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第33話 水底から木椀を引き上げた手

「その木椀を、水がめの中へ入れなさい。」

セイントデーモン太清君の口調は厳しくない。

顔には余裕の笑みを浮かべ、多義の肩を軽く叩く。多義は素直にうなずき、その通りにした。

暗褐色の木椀が灰色の水がめに浮かぶと、澄んでいた水は徐々に濃くなり、

墨を落としたようにゆっくりと色を深めていく。


「手で水をすくって、それを椀に注ぎなさい。さあ、始めるのだ。」


多義は慎重に動いた。水がめの水を両手でそっとすくい、一滴もこぼさぬよう椀へと注ぐ。

水が増えるにつれ、椀は少しずつ沈み始めた。


「っ……!」


ある程度まで注いだ瞬間、木椀の浮力はついに耐えきれず、

「ぽちゃん」と音を立てて水面を割り、そのまま瓶の底へ沈んで見えなくなった。

多義は思わず息をのむ。掌に残ったわずかな水を見つめ、

それから灰色に濁った水がめを見上げた。


「掌に残った水を、水がめの中へ戻しなさい。」


セイントデーモン太清君がそう言うと、多義はすぐに従い、ためらいなく水を戻した。

そして待ちきれない様子で手を水がめの中へ差し入れ、木椀を探ろうとする。


外から見れば四リットルほどの小さな水がめだ。

だが木椀はまるで闇に吸い込まれたかのように姿を消し、

多義が壁沿いにいくら手探りしても見つからない。


その表情が焦りに変わっていくのを、セイントデーモン太清君は何も言わず、静かに見守っていた。


「その……ご主人様、木椀がありません!」


はっとした多義は、助けを求める目で振り向く。


セイントデーモン太清君の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。

まるで、その気づきを待っていたかのように。


「溶けたのだよ。同化させるつもりだったのだからな。」


多義が落胆を浮かべる暇もなく、セイントデーモン太清君は軽く手を振る。

水流がくるりと巻き上がり、水がめの外へと持ち上がった。


底に現れたのは、あの暗褐色の木椀。傷一つなく、静かに横たわっている。


多義の目がぱっと輝き、慌ててそれを拾い上げ、胸に抱きしめた。


セイントデーモン太清君がもう一度手を振ると、

水は何事もなかったかのように水がめへと戻っていく。


「覚えておきなさい、多義。

いつか同じように、力を尽くしても椀が見つからぬ日が来たら……その時は為師に伝えるのだ。」


その言葉を聞き、多義は静かにうなずく。

指先で木椀を丁寧に拭い、それからセイントデーモン太清君を見上げると、

大事そうに抱えたまま自室へと戻っていった。


「玉秀、お前は弟弟子を変に思うなよ。

あやつは生まれてから父ひとりに育てられたが、その父は働きに向いておらなんだ。

ゆえに暮らしは苦しく、多義は幼い頃から各地を渡り歩き、日雇いで生きてきたのだ。」


私はメイハオ村の花で淹れた茶を一杯注ぎ、籐椅子に腰を下ろす。


「多義、すごいですね。あんな気功入りの焼き菓子を作れるなんて。」


「うむ。蛟人族の食作りは見事だ。

為師が蜜醸糕を作れるのも、あやつらから学んだ。

あの気功をまとわせる技……おそらく蜜蟻に糖を吸わせ、

気へと変換させてから、その身を用いて仕立てておるのだろうな。」


「蜜蟻」という言葉を聞いた瞬間、私は思わず手の中の菓子を握りつぶしかけた。

セイントデーモン太清君はその様子を見て、掌を顎に当てる。


「あやつは『贈る』という意味をよく知らぬ。

自らの労で得たものだけが、自分のものだと信じておる。

それが、あやつの生き方よ。」


私は静かに菓子を紙で包み、鞄の中へしまった。


「為師があやつに出会ったのは、その写真集を撮り終えた後だ。

お前の持っている、あの一冊だ。

雇い主は賃金も払わず、あまつさえ攫おうとした。

為師が手を出した後も、あやつは労で返すと言い張ってな。

それを果たすまでは、決して去ろうとせなんだ。」


「だから、先生は多義に木を植えさせたのですか?」


私がそう尋ねると、セイントデーモン太清君は笑って付け加えた。


「その通り。

為師はあやつと約したのだ。気功を扱えるようになり、

海梅樹を路傍で咲かせることができたなら、それで恩返しは果たしたとみなすとな。」


「でも、それって……太清君老師が弟子を山から下ろす前の試練じゃありませんでしたか?」


「為師は思うのだ。種族が何であれ、これらの知識は必要だと。

気功の運用も、魔力の制御も、いずれは術へとつながる。

術は暮らしを大きく助ける。

蛟人は生まれつき魔力の扱いが難しいゆえ、

こうした学びに触れる機会が少ないのだ。」


「でも……老師はもう破例では弟子を取らないと、言っていませんでしたか?」


私は自分には兄弟子も妹弟子もいないのだと思っていた。

あの時、「破例」だと言って私を迎えたのだから。


セイントデーモン太清君は満面の笑みで言う。


「復讐とはな、過去のやり方が何の効果もなかったと知り、新たな方法を選ぶことだ。

為師はその理を貫くだけよ。」


私はその笑顔を見つめ、少しだけ気まずくうなずいた。

この台詞がとても気に入っている。

「復讐とはな、過去のやり方が何の効果もなかったと知り、新たな方法を選ぶことだ。」

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