喰えぬもの ―灰底の灼熱姫―
昨日、俺は薬売りの老婆から財布を抜いた。
老婆は咳をしていた。胸の奥で錆びた歯車が回るような、聞いているだけで肺が痛む咳だった。財布の中には銅貨が七枚と、折れた神人像の護符が一つ入っていた。薬代だったのだろう。祈りの代金だったのだろう。
俺はその銅貨でパンを買った。
硬く、酸っぱく、鼠の糞みたいな匂いのする屑麦パンだったが、胃に入れば同じだ。老婆がその夜を越せたかどうかは知らない。知らないことにした。知ったところで、俺の腹は膨れない。
人は他人を糧として生きている。
最下層で最初に覚える真実だ。
上層の白蝋街では、神人どもが慈愛だの救済だのと歌う。銀の髪を陽に透かし、白い手で施しを配り、感謝を求める。だが連中の施しは、首輪を絹で巻いただけのものだ。腹を満たしてやる代わりに、膝を折れと言う。救ってやる代わりに、名を差し出せと言う。
俺たちは違う。
最下層の鉄錆の街では、誰も善人のふりなどしない。奪う者は奪う。喰う者は喰う。弱い者は強い者の血肉となり、強い者もまた、より強い者の腹に落ちる。
それでいい。
そうでなければ、生きていけない。
だから俺は、あの赤い女を売るつもりだった。
リュシア・アルフェン。
白蝋街の名家に生まれた神人の娘。銀髪。白い瞳。深緋の灼熱金製胸甲。腰には爆炸筒を装填したアダマント鋼彎刀。灰色の瓦礫しかないこの街では、彼女の赤は目印どころか、獲物に突き立てられた旗だった。
そして獲物には、値がつく。
俺は三か所に使いを出していた。
一つは救済院。リュシアが握った横領の証拠を取り戻したがっている。
一つは上層警備隊。彼女を狂人として捕らえたがっている。
一つは反体制派。神人の令嬢を旗印にしたがっている。
誰が一番高く買うか。
俺はそれを見定めていた。
見定めていた、はずだった。
「だから言ったでしょう。広場で演説などするなと」
廃鉱石炉の陰で、俺は肩に担いでいたリュシアを乱暴に下ろした。
彼女は地面に足をつけるなり、腰の彎刀を抜きかけた。
「貴様が私を荷物のように担いだから余計に目立ったのだろうが!」
「違います。貴女が最下層の広場で身分章を掲げて、『救済院の罪を暴く』などと叫んだからです」
「事実だ!」
「事実は刃物より危ないんですよ。握り方を知らない人間が振り回すと、自分の指を落とす」
「ならば握り方を教えろ。貴様はそのために雇った」
「俺は案内役であって、教育係ではありません」
「屁理屈を言うな。金は払った」
「まだ半分しか」
「残りは上に戻れば払う!」
「戻れたら、でしょう」
リュシアの白い瞳に苛立ちが走る。
美しい女だった。
腹立たしいほどに。
煤に汚れても、髪が乱れても、頬に擦り傷があっても、彼女はこの街のものではなかった。鉄錆の臭いが染み込まない。灰色に沈まない。深緋の胸甲だけが、濁った光の中で馬鹿みたいに鮮やかだった。
最初、俺はその赤を値札だと思った。
高く売れる色。
愚かで、目立って、扱いにくいが、上等な商品に違いなかった。
「クロウ」
リュシアが低く言った。
「さっきの子供たちは、なぜ逃げた」
「貴女が金貨を出したからです」
「助けようとしただけだ」
「だから逃げたんですよ。最下層で、理由もなく差し出される金ほど怖いものはない」
「理由ならある。私は――」
「救いたい?」
俺は笑った。
「便利な言葉ですね。白蝋街では流行っているんですか」
リュシアの顔が強張った。
言いすぎた、とは思わなかった。
事実だ。
彼女は最下層を知らない。汚れた水の味も、腐った配管の下で眠る寒さも、昨日まで名前を呼んでいた奴が今朝には靴だけ残して消えることも知らない。知らないくせに、救うなどと言う。
「貴様は、私を馬鹿にしているな」
「しています」
「はっきり言うな!」
「馬鹿にされるだけマシです。ここでは本当に役に立たない人間は、馬鹿にされる前に売られる」
口にした瞬間、胸の奥がわずかに引っかかった。
リュシアは気づかなかったようだった。
それが少し、腹立たしかった。
「ならば私は役に立つ」
彼女は胸を張った。
「私は証拠を持っている。救済院の帳簿、寄付金の流れ、孤児の名簿、消えた救護物資の行き先。これを公にすれば、上層は動かざるを得ない」
「動きますよ。貴女を消すために」
「それでもだ」
「貴女一人が死んで何か変わると?」
「変える」
即答だった。
迷いがない。
だから危うい。
正義という火を握った人間は、自分の手が焼けていることに気づかない。周りの人間が燃えてから、ようやく煙の匂いに顔をしかめる。
俺はそういう奴を何人も見てきた。
たいてい、長生きしない。
「クロウ」
「何です」
「貴様は、なぜ私を裏切らない」
俺は黙った。
廃炉の奥で、赤い鉱石灯が明滅している。天井代わりの白蝋石の床からは、上層の馬車の音がかすかに響いていた。俺たちの空の向こうで、誰かが今日も温かい食事をしている。
「裏切る相手は、信用している相手だけです」
「では、私はまだ裏切られていないのだな」
「そういうことにしておきましょう」
「妙な言い方だ」
リュシアは不満そうに眉を寄せた。
そのとき、鉱石灯が一つ消えた。
次に、二つ。
廃炉の向こうから、闇が歩いてきた。
足音はない。代わりに、濡れた舌で鉄板を撫でるような音がした。記憶の底を探られる音。忘れたはずの声が、耳の裏で目を覚ます音。
俺は短刀に手をかけた。
「下がって」
「何者だ」
「フードです」
「外套の?」
「符牒です。他人を糧にする連中。記憶、技、詩言、癖、飢え、憎しみ――喰えるものは何でも喰う」
リュシアの手が彎刀の柄を握る。
「禁忌術だ」
「最下層では生活術です」
「貴様も使えるのか」
「昔、少し」
嘘ではない。
俺はかつてフードだった。
拾われたのは十歳の頃だ。名もなく、親もなく、盗む腕も下手だった俺に、喰い方を教えた男がいた。
名をギドと言った。
ギドは優しかった。
最下層で言う優しさだ。殴る前に理由を言う。飢えた子供を見捨てる前に、見捨て方を教える。殺すべき相手と逃げるべき相手の違いを、実演つきで覚えさせる。
俺にとっては師だった。
父ではない。
父などという甘い言葉は、ここでは腐る。
闇の中から、フードを被った男が現れた。
長い外套。煤に濡れた裾。顔は見えない。ただ口元だけが見えた。白い歯が、昔と同じように笑っている。
「久しいな、クロウ」
「死んだと思ってました」
「何度か死んだ。だが、まだ喰い足りん」
リュシアが俺を見た。
「知り合いか」
「俺の喰い方の先生です」
「最悪ではないか」
「ええ。教育熱心でね」
ギドは笑った。
「その赤い女を渡せ。白蝋の姫、灼熱金の制御式、神人の詩言。上物だ。お前にも分けてやる」
「気前がいいですね」
「お前は俺の子だ」
「気持ち悪いことを言わないでください」
「まだ拗ねているのか。あのとき、お前を置いて逃げたことを」
リュシアの視線が刺さる。
俺は舌打ちした。
「先生に似ただけです」
「そうだ。お前は俺に似ている。だから分かるはずだ。人は他人を糧として生きる。上の連中がどれほど綺麗な言葉で飾ろうと、腹の底は同じだ。ならば先に喰う者だけが正しい」
「正しいかどうかは知りませんが、生き残りはしますね」
「戻れ、クロウ。その女を喰えば、お前は上へ行ける。もう屑麦パンで老婆の銅貨を噛みしめる必要もない」
老婆。
俺は眉を動かさなかった。
ギドは俺の記憶の表面をもう舐めている。
「クロウ」
リュシアが言った。
「貴様、私を売るつもりだったのか」
逃げ場のない声だった。
俺は少しだけ考えた。
ここで嘘をつくことはできた。いや、俺は嘘が得意だ。息をするより簡単にできる。だが、なぜかそのときだけ、舌が動かなかった。
「三か所に使いを出しました」
リュシアの顔から血の気が引いた。
「救済院、警備隊、反体制派。一番高いところに売るつもりでした」
「……そうか」
彼女は小さく息を吐いた。
怒鳴ると思った。
斬りかかると思った。
だがリュシアは、彎刀の柄を握りしめたまま、震える声で言った。
「なら、まだ売るな」
「命令ですか」
「そうだ」
「この状況で?」
「私は怖いのだ」
リュシアは俺を見た。
白い瞳が、煤の中で揺れている。
「喰われるのも怖い。死ぬのも怖い。だが、それ以上に、貴様に売られるのが怖い」
胸の奥に、何かが刺さった。
銅貨でも、短刀でも、鉄屑でもない。
もっと小さくて、もっと抜きにくいものだった。
「なぜ俺なんかを信じる」
「知らん」
「知らんって」
「知らんものは知らん!」
リュシアは怒鳴った。
「貴様は性根が曲がっている。口も悪い。私を荷物のように担ぐ。すぐ愚弄する。金にも汚い。最低だ」
「言いすぎでは」
「だが、子供の足元に落ちたパンを、踏まなかった」
俺は黙った。
「薬売りの老婆から財布を抜いたあと、その護符だけは戻した」
喉が詰まった。
見ていたのか。
くだらない。
銅貨だけでよかったからだ。護符など売れない。持っていても邪魔だった。それだけだ。
それだけのはずだ。
「だから命令する」
リュシアは彎刀を抜いた。
「私を売るな。私と共に来い。私の証人になれ。貴様が嫌う白蝋街の腹を、私と一緒に裂け」
ギドが低く笑った。
「喰われたな、クロウ」
俺は短刀を抜いた。
「ええ」
そして笑った。
「どうにも、消化に悪い」
ギドが動いた。
影が裂けたように速い。俺は短刀で受けたが、腕ごと持っていかれそうになった。ギドの指が俺の手首に触れる。冷たさが骨の中へ入り込む。
記憶を喰われる感覚。
十歳の俺が泣いている。
ギドが言う。
泣くな。喰え。喰われる前に喰え。
パン屋の老人の手つき。剣士の女の足運び。死んだ仲間の逃げ足。俺の中に溜め込んだ他人の欠片が、ギドの口へ吸い寄せられていく。
「美味い」
ギドが囁く。
「飢えが深い。憎しみが濃い。諦めもよく熟れている」
「悪趣味ですね」
「お前を育てた味だ」
その瞬間、リュシアが爆炸筒を投げた。
「揺らめきの跳躍、端然の灯火――」
「詠うな!」
俺が叫ぶより早く、ギドの口が同じ詩言をなぞった。
「絶望の元に天焦ぐ紅蓮と成せ」
爆炸筒が赤く光る。
だが爆ぜたのは、地面ではなかった。
俺は転がる筒を蹴り上げ、短刀を投げて空中で裂いた。火柱が上へ噴き、白蝋石の天井を赤く染める。熱に焼かれた配管が破裂し、汚れた水と蒸気が一気に降り注いだ。
視界が白く潰れる。
リュシアが咳き込む。
ギドの影が揺れる。
廃炉の鎖が熱で鳴った。
俺は鎖に飛びつき、体重をかけて滑車を落とした。錆びた鉄塊が唸りながら落下し、ギドの退路を塞ぐ。ギドは笑い、外套の内側から別人の腕を生やすように動きを変えた。喰った剣士、喰った盗賊、喰った警備兵。無数の足運びが一つの影に混じっている。
勝てる相手ではない。
まともにやれば。
「リュシア!」
「何だ!」
「詠うな。斬れ」
「命令するな!」
「お願いです」
彼女が一瞬だけ目を見開いた。
それから、深緋の胸甲を鳴らして走った。
ギドが俺の頭を掴む。
「終わりだ、クロウ。お前の全部を喰ってやる」
「どうぞ」
俺は笑った。
「ただし、腹を壊しても知りませんよ」
ギドの指がこめかみに食い込む。
俺は抵抗しなかった。
記憶が剥がれる。
飢え。盗み。血。裏切り。老婆の財布。老婆の護符。ギドの教え。見捨てた仲間。喰った技。喰った声。
そして、赤。
最初は値札だった赤。
次に、厄介な目印だった赤。
灰色の街であまりに浮いていて、早く消えてしまえと思った赤。
だが今は違う。
あの赤が消えたら、この街は本当に灰色だけになる。
「何だ、これは」
ギドの声が歪んだ。
「こんなものは糧ではない」
「そうでしょうね」
俺は血を吐きながら言った。
「俺も、喰えませんでした」
信頼。
そんな上等な名をつけるのは癪だった。
だから別の言い方をする。
喉に刺さった骨。
吐き出せず、飲み込めず、死ぬまでそこに残るもの。
ギドが俺を突き飛ばそうとした。
だが、そのときにはもう、リュシアが懐に入っていた。
詩言はない。
炎もない。
ただ、刃だけがあった。
アダマント鋼の彎刀が、ギドの胸を斜めに裂く。
外套の内側から、無数の声が溢れた。老人の咳。女の怒号。子供の泣き声。男の笑い声。喰われた者たちの残響が、蒸気と煤の中へ逃げていく。
ギドは膝をついた。
「なぜだ」
白い歯が、割れた。
「なぜ、そんな喰えぬものを抱える」
俺は答えられなかった。
代わりに、リュシアが肩で息をしながら言った。
「喰えぬからだ」
ギドが彼女を見る。
「喰えぬものがあるから、人は貴様らの餌だけでは終わらん」
「綺麗事だ」
「そうだ」
リュシアは即答した。
「私は綺麗事を言いに来た。だが、綺麗なままでは済まぬことも、今知った」
彼女は刃を構え直した。
「だから、汚れたまま持って帰る。こやつも、証拠も、この街の臭いも、全部だ」
ギドは笑った。
昔、俺に喰い方を教えたときと同じ笑い方だった。
「悪くない」
それが最後の言葉だった。
ギドの体は灰になり、鉄錆の水に溶けた。
静寂が戻った。
破裂した配管から、汚れた雨が降っている。白蝋石の天井に反射した火の赤は消え、廃炉の奥の鉱石灯だけが頼りなく明滅していた。
俺は膝をついた。
吐いた血が水に混じって流れる。
リュシアが駆け寄ってきた。
「クロウ」
「何です」
「死ぬな」
「命令ですか」
「命令だ」
「神人らしい」
「何度でも言う。死ぬな。私を上へ連れて行け。証拠を公表しろ。救済院を潰せ。私が間違っているなら、隣で間違っていると言え」
「面倒ですね」
「貴様を買ったのだ。働け」
「半金しか貰ってません」
「残りは払う」
「高くつきますよ」
「構わん」
リュシアは煤だらけの顔で笑った。
「私は高貴だからな」
「そういうところが本当に駄目なんですよ」
「なら直せ」
「俺が?」
「そうだ。私は最下層を知らん。貴様は上層を知らん。なら、互いに知らぬことを罵りながら進むしかあるまい」
俺は笑った。
傷に響いた。
最悪だ。
俺は昨日、老婆から薬代を盗んだ男だ。
救いようがない。
今さら善人にはなれない。
だが、善人になれないことと、この赤を見捨てることは、どうやら同じではないらしい。
人は他人を糧として生きている。
それは今も変わらない。
ただ、糧とは喰い潰すものばかりではない。
ときにそれは、喉に刺さって抜けない骨になる。
歩けと命じる痛みになる。
忘れるなと疼く傷になる。
俺はリュシアの手を借りて立ち上がった。
廃炉の外では、灰色の街が続いている。そのさらに上には、白蝋街がある。慈愛を売り物にし、救済を看板にし、最下層を腹の底で喰ってきた連中の街だ。
今度は、こちらが喰いに行く番だった。
「クロウ」
「何です」
「腹が減った」
「奇遇ですね」
「上へ行くぞ。白蝋街の連中に、たらふく食わせてもらう」
「奢りですか」
「当然だ」
リュシアは深緋の胸甲を叩いた。
「私は神人だからな」
俺はため息をついた。
「本当に、そういうところですよ」
鉄錆の雨の中、俺たちは歩き出した。
灰色の瓦礫の底から、白い街の腹を目指して。
彼女の赤は、もう値札には見えなかった。
目印にも見えなかった。
それは、俺の喉に刺さったまま抜けない、消化の悪い火だった。
灰かぶり姫をモチーフに、ダークファンタジー風に仕上げてみました。
創作の励みになりますので、感想、評価、よろしくお願いいたします。
本作の”灰かぶり姫”は、舞踏会へ向かうために灰をかぶったわけではありません。白く美しい場所から、鉄錆と煤にまみれた最下層へ降りてきた姫です。そして王子の迎えを待つのではなく、自分の足で汚れた街を歩き、間違いながらも世界の腹を裂こうとする姫でもあります。
一方のクロウは、誰かを喰い、誰かに喰われることだけを真実として生きてきた男です。そんな彼にとって、リュシアは最初「売り物」であり、「値札のついた赤」でした。けれど、その赤はやがて喰えないもの、飲み込めないもの、喉に刺さったまま抜けない火へと変わっていきます。
童話の灰かぶり姫がガラスの靴によって見出される物語だとすれば、この話の灰かぶり姫は、煤と血と鉄錆の中で、自分自身を見出していく物語です。
綺麗な救済ではなく、汚れたまま進む二人を書きたかったので、少しでもその苦さと熱が残っていれば嬉しいです。




