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クランスの登場

※注意書き、という程でもないですが、この話は第5部くらいまでは主要人物の紹介に終始します。それ以降それぞれの人物が複雑に絡み合う怒涛の展開となるので、今しばらくお付き合いください。

 ある一人の老魔術師が、森の中を歩いていた。顔は皺だらけで浅黒く、大きな鉤鼻は顔の中心でふんぞりかえっているかのようだった。腰は曲がり、もう自分の足だけでは体重を支えきれないため杖をついているが、その杖を持つ手もぶるぶると震え、足取りはおぼつかない。身に纏ったコートはぼろぼろな上、所々擦り切れていてみっともないことこの上ない。彼を魔術師だと知らないものが見れば、ただの乞食に思えただろう。


 老人は名前を捨てていた。誰からも呼ばれないからだ。誰からも呼ばれないなら、名前など必要ない。名無しの老人はそうやって周りから隔絶されたこの森で、長いあいだ暮らしていた。


 生活が大変かといえばそうでもない。魔術師なのだから、ちょいと杖を振れば火も起こせるし、モノも動かせるし、おまけに動物を操ることもできたので、食料にも事欠かなかった。


 唯一困ることといえば洗濯と風呂くらいなものだ。この老齢に川の水は冷たすぎるし、いくら着るものに無頓着とはいえ定期的に服を洗わなければ臭くてたまらない。特に彼の大きな鼻はほかの人よりもよく利くらしく、100m先に咲いた花の匂いすら嗅ぐことができるほどだった。だから彼は風呂や洗濯ができないときは自分で調合した香水を身につけているのだが、この香水は魔術をかけた非常に特殊なもので、まったくの無臭で色もなく、これを付けるとどんな匂いでも瞬く間に消えてしまうという、不思議な香水だった。


 老人はかつて大陸一の魔術師と呼ばれるほど高名な魔術師であったから、こんな香水を作るくらいは造作もない事であった。彼の手にかかれば鉄を金に変えることなど朝飯前であったし、その気になれば国を一つ滅ぼすこと事も出来る。まさに魔術の天才であり、そして大陸一の賢者であった彼は、しかし根っからの平和主義者であったため、もちろん国を滅ぼすような事はしなかったし、ちょっとでも魔術を悪用しようなどとは考えもしなかった。


 魔術師というのはたいがい利己的で打算的な生き物なので、彼のような魔術師は極めて珍しく、普通の人々からは白い目で見られることの多い魔術師のなかにあって、彼だけは周りから親しまれ、またその知識の多さと見識の深さから一目置かれ、尊敬されていた。彼の名前は大陸中に響き渡り、その時の王や戦の英雄と同等か、それ以上の名声を獲得していた。


 だが彼はそんな事は一向気にせず、慎み深く謙虚に魔術の研究を勧めるばかりで、ちっとも鼻に掛けることもなければ、人々を馬鹿にするようなこともしなかったので、より一層人々から信頼され、彼を悪く言うようなものはほとんどいなかった。時として彼を口汚く罵るような者もいたが、彼を讃える声はそれよりはるかに強く大きかった。


 しかし偉大な賢者が時として世を倦んで人々から離れ隠遁することがあるように、彼もまた人々の過大な賞賛と、その能力を利用しようとして近づいてくる利己的な人々に辟易し、人目の憚らぬ深い森の奥へと逃げるようにして隠れ住むようになった。


 こうして彼は平穏無事な生活を送れるようになったのだが、世間から離れたためかその探究心は一層増し、研究に没頭する日々が続いていた。今日も山から山へと疲れ知らずに歩き回り、不思議な薬草だとか、なにか研究に使えるものはないかと探索をしていた所であった。こうして持ち帰った品々は彼の実験室へと運ばれ、彼の知的好奇心が満足するまで実験は終わることがなかった。実験が終われば、その結果を紙にまとめるのが彼の常であったが、彼の研究室はそうした実験結果の書き込まれた紙で一杯になっていた。もし知識のあるものが見れば、その紙一枚一枚に書き込まれた内容はまさしく天才的な産物であり、彼の実験室は宝が無造作に散らばった宝物庫に思えただろう。


 彼はまた実験のかたわら、自分の研究に関して書物にまとめてもいた。自分が死ぬ間際になったらこの本を親しかった友人に託し、後世へ残そうと考えたのだ。しかしこの作業は難航していた。彼の膨大な研究内容を書き留めるということだけで老齢の彼には大変なことだったのだ。しかしその苦行も、彼の寿命と同じように終へと差し掛かっていた。


 家に着いた彼は早速実験室へとむかい、部屋の隅に置いてある机に寄った。ランプを灯し、ペンをインクにひたし、最後の項を書き始めた。その項は、彼が長年研究しながら、どうしても完成させることができなかった魔術に関する項であった。彼には弟子も子供もいなかったので、本を読んだ誰かにこの研究を継いでもらおうと考えたのだ。この本を託す彼の親友は魔術の素養があったが、その性格は実直で、全幅の信頼をおけるため、悪用はされないだろうとも考えていた。それだけ扱い方を間違えれば危険な魔術だったのだ。


 老齢のため霞む目を開いたり閉じたり、筋張った関節を温めたり擦ったりしながら、この老魔術師は本を書き進めていた。日も落ちて梟が鳴き始めた頃、ようやく本は完成した。全5巻、一冊一冊が辞書のような厚さの長大な魔術書を前に、老魔術師はほっと安堵した。死ぬ前に完成できたことはまさに奇跡であった。


 もう精根尽き果てた彼は動くことすらできず、激しい眠気に襲われていた。自分の死期がすぐそこに迫っている事を感じた。口元がだらしなく開き、手先はぶるぶると震え、もうなにも見えない底知れぬ暗闇の中に彼はいた。ランプの熱さも感じず、ふくろうの鳴き声も聞こえず、すべての感覚が彼から奪われていたが、不思議な陶酔感と安心感がそこにはあった。


 がくりと首が垂れ、彼は絶命した。手に持っていたペンが床に落ち、ごとりと音を立てた。


 ここに幕は閉じた。誰にも看取られることのない淋しい最後であったが、幸福な最後であったといえよう。彼の口元にはうっすらと笑みが浮かび、その死に顔は穏やかであったのだから。それに、彼の残した5冊の書物が起こす悲劇を見ることがなかったのだから。



 老魔術師の死後から100年が経った。魔術師の住んでいた森から遥か東にあるニカ王国は、強大な周辺諸国に悩まされていた。南には広大な国土と軍事力で他を圧倒するカロン帝国が隣接し、西には魔術師によって構成された王国、ミンスナ王国が山脈を一つ挟んで控えている。東には国土こそ広くないものの得体の知れない術を使うという蛮族の国ガリアールがあり、北では魔族の住む魔族領が瘴気を放っている。


 賢明なるニカ王国の国王アルはこの今にでも襲いかかってくる獰猛な虎から身を躱すため、あれやこれやと日々精神をすり減らし、精神的にも肉体的にも限界を迎えようとしていた。


「まったく、奴らのせいで夜もおちおち眠れない。例え眠ったとしても悪夢にうなされるばかりで、ちっとも眠れた気がしない。奴らがいなければどれだけ幸せか。王国の民も同じ事を考えているだろう。幸いミンスナ王国とは良好な関係を築き始めているが、ミンスナ国王は非常に悪知恵の働く男だ。いつ裏切られるか分かったものではない。カロンの野蛮な戦争屋どもは他の国を蹂躙することしか考えていない。奴らに比べればガリアールなどまだましな方だ。魔族領に至っては国交が断絶していると来ている。今は静かだが、機を見ていつか襲いかかってくるに違いない。なんという絶望的な状況なのだ。この美しきニカ王国が私の代で絶えてしまうなど、考えたくもない!」


 哀れな国王アルはそう言ってため息を付いた。傍にひかえていた側近も俯き、気まずい沈黙が影を落とした。


 お言葉ですが、と銀色に輝く甲冑を身に纏った青年が言った。彼の名前はクランスといい、このニカ王国の軍団長を務めていた。また彼はアルの息子でもあった。神の寵愛を受けたとして思えない端正な顔立ちと井出達から、周りからは「白銀の鷹」と呼ばれていた。


「国王、そう悲観することもありません。幸いなことにこのニカ王国は肥沃な大地を有し、大陸有数の鉱山がいくつもあります。また周囲を山に囲まれているため守りは固く、敵国は兵を進めることすらままなりません。防衛戦に徹底すればまず負けることはありません。また長期戦でもこちらが有利でしょう。地の利を生かし、最近導入したテクサム銃を使えばまさに鬼に金棒です。なにをそうお嘆きになるのでしょうか」


 朗々と話すクランスに周囲の側近は鼓舞され、その表情は見る目に明るくなったが、アルだけは未だに表情を暗くしていた。


「クランスよ、お前の言うことはわかる。我が軍は練度も高く、指揮も高い。お前のおかげだ。しかしだ、戦争とは勝たねばならんのだよ。勝たねばならんのだ……。戦争になればいずれ間違いなく我が王国はいずれかの国の属国になるだろう。いや、そうならざるえないのだ。確かにお前の言うとおり負けはせんだろう。しかし民の生活を思えばずるずると戦を続けることになんの意味があるというのだ。我々は独立を捨ててでも、民の生活は守る必要がある。私は戦争が始まれば、すぐに降伏をするつもりだ」


 側近の間でざわめきが起こった。しかしアルは気にもかけずに先を続けた。


「私の愛する忠臣よ、よく聞き給え。我々は不幸な時代の到来こそ悲しまねばならないのだ。何かを得るためには何かを失わなければならない。我々の誇りや、このニカ王国の歴史と引き換えにしてでも、民の生活こそを守らねばならぬのだ。後世の歴史家は私の事を弱気な愚王と呼ぶかもしれない。しかしこれ以外に道は無いのだ」


 アルの心中を察した家臣は涙で目を濡らし、嗚咽をもらした。クランスだけが憮然とした表情でアルを見据えていた。


「王よ!それだけはなりません!奴らから我が国を守るには戦うしかないのです!例え卑怯者と呼ばれようと、権謀術数を駆使して奴らの魔の手を退けなくてはならないのです!奴らは我が国に手に入れるやいなや、民を奴隷のように扱うでしょう。美しい大地を汚し尽くし、新たな血を求めて戦いを繰り返すでしょう。我が国は永遠に争いに巻き込まれる!それこそ避けねばならないのです!一時の犠牲を恐れてはなりません!王よ、考え直してください!」


 クランスの言葉にアルは首を横に振るばかりであった。


「クランス、下がるのだ。私をこれ以上悲しませるな」


「しかし王!」


「下がれ!誰かクランスを連れ出してくれ!」


 4人の衛兵がクランスを取り囲み、力づくで連れ出そうとした。クランスは彼らを振りほどこうとしたが、さすがにどうしようもなかった。クランスの叫び声があたりに木霊した。彼が締め出され、ようやく声が聞こえなくなると、当たりはしんと静かになり、まるで葬式の通夜のようだった。


 

 クランスは自室に戻ると甲冑を脱ぎベットにどかりと座り込んだ。彼は王の息子であったが豪華な家具や調度品を拒み、一般将校と同じ質素な部屋を自室としていた。


 クランスはさっきのやり取りを思いだして暗い気持ちになっていた。落胆したといってもよかった。アルの言うとおり降伏した後の事を思うと、胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。クランスは武勇だけではなく学問にも優れていたので、他国から侵略された国家の行く末についてよく理解していた。血に飢えたカロン帝国、冷血なミンスナ王国、そしてガリアールと魔族領。どこの属国になっても、ニカ王国に

は暗澹たる未来しかないだろう。


 アルなら、実の父親ならその事を分かっているだろうと思っていたが、予想以上に弱気になっている事に、クランスは少なからず衝撃を受けた。あの賢明な父がこのような愚策を採るなど信じられない事だった。戦わずして負けるというのがどれほど屈辱的な事か、敗戦国がどのような仕打ちを受けるか、分からぬ父でもないはずなのに……。


 クランスは決して戦争屋では無かったが、血気盛んな青年ではあった。それに本人は気づいていなかったが、非常な野心家でもあったし、そのことはアルに見抜かれていた。それに対しアルは穏健で、もし王族の子供として生まれなかったら農民でもやっているのが似合う男だった。

アルは他国から侵略されることと同じ程度にクランスによる内乱を恐れた。戦争に乗じて国を割り、一国を起こすだけの技量がクランスには備わっていた。軍団長に据えるべきではないとは分かっていたが、武勇の誉れ高いクランスを内務官にすることもできず、周囲に流されて軍団長の位に付けてしまってからアルの不安は消えることがなかった。この小心さはまさしく農民特有のものだろう。


 クランスはそんな父親の小心さを知ってはいたが、賢明かつ穏やかなアルを尊敬し、意図的に小心な面に目を向けまいとしていた所があった。血気盛んなこの青年にとって、弱気な父親というのは許せなかったのだ。


 だから暗澹たる気持ちのさなかにあって、クランスの心中に父親に対する怒りがふつふつと湧いてくるのも当然であった。――もし私が王であったなら、必ずしやこの王国を守りきり、独立を維持し続ける事ができるのに。いっその事私が王に……。


 はっとしてクランスは頭を振った。なんと恐ろしいことを考えているのだと自分を戒めた。彼がやるべきことは軍団長として兵を率いることであり、王に成り代わることではない。彼は自分の胸に沸き起こったこのどす黒い感情を無理やり押し込めた。


 その時扉を誰かがノックした。誰にも会いたくない気分ではあったが、律儀に出てやることにした。


「誰だ」


「私よ」


 扉の向こうからは女性の声が聞こえた。


「リコか。今開ける」


 扉を開けると金髪の少女が部屋の中に入ってきた。年齢はクランスと同じか、少し上くらいだろ。すっと通った鼻筋と、涼やかな目元が大変美しい。どこかの貴族の令嬢かと思わせるような気品すら感じられる。しかし服装は質素で一般的な市民の着るような格好をしているため、その気品さもいくらか減じていた。しかしドレスを着せて社交場にでも出せば、引く手数多だろう。クランスは王国貴族の華やかな令嬢をたくさん見てきたが、その誰よりもリコは美しいと感じていた。

リコと呼ばれた女性はこうやってクランスを尋ねることになれているのか、部屋に入るときも一切の躊躇いが感じられない。


「相変わらず質素な部屋に住んでいるのね。王族ともあればもっと豪華な部屋に住めばいいのに。これでは一般将校に示しがつかないんじゃない? いちおう国王の息子として鳴り物入りで軍団長やってるんでしょう?」


 ざっくばらんに喋るリコをクランスはみやった。そのずけずけとした物言いに最初は不快感こそ感じていたが、今ではもう慣れてしまった。


「私は確かに国王アルの息子だ。しかし今の私はニカ国王軍軍団長だ。一般将校と同じ部屋に住むのが当然だろう」


「相変わらずお堅いことで。鳴り物入りといえば、あなたが心血注いで創設した魔術師軍団はあれからどうなったのかしら? ミンスナと張り合えるぐらいにはなった?」


 クランスが軍団長に就任して初めに行ったことは軍の改革であった。それまで歩兵と騎兵のみで構成されていた王国軍を一から見直し、新たに魔術師のみで構成された部隊を編成したのだ。また旧式の装備を一新し、カロン帝国で大々的に運用されていたテクサム銃を運用するよう国王に進言したのもクランスであった。そのかいあってこれまで弱小国と呼ばれていたニカ王国の軍隊は見違えり、その先見性に他国も度肝を抜かし「ニカ王国にクランスあり」と言われるようになった。特に魔術師を軍で起用するのは魔術国家ミンスナくらいであり、他国では魔術師に対する偏見が強く、そのような発想をする者はあっても実現するのは難しかった。


 アル国王があのような穏健な正確であったため魔術師にも非常に寛大な制作を施し、魔術師を登用するなど偏見の芽を取り除くことに尽力していたため、ニカ王国には魔術師も多く、このような魔術師部隊を設立することが可能となったのだ。

アルが種を撒き、クランスが穂を狩った形となるのだが、まだ運用初期段階であるため問題も多く、また偏見も完全にのぞき切れたわけではないため、魔術師部隊を色眼鏡で見るものも多い。特に古参の将兵のほとんどが歩兵や騎兵であり、剣による戦いこそすべてと考えるものも多く、銃の運用や魔術師部隊の運用に積極的なクランスに不満を持つ者も多かった。


 また魔術師というのは本来研究に没頭するもので戦い慣れしている者は数が少なく、人数を集め訓練するのも一苦労で、軍改革は当初の予想よりはるかに難航していたのであった。


「まだまだだ。実戦投入にはまだ時間がかかるだろう。魔術師というのは本来一癖も二癖もある者が多いのに、ニカ王国に来る者はたいていミンスナに居られなくなったような流れ者か、よっぽどの変わり者だ。褒賞目当ての傭兵まがいだっている。そんな風だから、輪をかけて扱いにくい。今頃ミンスナ国王は私を笑っているだろうな」


 そこでクランスははっとした。リコも、今彼の言ったような「ミンスナから流れてきた魔術師」の一人であったからだ。


「すまない……。悪気はなかったのだが」


「いいのよ。事実だから。それに今の悪口に付け加えるとしたら、魔術師は基本利己的でわがままで独善的で高慢で嫌味な奴よ。あなたも気をつけることね」


 リコは大真面目にそう言った。


「そこまでは言わないが……。確かに変わり者は多いが、それ以外違いわないと私は考えている。むしろ偏見の方こそ問題であって、国王もその事を気に悩んで偏見を無くすよう心を砕いておられた。私たちこそ変わるべきだろう」


「ふーん、お優しいのね。私はどう見られようと構わないけど」


 いつの間にかリコは椅子に座り、足を組んでいた。今の話にまったく興味がなさそうな顔をしている。こういう所が魔術師らしいといえば魔術師らしい。自分の話にしか興味がないのだ。


 そんなことより、とリコが言った。


「耳よりな情報があるんだけど、聞く気はあるかしら?」


「ふむ、その顔をみると魔術関連の話題のようだな」


「その通り……。ヒポの書をご存知かしら?」


「ヒポというのは、あの大魔術師のことか?」


 ヒポの名前を知らぬものはこの大陸にはいないだろう。およそ100年前に現れ、万物に通じ、その業績は大陸の歴史を100年早めたという大天才の名前である。クランスも学問に通じていたから、ヒポの名前は度々目にすることがあったし、アルもヒポの話をクランスに度々聞かせてくれたものだった。


「そう、あのヒポよ。まさしく伝説的な人ね。魔術師にとって憧れの存在でもあるわ。もちろん私にとっても」


 先を、とクランスは促した。


「ヒポは晩年行方をくらまし、どこへ行ったのか、いつ死んだのかすら分からないままだった。でも最近の研究によって、ここから西にあるロッコン森林地帯に向かったことが分かったの。考古学者の研究の賜物ね。その事が分かるやいなやミンスナの考古学者と魔術師の研究家どもがこぞってロッコンに向かい、大々的な調査を極秘裡に行って、ついにヒポが晩年住んでいた家を発見したの。家の中はまさしく宝の山だったそうよ。研究室からはヒポの晩年の研究成果が記された紙が何百枚と見つかった上に、どれも100年たったとは思えないほど状態がよかった。たぶん魔術をかけていたんだと思う。それだけでも十分な収穫だったんだけど、この話にはまだ続きがあるわ。ヒポの研究室に入った調査団はまず椅子に白骨死体が座っているのを発見したの。大天才ヒポの亡骸よ! そして床の上にヒポが使ったであろう万年筆が落ちているのも見つけたの。多分書き物をしている最中か、終わった直後に亡くなったんでしょうね。でも不思議なことに机の上にはランプ以外何一つ置いてないのよ」


「机から落ちて他の紙に混ざったんじゃないのか?」


「違うわ。なぜなら机の上に埃の積もってない箇所があったのよ。辞書くらいの大きさのね。つまりつい最近まで机の上に本が置いてあったのよ!たぶんヒポが晩年自分の研究成果をまとめていたんでしょうね。それを誰かが盗んだのよ。この失われた書物の事をミンスナはヒポの書と読んで今血眼になって探しているわ。どう、耳よりでしょう?」


「ふむ……確かに耳よりな情報だな。特に我が国のような魔術の研究があまり盛んではない国には是非と

も欲しいものだ。それで、どこにあるかまでは突き止めているのか?」


「ミンスナにそれらしき物があるっていう話よ。早速持ち込まれたみたいね。ミンスナはまだ気づいていないのか、表立っては動いていないみたいだけど」


「君の情報網には相変わらず感心させられるな。それでこそこうして雇った甲斐があるというものだ。では君にはそのヒポの書の探索を任せよう。可及的速やかに手に入れてくれ。報酬は弾む」


「了解。じゃ、すぐに行くわね」


 そう言ってリコは素早い身のこなしで扉を開けると、さっさと部屋から出てしまった。

急にやってきて急に帰るとは、相変わらず忙しないやつだとクランスは思った。


 それにしても、とクランスは思った。この時期にとんでもないものが出てしまったものだ。ヒポの書の内容がどんなものであるかはわからないが、おそらくこの世界の歴史をまた100年早めてしまうような代物に違いない。特にミンスナの手に渡るのが一番危険だ。これはうかうかとはしていられない。リコの情報網や人脈は確かに頼りになるが、それだけでは足りない。国を挙げて全力で探さなければならない。


 クランスの足取りは自然と国王アルの元へと向かっていた。


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