅れましたけれど、あの……本日は本当におめでとうございます……」
ロウエルまで男の歩幅であと一歩というところまで歩み寄ったキルシェは、やっとのことでそんな言葉を絞り出していた。ロウエルはちらりとキルシェに目をやって、小さくため息をつく。泣いていたのは見ればすぐわかった。これではまるで子供みたいだ―――とは思うものの、キルシェ相手にはどうにも自分をコントロールできないのだから困ったものである。
「こっちへ来い」
「え?」
「それではなく、こっちへ来い」
立ちあがって、ロウエルはキルシェの前に両手を差し出した。キルシェはしばらくその両手を見つめて、おずおずと手を乗せる。キルシェは、車いすに乗ってはいるが全く歩けないというわけではない。短い距離ならば、何かを支えにすれば歩くことはできるのである。最近では支えがなくとも数歩ならば歩けるようになったので、もっと頑張ればいずれは杖さえあれば車いすなしでも生活できるようになるかもしれない。
キルシェはロウエルに支えられながら、なんとかソファに座った。これぐらいの距離ならば何ともないはずなのにいつもよりもうんと時間がかかったのは、ロウエルが支えたからだろう。それはもちろんロウエルの支え方が下手だとかそういうことではなく、単純にキルシェが緊張するのである。しかもソファに座ると、当たり前だがロウエルも隣に座るのである。椅子を二個並べて隣に座るのと、ソファで隣に座るのとでは距離の感じ方が雲泥の差だった。
「さっきは……悪かった」
「あ……」
「俺は何とも……心が狭くていけないな」
ふ、と自嘲気味に微笑んだその顔を見て、キルシェの中で何かが動いた。ついさっきまで渡すかどうか悩んでいて、むしろ渡さない方に傾いていたはずなのに、何故か無性に渡さなければと思ったのだ。
「っ、あ、あのっ、ロウエル様、こ、これをっ……!!」
キルシェは意を決してロウエルに綺麗に包装したプレゼントを差し出した。
「これは……、……あけても?」
「ど、どうぞ……」
薄っぺらなそのプレゼントは、中に淡いグレーのハンカチが入っていた。男性用のため華美ではないが、手触りがよく上等なことはわかる。それに何より、隅に小さくロウエルのイニシャルと―――
「さくらんぼ……?」
「あ、あの、先程は、さき、さきほど買い物に行こうとアルフォンスと話していたのは、ロウエル様のプレゼントを選びなおそうと思っていたからで……」
決して二人きりで出掛けることに意味があったわけではない。それをしどろもどろに伝えるも、ロウエルはキルシェの話を聞いているようには見えなかった。ただじっとハンカチを、隅の刺繍を見つめている。
「これは……」
「はいっ!?」
「この、さくらんぼは、」
「そ、そそそそれはですね、それはっ……わ、わたしがキルシェなので……その……」
ロウエルがようやくキルシェの顔を見る。その、真っ赤になってまるで本当にさくらんぼになってしまったかのような小さくて愛らしい顔を。
「お前が刺繍したのか?」
「そ、そうです……。ですから!ですからそんなしょうもないものを差し上げるのに抵抗があって、買いなおそうと……」
「ありがとう」
「え……?」
今日初めて、ロウエルが滲むように笑った。パーティーの開幕を宣言するときの、王子としての笑顔ではない。ほろりと不機嫌さが崩れ、花が綻ぶように自然と滲んだ笑顔だった。キルシェはそんな笑顔を向けられ、反射的に顔を赤くする。この顔は、キルシェが初めてみるものだった。
「今日貰った何より嬉しい」
「で、でも、そんな……高価でも何でもないようなもの……」
「金なんか関係ないんだ。そりゃあお前からもらえたら高価なものも他の誰より嬉しいが、そういうことじゃないんだ」
ハンカチに刺繍する間、キルシェはロウエルの事を考えていた。一針一針、想いをこめるようにロウエルのイニシャルを刺し込んでいったのだ。ついでに隣にさくらんぼを刺繍するときなど自分とロウエルが並んでいる様子を想像して、恥ずかしさにもだえそうになりながらも刺しきった。隣に並べて欲しいと思ったからだ。
「お前の気持ちが入っているのが大切なんだ。―――キルシェ、他の誰にどれほど金を積まれたって、お前の心のこもったこのハンカチに勝るものなどないんだよ」
ぽろ、とキルシェは無意識に涙をこぼしていた。ロウエルは一瞬慌ててキルシェの目元をぬぐう。
「私は……嫌われているのだと思っていました……」
「ばっ、ばか、何故そうな……いや、俺のせいだな、済まない。だが、思っていたということは、もうそうではないんだな」
当たり前だ、あの笑顔と、与えられた言葉。それはさながら熱烈な愛の告白だったのだから。
「でも、ずっと不思議だったのです、何故私なのか……それだけは、今もわかりません」
「それは……」
キルシェの涙を貰ったハンカチでぬぐって、それに口付ける。そうして、ロウエルは温かな笑みを浮かべた。
「キルシェがキルシェだからだよ」
きょとん、とキルシェが目を丸める。
ああそうさ、お前は知るまい、とロウエルは笑った。婚約者を決めるパーティーで数ある令嬢たちが我先にとロウエルに群がる中、車いすだったとはいえキルシェはただ壁でそっとロウエルを見ていた。そして、その時自分を見ていた笑みに、心を射抜かれたのだ。
「お前に俺の隣で笑ってて欲しいと思ったんだ。まぁ……失敗はしたが、これからは、がんばる」
そこでようやくロウエルはアルフォンスに嫉妬したのだと気付いて、キルシェはまた一人顔を真っ赤にするのだった。
―――と、いう夢を見たのでそれに肉付けしてお話に仕上げてみました。起きぬけに寝ぼけたままメモを取るぐらいには気に入った夢だったので。気に入って下されば嬉しいです。