サクラ
『泣くな坊。強くあれ、男であろう。強くなれ。』
「おい、八尋。起きろって。」
身体を揺すられる感覚に意識が浮上する。
何か幸福な、温かい夢を見ていた気がした。
「八尋、榊八尋君!」
未だボーっとしていた俺の頬を両手で掴みながら、友人の修哉が叫ぶ。
その手を払いながら俺は気だるげに彼を見やった。
「うるさいな。なんだよ人が折角寝てたのに。」
「いやまぁ疲れてるのは分かるけどな、そんなんで良いのかよ浪人生。」
「お前だって浪人してるだろうが俺だけ責めるな。で?何の用だよ。」
「桜見に行こう!」
彼の言葉に終にこいつも疲労で頭がやられたのかと思った。
「見に行こうってお前…。今何月だと思ってるんだ。」
窓の外では青々と木々が生い茂り、そろそろ蝉の声が聞けるだろうかという雰囲気であった。
「それが一か所だけあるんだって!この暑苦しい7月頭に満開の桜が。」
「は…?」
「ほら、F病院の近くに小さな池があるだろ。そこに一本だけあるんだと。」
修哉の話に俺は気まずさで顔をやや背けた。
思い出したくない出来事が浮かんできそうだった。
何よりそのような奇怪な場所には近づきたくなかった。
何故ならそんな場所には多いからだ。この世のものではないもの達が。
「おーほんとに咲いてる!」
無理やり連れられ訪れたその場所には満開の桜がそびえ立っていた。
その現象に騒ぎ立てる修哉に呆れつつ桜に近づき、俺は持ってきた参考書を開いた。
「なんじゃ相も変わらず人というものは騒々しいの。…まぁ、花を愛でずに書に読みふけるよりはマシかの。」
突如聞こえた女の声に俺はギクリとした。
そろりと頭上を見上げると桜の太い枝に一人の女性が腰かけていた。
赤く長い髪をなびかせ、それより幾らか深みのある紅の瞳を持つ彼女は美しさを絵に描いたようであった。
俺の視線に気づいたらしい彼女は一瞬キョトンとすると可笑しそうにクスリと笑った。
「これはまた珍しい。久しいの、そなた見える者か。」
彼女の言葉に俺は慌てて参考書に顔を向けた。
目線だけで少し離れたところの修哉を見る。
「知らぬふりとは失礼な坊じゃな。」
「…はぁ。話しかけるなよ。俺はお前たちみたいなのとは関わりたくないんだ。」
目線は手元の文字を追いながら小声で返す。
彼女はそれに構わず笑みを深めたようだった。
幼い頃から、この世のものではないものが見えた。
天狗や河童のような所謂有名どころから名も知らぬ小さなものまで、様々なものが見えた。
どうやら母方の祖父の血を受け継いだようで、彼もまた俺と同じような目を持っていたらしい。
そのおかげもあり、家族は俺の話も信じてくれたし受け入れてくれた。
しかしそのことを他人には話してはいけないと教えられてきた。
「悲しいことを言うの、坊よ。」
「坊じゃない、俺には八尋っていうちゃんとした名前があるんだよ。」
俺の言葉に彼女はクスクスと笑い声をたてた。
気分を害し俺はじろりと彼女を睨みつけた。
「我らのことは見えるのに何も知らぬのじゃな、八尋とやら。軽々しく名を教えるものではないぞ。名さえ分かれば呪いをかけることも出来る者は多い。気を付けることじゃな。」
彼女の話に俺は冷や汗が背中を伝うのが分かった。
「わらわは毎日退屈じゃ。八尋、そち、偶にで良い。ここへ来て話し相手になってはくれぬか。」
ふわりと微笑む彼女に、俺は何を思ったのか知らぬ間にコクリと頷いていた。
それから俺は時間を見つけてはその桜の元へと足を運んだ。
「八尋、よう来てくれたな。」
「あぁ、美桜。」
彼女の名前は美しい桜と書いて「みおう」だと教えてくれた。
その名の通り、桜はいつまでも満開であった。
美桜は自分を桜の精だと言った。
俺が桜の根元に腰を下ろすと、美桜は枝からふわりと降り、俺の隣に腰かけた。
「また書物を持ってきおったのか。たしかそなた医者志望であったか。」
俺の手元の参考書に目を落とし、美桜が言った。
俺は小さく頷いた。
美桜はただ黙って傍に居た。
俺が話しかければ楽しそうに答えたが、それ以外は自分から話すこともせず、ただ黙って傍に座っていた。
「なあ、美桜、お前黙って俺のこと見てるだけで楽しいのか。」
「あぁ、楽しいな。とても。」
嬉しそうに笑いながら俺の前髪に触れる美桜に、俺は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
俺は彼女のことが愛おしくなってしまっていた。
紅の髪と瞳も、それと対照的に雪のような肌も、名前の通り花の綻ぶような微笑みに鈴の鳴るような可愛らしい声も、彼女のすべてが俺を魅了した。
けれども…。
「なぁ、美桜。」
「なにかな?」
「俺に重ねて誰を見てるんだ。」
俺の問いに美桜は笑みを隠した。
「さてな。」
美桜はふわりと宙へ舞うと枝の上に腰を下ろした。
この手の話をすると美桜はいつもそこへ戻り、俺に見向きもしなくなってしまう。
そうして俺もそれ以上話しかけることなく受験勉強に勤しむのだった。
季節はもうじき八月も終わろうとしていた。
「美桜。」
「八尋、今日は試験とやらがあったのではないのか。」
「終わってから来たんだよ。」
美桜はいつも通り俺の隣に降り立った。
「あれ?美桜、その髪の毛どうした?」
俺は美桜の髪を一房掬いながら問うた。
美桜の髪の一部が白銀に染まっていた。
「あぁ、何のことはない。天気が悪いと髪がこのようになることがあるのじゃ。」
「…へー。そうなのか。」
そう言われれば最近天候が悪いことを思い出した。
俺がそう言うと美桜はふわりと微笑んだ。
その日から、美桜の髪は様々な所が白銀になっては元の色に戻り、また違う部分が白銀になっては元の色に戻るのを繰り返していた。
それでも俺は美桜の最初の説明を信じて何も聞かなかった。
そんなある日彼女の元へ行くと普段通り枝に乗っていた。
ただいつもと違い幹に体を預け気だるげに見えた。
「美桜?どうした。」
「ん、あぁ、八尋か。」
俺は自分を見下ろす美桜に違和感を覚えた。
美桜は初めて枝から降りては来なかった。
「美桜、目、どうした?」
俺の言葉に微笑む美桜の両の目は白銀に輝いていた。
その時だった、近づいてきた静かな足音に、俺は咄嗟に木の裏側へと回った。
「神様、もう少しでおじいちゃんの病気が治るってお医者様が言っていました。神様が桜を咲かせてくれていたおかげです。ありがとうございました。」
5、6歳ほどの男の子であった。
男の子は両手を合わせながらそれだけ言うと拙い足取りでとてとてと帰って行った。
「おい、美桜、今の話は何だよ。」
俺の言葉に彼女は柔らかく微笑んだ。
「春ごろからな、あの坊はずっとわらわの元を訪ねては同じ願いを告げていた。‟神様どうか、桜をずっと咲かせてください”とな。あの坊の祖父は病を患っているらしくてな、医者に言われたのだそうだ。桜が散る頃まではもたぬだろうと。あれの祖父も、桜が散るまでは、と頑張っていたのだろうな。その意志が病を払ったのだろう。」
美桜の話を俺は黙って聞いていた。
声を発することが出来なかった。
季節は紅葉の煌めくころとなっていた。
俺に構うことなく美桜は続けた。
「しかしこの桜一本のために神は動かぬ。それは神の領域を越えておるからな、勿論程度が低いという意味でじゃ。けれどこの桜を咲かせ続けることくらい、わらわの力で十分じゃ。…そうか、あの坊の祖父は助かったか。」
嬉しそうに美桜が呟くと同時に、それまで悠然と咲き誇っていた桜が一斉に散り始めた。
「美桜!」
俺の呼びかけに彼女は微笑むだけだった。
彼女の瞳はもう俺を写してはいなかった。
白銀の瞳は既に何も見えてはいなかった。
「八尋、わらわはそなたの祖父に、ずっと恋焦がれておった。そなたに重ねていたのはあの男じゃ。わらわとあやつは何度も逢瀬を重ね、そして奴はそなたの祖母と縁を結んだ。なに、所詮は住む世界の違う者同士、結ばれる縁など元よりない。人の一生は恐ろしく短い。特にそなたの祖父はそうであったな、八尋。」
言われて俺は俯いた。
美桜は続けた。
「八尋の祖父とあの坊の祖父は同じ病に侵されておった。わらわはもう同じ死にざまを見とうなかった。お前のように泣きわめく童も見とうなかった。」
美桜の言葉に、俺はばっと顔を上げた。
『泣くな坊。強くあれ、男であろう。強くなれ。』
夢の中で何度も聞いた言葉がふと頭を蘇った。
俺が五つの頃祖父は病でこの世を去った。
俺がずっとF病院に近寄りたがらなかった理由はそこにあった。
おじいちゃん子であった俺はワンワン泣きじゃくりながらこの桜の木の元へとやって来た。
その時出会った美しい女性に、頭を撫でられ言われた言葉だ。
「美桜だったのか…。」
驚きに満ちた俺に、美桜は優しく微笑んだ。
「始めは気付かなかったがな。もう一度会いたいと思っていた。…そなたが泣いていなくて良かった。」
美桜の髪はどんどん白銀に変わり、変色した順にキラキラと輝きながら消えていった。
「美桜、お前、消えてるぞ!」
慌てる俺とは対照的に美桜は笑みを深めるだけだった。
「花の寿命を引き延ばすということは時間の流れを捻じ曲げるということじゃ。わらわの命を削るほか手立てはなかった。けれどこれで良いと思った。最後までこうして八尋と共に過ごせた。礼を言う。」
「美桜!待ってくれ。」
美桜は手足までもが光の粒に変わり始めていた。
美桜は微笑みながら俺の頬に触れた。
「医者になれ、八尋。死の恐怖を知っているそなたは同時に命の尊さも知っている。良い医者になる。そなたの手で多くの人を救え。お前のように悲しむ人を生み出すな。よいな?」
美桜は最後に俺の頬に伝う雫を拭い笑った。
桜の花がすべて散るのと同時に美桜は光の中へと消えた。
「榊せんせー!おばあちゃんの病気治してくれてありがとー!」
俺のもとに走って来た少女はそう言って花のような笑みを見せた。
俺は彼女の目線に合わせるように膝をつき彼女の頭を撫でた。
「おう、おばあちゃん大事にな。」
そう言うと彼女は元気に返事をして去って行った。
俺は今、F病院で働いている。
あの日から咲かなくなった、桜の木を見つめながら。