猫様失踪事件
◇
前回の話より前の事だが、Q太郎が初めて失踪した時は本当に生きた心地がしなかった。
食いしん坊の猫が朝出て行ったきり、翌朝になっても戻らない。心配で仕事どころでは無いが、それでもなんとか仕方なく仕事に行き、頭の中はQ太郎の事で一杯になりながら業務をこなしていた。
「そうだ、保健所だ。保健所で訊いてみよう」
もし、心無い人がQ太郎を保健所に連れて行ったとしたら直ぐに判る筈だ。それに、我が家の近所で、“保健所がノラ猫を大量捕獲している”と云う妙な噂が流れていたので気になっていたのだ。
しかし、当時の私の保健所の職員のイメージは“動物の命を何とも思っていない冷酷な人”だ。
「うへへへ~! 犬も猫も皆死んでしまえ~! うひゃひゃひゃ~」と、そーゆーアブナイ人をイメージしていた。
そんなアブナイ人と会話をするのは気が重い。
しかし、そんな事は云ってられない。もし、本当に保健所に収容されたら殺処分までの猶予は三日しかない。Q太郎を救出しなければ!
私はナチスに立ち向かうレジスタンスのように覚悟を決めた。
「はい、○○市保健所です」
意外にも、電話に出たのは若い女性だった。見た訳ではないが、声の感じから若い優しげな女性だ。しかし、油断は出来ない。このうら若き女性もナチスの一味なのだ。
「あのー、そちら、ノラ犬やノラ猫を収容している所ですよね?」
保健所と云っても業務は多彩だ。一応私がそう訊くなり
「はいっ! その通りですけどっ? 一体何の御用でしょうかっ!」
さっきまで“二十三才独身、趣味はフラワーアレンジメント”と云ったイメージの女性の声は一変して“四十五歳バツイチ、場末の潰れかけたスナックのママ”のようにトゲトゲしたものに一変した。
ついに正体を現したな? ナチスめ。
と、構えるも、あまりの女性の剣幕にしどろもどろになりながら
「あのう……ウチの猫が居なくなっちゃって……もしかしてそちらに連れてこられたんではないかと思いまして……」
と、云うと女性はまた元の“二十三才独身趣味はフラワーアレンジメント”の乙女の声に戻ったではないか。
「まあ、そうだったんですか。それは心配ですね。でも、あいにく現在猫は収容されていないんですよ、犬ならともかくノラ猫が歩いていても気にする人はあまり居ないので」
心底心配しているといった声である。それどころか
「もし、お宅の猫ちゃんが連れて来られたらお知らせしましょうか? 毛色などはどんな風ですか?」
泣けて来た。
さっきこの女性の声がトゲトゲしかったのは、私の事を“衝動でつい犬か猫を飼っちゃったけどもて余して保健所で処分してやろうと問い合わせて来た人”だと思ったからだろう。
きっとこの女性は仕事で仕方なく保健所の動物保護課に居るが、本当は日々、犬や猫が人間の勝手な都合で命を奪われる事を心の中で嘆き悲しんでいるに違いない。
私がQ太郎の特徴を伝えると最後に彼女は
「来たら必ずお知らせします。猫ちゃん、早く見つかるといいですね」
と、云ってくれた。
私の中の保健所職員のイメージは笑いながら犬や猫を惨殺する“アブナイ人”から、「ごめんね、本当にごめんね」と、心の中で謝りながら永遠の眠りにつく彼等を厳粛な面持ちで見送る人となった。
いや、中にはホントに“アブナイ人”もいるかもしれないが。
何だか少しばかり心が洗われたが、しかしQ太郎の行方は判らない。
……最悪の事態も覚悟しておこう。
そう、こんな時、希望を持てば絶望の重さが倍増する。
そんな経験を私は何度もしてきた。
いつもより長く感じた仕事が終わり、そんな事を考えながら家に帰ると、先に第二下僕のトミが帰って来ていた。
「Q太郎帰って来たよ」
……はい?
見ると、あの見慣れた黄色い目が私を見ている。
「少しスリムになったよ」
その言葉通り、少し痩せてはいるが元気そうだ。
「わー! Q太郎!」
最悪の覚悟は徒労に終わった。
Q太郎は余程腹が減っていたらしく、いつもより更に沢山のキャットフードを食べ、泥のように眠った。
数日間帰って来ないのが心配なら、いっそのこと“室内飼い”にしてしまえばよいのだろうが、多少のリスクは覚悟で、自由に出歩かせたい。という気持ちが勝っている。猫にとってどっちが幸せなのか悩むところだ。