第11話 プリーモスと神の物
私はようやく、ぼんやりした眠気から目を覚ました。
目を開けると、淡い水色の天井が見える。
私の体は、薄い黄色のソファに沈み込んでいた。
隣にはヘフィスが座っている。
目を閉じ、何かを考えているようだった。
気づけば、私の体には赤い毛布が掛けられている。
そこには炎のように咲く名も知らない赤い花が刺繍されていた。
もう眠気はない。
私は手足を動かし、起き上がろうとする。
「玉秀、目が覚めたのかい?
ごめん、そんなに疲れているとは思わなかった。よく眠れた?」
その声に、私は驚いて動きを止めた。
けれどヘフィスの穏やかな表情を見て、黙ってうなずく。
「プリーモスは、君がどれくらい休むか分からなかったから、先に訓練へ行った。
少し頭を整理するといい。あとでゆっくり話そう。」
ヘフィスはそっと、小さな物を取り出して私に差し出した。
象牙色の丸い香袋。中央には炎の紋様があり、太い二本の紐で結ばれている。
手触りは柔らかく、じんわりとした温もりが伝わってきた。
そしてふいに、チーズの香りが鼻をくすぐった。
「これはさっき話した神の物だよ。中に魔力が込められている。
もし気持ちが不安定になったり、体に違和感があったら、触れてみるといい。少し楽にならないかい?
それは残っている魔力が、体内の乱れた魔力を整えている証拠だ。
適した気功をすぐに見つけられない時の、応急用だね。」
「魔力は分かるけど……気功って?」
「簡単に言えば、環境によって調和された魔力のことだ。
純度が高すぎて体で変換が必要なものもあるし、そのまま使えるものもある。詳しくはまた今度。」
ヘフィスにうながされ、私は両手で香袋を包む。
じんわりとした温かさが掌から流れ込み、体の奥へ広がっていく。
まるでぬるい泉に沈んでいるみたいだ。
濃いチーズの香りも手伝って、張りつめていた体がゆっくりほどけていく。
激しく打っていた心臓も、次第に落ち着いた。
その時。
入口の方から、重い足音が近づいてくる。
振り向くと、プリーモスが歩いてきた。
彼の視線が、私の手の中の香袋に落ちる。
心配そうだった表情が、ぴたりと止まる。
次の瞬間、真顔になった。
「それ……俺の六尺褌じゃねぇか?」
ヘフィスはちらりとプリーモスを見て、手で"落ち着け"と示した。
「古くなったから、処分していいって言っただろう?
捨てるのももったいないし、まだ魔力が残っていたから、神の物にしてみたんだ。
ほら、今ちゃんと役に立っている。玉秀、さっきより元気そうじゃないか?」
プリーモスの顔色が変わる。
まるで今すぐそれを爆破したいと言わんばかりだ。
強い圧をまといながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
奪い返すつもりなのは明らかだった。
私は反射的に香袋を胸元に引き寄せ、ぎゅっと握る。
視線が自然と揺れて、少しだけ悲しさがにじむ。
プリーモスはそれに気づき、足を止めた。
その場で数秒、動かない。
何かと何かを天秤にかけるように、内側で葛藤しているのが分かった。
やがて、何も言わず向かいのソファへ歩き、どさりと腰を下ろす。
それきり黙り込んだ。
「玉秀、それは君が持っていていいよ。さて、どこまで話したかな?」
ヘフィスは嬉しそうに微笑みながら、私の手をそっと取る。
そして香袋の紐を私の手首に巻きつけ、軽く結んだ。
まるで小さな祝福を結ぶみたいに。
「スライムだよ。
スライムは可愛いし、自分で増えることもできる。特別な環境でない限り、個体ごとの能力差も少ない。
『基準』にするには、ちょうどいい種族なんだ。」
ヘフィスは透明な箱を持ち上げる。
中には水色のスライム。
カワウソみたいな黒い目と小さな触手があり、その触手で箱の内側をぺたぺたと触っている。
まるで世界を確かめるみたいで、妙に愛らしい。
「それに、どんな環境でも生きる方法を見つける。人間みたいだろう?」
「人間みたい……?」
私は小さく繰り返す。
箱の中で揺れるスライムを見つめているうちに、胸の奥から何かが浮かび上がる。
会社員だった頃の記憶。
オフィスから会議室へ向かう途中、ガラス張りの窓のそばを通るたび、胸がざわついた。
あの瞬間。
一歩踏み出せば、全部終わるんじゃないかと、本気で考えたことがある。
飛べるはずもないのに。
今思い出すと、胸の奥が冷える。
私は、もっと強くならないといけないのかもしれない。
「そうだよ。どう扱われても生き残る。面白いだろう?」
「え?」
ヘフィスの声は柔らかいのに、言葉だけが妙に引っかかる。
私は顔を上げる。
たぶん今の私の表情は、驚きと戸惑いでいっぱいだ。
ヘフィスは慌てて手を振った。
「冗談だよ。ごめん、怖がらせたかな?」
私は何度も頷くしかなかった。
彼は小さく謝る仕草をする。
私は無意識に、手首に巻かれた香袋をぎゅっと握った。
神の物は他にもあります。これはあくまで応急用です。




