総理、犬になる(ただし、フェンリル)。01
「総理っ!」
長年仕えてくれた秘書の声が遠くかすんで聞こえる。
ドタバタと聞こえる足音。
ぼやける視界。
どうやら倒れてしまったらしい。
そこで私は不思議なほど冷静に死を悟った。
(ふっ。長年、国民の犬として生きてきたが、最後はあっけないものだな……。次生まれ変わったら、本当の犬になってのんびり過ごしたいものだ。特に誰かの犬として働くことが心底嫌いだったわけじゃないからな……)
死の間際、シニカルに笑いながらそんなことを思う。
支持率の維持にどれだけ必死になったか。
しかし、支持率を得るためだけの政策では国が回らなくなることとの板挟みがどれだけ私の頭皮をえぐったか。
恨みつらみのえぐい世界で、国内の敵と戦いながら各国の強豪たちと渡り合う生活。
二十四時間総理大臣でいなければならないことのつらさ。
正直、トイレでしか一人になれなかった。
そんな生活が走馬灯のように蘇ってくる。
そして、私がもう一度苦笑いを浮かべた瞬間、妙な声が聞こえた。
「はいはーい。了解ですよー。あ、ただのわんちゃんだとすぐ死んじゃったりするんで、ちょっと強いのにしときますね。えっと……、ほい。完了! じゃあ、いってらっしゃい!」
は? と思う。
しかし、そんな一瞬の疑問はなかったことにされたらしく、私の世界は暗転した。
そうか。これが死か。
そう思って全てを受け入れた瞬間、何かが変わった。
明確に言葉に表すのは難しいが、体が空気に溶けていくような感覚と言えばいいのだろうか。
そんな妙な解脱感があったような気がする。
しかし、次の瞬間、私はまた明確に体の感覚を取り戻した。
安らかな睡眠から目覚めるように目を覚ます。
(え? 俺、たしか死んだよな? 違ったのか?)
そう思って一度深呼吸してみる。
すると確かに私は息をすることができていた。
なんとも清々しい匂いがして胸の中がスーッとしていく。
それはまるで予算が無事通った次の日の朝のようだと思った。
(なるほど。生きているらしい)
そう思ってとりあえず周りの状況を確認してみる。
そこはどこからどう見ても深く苔むした森で、秘書官の姿もSPの姿もなかった。
「え?」
戸惑って絶句する。
歴代最強の内閣総理大臣として、内外から「剛腕」と呼ばれた私でも、この状況を理解するのに軽く三十秒ほどかかってしまった。
「森……」
そんな言葉しか出てこず、とりあえず頭を掻く。
そこで違和感を持った。
(え? 俺、こんなにふさふさだったっけ?)
そう思って手を見ると、どこからどう見てもそれは犬のそれだった。
「ぬわぁ!」
思わず飛び退いて尻餅をつく。
あっけにとられながら、自分の体を見ると、どう見ても尻尾らしきものがあった。
「え? なに? 犬?」
また三十秒ほど固まる。
しかし、私はすぐ冷静さを取り戻した。
(いかん。とりあえず現状を整理しろ。とにかく私は犬になっているとみてまず間違いないだろう。色は白いな。うん、白犬だ。いや、『しろいぬ』ってなんだよ。それはともかく、えっと、ここは森だな。うん。どうみても完璧な森だ。で、なんか木が小さい? いや。待て。これ、俺が大きいんだ。なるほど。状況は理解した。私はどうやらデカくて白い犬になったようだな。もしかして、死の間際に聞こえたあの声がいってたのはこういうことだったのか? ……神とかそういうやつなんだろうか? 信心の『し』の字もない私にしてみればけったいな話だが、おそらくそういう類の話なんだろう)
そこまで理解すると、次に、詳細が欲しくなる。
「うーん……。この状況の詳細を説明してくれる秘書官はいないものだろうか?」
と思っていると、目の前に「ブンッ!」という音とともになにやら画面のようなものが出てきた。
「ごきげんいかがかな? お望み通りわんちゃんにしてあげたよ! あ、フェンリルっていう種類ね。強くてかっこいいとっても優秀な種類の神獣だよ! よかったね。というわけで、異世界生活楽しんでぇ~」
というなんともふざけた文章が載っている。
軽くイラっとするが、ここで怒ったところでなにも変わらないと思い、
「現状を整理して一枚のレポートにしろ」
と念じてみる。
するとまた目の前に画面が出てきて、私の全身像となにやら数値らしきものが出てきた。
「えっと、なになに……」
魔力:えぐい
体力:すごい
知力:人並以上
胆力:ごっつい
風魔法、水魔法、氷魔法、火魔法、土魔法、その他諸々、想像した魔法はたいてい使えるよ。
あと、足がすっごく速いし短時間なら飛べる。
だいたいの攻撃は痛くもかゆくもないはずだよ!
なんだか頭の痛くなる説明文を読み、最後に基礎情報に辿り着くと、
体長二メートル二十センチ
体高二メートル
体重百キロ
と書かれていた。
「いや。体重がおかしい! ていうかなんだこのレポートは! もっとちゃんと書け!」
とつっこんでみるが、とりあえずそういうことらしいので、いったん冷静になる。
(とりあえず、私に今、最も必要なものは情報だ。なんの情報もないのでは戦いようがない。果たして私はこの異世界とやらで何をしてどう生きていけばいいのか。それを掴むことが先決だ)
そう思って、私は、とりあえずその場から移動してみることにした。
深い森を歩き、ちょっとした泉に出る。
そこで水面をじっと見つめてみると、やはりどこからどう見ても大きな犬になった自分の姿が映っていた。
(意外と凛々しい顔をしているな。犬的にはイケメンの部類に入るんじゃないか? 毛もふさふさというか、なんかキラキラしてるし。牙っぽい歯は怖そうだが、ニヒルでいい感じだ。そういえば、人間の時もロマンスグレーとか言われてたっけ。若い頃はもてたんだよなぁ、若い頃は……)
と思い少し悲しくなる。
(若くして政界入りしたとたん彼女に逃げられたんだっけ。そうだ、『政治家の妻なんて柄じゃないもの。私、ちゃんと自分の仕事をしたいし』って言われたんだ。私は別に仕事を辞めなくてもいいと言ったが、『そんなの無理に決まってるじゃん。だって、旦那が政治家ですっていうアナウンサーがどの面下げて報道番組すればいいってのよ?』と言われたっけ。結局彼女も生涯独身だったが、そういうことだったんだろうか? いや、かなり手厳しいことを言われ続けたから、そういうのはなかったぽいな。……あいつ、元気だろうか?)
そんなことを思ってしみじみしながら水を飲む。
冷たく澄んだ水が喉を通った瞬間、さっと冷えて潤される喉の感覚を感じ、生きているということを再び実感した。
(さて。水場はわかった。ということは次は食料確保だな)
と思ったところで私は、
(ん? 待てよ。犬っていうか、えっと、フェンリルだっけ? それって何を食って生きていく生き物なんだ?)
という初歩的な疑問に突き当たる。
そこで今度は、
「この体に必要な栄養素を示せ」
と念じてみた。
「魔素だよ! 魔素は自然界のありとあらゆるものを構成しているから、原子とか素粒子とか言ったらわかる? そういうものだから呼吸してるだけでOK! 食事は特に必要ないんじゃないかな? あ、でも食べる機能は一応あるからね。取り込んだ魔素はもれなく吸収されるから排泄の心配はなし! うふふ。便利でしょ?」
とまたふざけた文章で答えが返ってくる。
「こいつの人格はいじれんのか? 今どき、AIだって、使用者に合わせた人格を形成するぞ?」
と思いつつ、軽くため息を吐く。
しかし、どうやら食事の心配はないということが分かったので、私はもう一口水を飲み、その場を後にした。
しばらく歩き、平原に出る。
(気持ちのいい眺めだな。仕事で行ったスイスの牧草地帯を思い出す。あの時食ったチーズはやたら美味かった。ああ、またラクレットが食いたい……)
そんなことを思いつつ歩いていると、向こうからなにやら牛らしきものが近づいてきた。
ドドドドドッ!
と音を立てて突進してくる牛をよく見る。
するとそれは牛の顔をしてはいたものの、明らかに巨大で二足歩行の化け物だった。
「ぬわぁ!」
思わず声を出し、跳び上がる。
すると、私の体は自分が思っていたよりもかなり高く舞い上がった。
やたら近くにある雲を見て、焦りつつも下を見る。
牛らしきものは私を見上げ、なにやら怒っているようだ。
(気持ち悪い生き物だな。あれって、魔物とか怪獣とかいう存在なんだろうか? 見るからに臭そうだ)
と思いつつ、自分が飛べると言われていたことを思い出し、軽く、
「飛べ」
と念じてみる。
すると目の前になにやら光る円盤状のものが出てきた。
直感的に使い方を察する。
私はその光る円盤を蹴った。
グンッ! と体が前に持っていかれる。
(こりゃ、小さい頃乗ったジェットコースターどころの騒ぎじゃないぞ)
と少し感動しながら、前を見ると、遠くに小さな村らしきものが見えた。
(人だ!)
と思わず感動する。
(そうか。この世界にも人がいるんだな。よかった……)
と心からほっとしつつまた空中を蹴ろうとしたが、例の光る円盤状のものが出てこなかった。
(ん? ああ、そうか。たしか『短時間なら飛べる』んだったな)
と思い、仕方なく慎重に着地する。
するとそこに二足歩行の牛の化け物がまた迫ってきた。
なんだかせっかくの感動を邪魔されたような気になって、
「静かにせいっ!」
と怒鳴る。
すると、ものすごい勢いで風が吹き、地面がえぐれると同時にその二足歩行の牛の化け物が吹っ飛んだ。
「は?」
と思いつつ、少し慌ててそちらに近寄ってみる。
するとその二足歩行の牛の化け物はものの見事に死んでいた。
(いかん! 動物愛護!)
と思うが、そもそもこれは動物なのか? という疑問が湧く。
そこで、
「こいつの正体を教えろ」
と念じると、
「ミノタウロスだね。すっごく凶暴で悪い魔獣だから倒して問題無し!」
と出てきた。
(そうか。害獣だったか。じゃあ、農林水産業的には良いことをしたってことだろうな)
と思い、見なかったことにして再び飛び上がる。
そして私は再び現れた光る円盤状のなにかを蹴ると、村があった方に向かって一目散に空中を駆けていった。




