File50:乗り越えて
進入禁止フェンスの裏から走ってきた男女の高校生ペアに、現場は何という気持ちを抱えたのだろうか。膝のあたりがじゅくじゅくに染まった赤の少女と、おとなに絡まれながら逃げおおした少年。飛んでいたヤジも、その時ばかりは止まっていた気がする。
フェンスの向こうに取り残された二人組の悪党は、あっけなく警察に捕まった。内のひとりはうわ言を垂れてテントを張っていたのだからおぞましい。美紀が前だけを見ていたのがまだ救いだ。
龍太郎たちも、証言者として警察署まで同行。落ち度がないこと、状況や様子などを事細かく口に出した。
あの二人組は、美紀を目的として近づいてきた。龍太郎を無視したのは、脅威にならないと思っていたからだそうだ。詰めの甘さに救われて、龍太郎たちはここにいる。
(……美紀を消費コンテンツとしか思ってない奴らだ……)
彼女が自律しようとしているのは、商品価値を上げるためではない。『恋愛』が何か知りたい、その一心でアリ地獄から這い上がろうともがいているのだ。
聴取が終わり、龍太郎は出入口のそばまで戻ってきた。待合スペースがあり、古ぼけた茶色の帽子をかぶった老人が新聞を開いている。色調高き黒のソファと合わさって、風を感じる。
「……龍太郎、おかえり。ほら、荷物はちゃんとあるよ」
やや控えた笑顔で出迎えてくれたのは、心の拠りどころになる幼馴染だった。出発したときの白基調のジャケットそのままだが、しわが増えている。
彼女が絶やさない肌のうるおいが、今回ばかりは失われていた。胸をふくらませるたびに肩が上下して、息遣いもぎこちない。
「……龍太郎と美紀は、別々? ……それもそっか……」
地面に落ちた目線は、美紀がまだ拘束されていることを示していた。
任意同行であり、美紀が『やめたい』と言えば一秒で帰される。一番の被害者ということもあるが、彼女自身の魂が告げることをやめないのだろう。
入口のガラスから注がれる光は、赤の混じった暖かいものだった。半透明の雲をさえぎって、カラスが羽をばたつかせている。
亜希にうながされ、ソファのとなりに体重を投げた。
「……私がはなれてたばっかりに……。たしか、『デート中か』って声かけられたんだよね?」
「そのときは、善意のことも多い、って……」
若い女の子に声をかけることに注意を払えばよかったのか。シャッターを下ろしてしまうと、今度は悪気のない人たちまでもブロックしてしまう。
クッションの入っている背もたれに、深く腰掛ける。
「……警察の人に、流れはなんとなく教えてもらったけど。龍太郎のだいじょうぶな範囲で、何がどうなったかを聞きたい……な」
彼女は、龍太郎から目を逸らさない。他人事として受け流さない覚悟が、目の奥から溢れ出ている。
「……なぜかフェンスが開いてて、そこに連れ込まれた。気づいたら、逃げ道が封鎖されてて……。美紀はケガして、俺も危なかった」
親友の頼みとあれば、大都市の川からヘドロをすくってくる。いたずらに傷口に塩は塗らないことを、龍太郎はよく知っている。
亜希の瞳孔が、より光を取り込むようになった。こすれる鼻息が、はっきりと耳に届くようになった。
「……龍太郎が反撃した、って聞いたけど……」
「それはやった。……やらなきゃ、やられれた……」
目的を失った野獣たちが、背後にいた。関節を固定されていては、飛び降りるよりなかった。百回巻き戻っても、龍太郎は史実の道を選ぶ。
美紀もよく頑張ってくれた。強度の低い運動で息切れしていた彼女は、施設の外縁を半周も駆けたのである。手助けしたとはいえ、美紀の根性には拍手を送りたい。
(……あれだけ、ボロボロになってたもんな……。美紀には何もケチを付けさせない)
フェンスを乗り越えて、足を地につける。死の境界を突破した龍太郎には、呼吸に上半身が引きずられている少女の姿があった。彼女には、何をも求めるべきでない。
黙ってうなずく幼馴染には、黒色のしこりが見えた。かつて龍太郎がたくさん持っていた、負の結晶の一部分であった。
「しかたないよ……。龍太郎は、ただしい。間違ってるのは、下心を持ってたほう」
亜希の声に、明快でない波動を感じた。
「……美紀が抵抗しないだろう、って……。龍太郎がいても関係ない、って……。まるで、オモチャみたいに……」
「亜希、気持ちは分かるけど、ここだと……」
龍太郎の煮えたぎったマグマは、噴火するそのときを待っている。警察署を出たときか、帰り道か、自宅か……。『わめいても変わらない』と静観する自分が大嫌いだ。
亜希の口がかたく結ばれた。龍太郎からは目を切り、タイルに穴をあけていた。
「……くやしいよ、そんなんじゃないのに……。龍太郎は、自分をなんとかして変えようとする強い男の子なのに……。美紀も、やっと居場所を探しはじめたのに……」
太ももに押しつけられた拳は、静かに震えていた。親指の爪が皮膚に刺さってもなお、沈み込んでいた。
亜希の長髪は、毛先にまとまりがなかった。いつも通りだと思っていたのは、とりつくろった一瞬だけだったのだ。
彼女は、負の感情までも共有してくれている。前髪がかぶさるのを気にもせず、じっと下を見つめている。
感情を分かち合っても、それが軽減されるとは限らないのに。反響して、体調を崩してしまうかもしれないのに。
(……やっぱり、亜希は信じられる大親友だよ……)
見せてはいけない。理性が最後の抵抗をするが、止められない。
涙が一滴、龍太郎の目から滑り落ちた。心を許せる親友がいて、本当に良かった。
厳格な法の施設で、しばし渦巻きの中に龍太郎は身を委ねていた。
無言がつづいて、時を刻む音が何周したのだろう。来訪者のいない静かな待合ルームは、心を落ち着かせる子守歌になっていた。
タッタッ。厳格な施設に似合わない、軽はずみな足音がやってきた。
膝にばんそうこうをつけた、瞳の大きな少女だった。疲労サインは点灯しているが、気力は残っていそうだ。
「龍太郎くん、亜希……! ……ただいま……なのかな」
地に沈んでいた龍太郎たちに、美紀は選択肢を選んでいた。帰ってきたばかりの少女に気をつかわせて面目ない。
「……おかえり、美紀。……ひざのケガ、大したことなさそう?」
「これは……だいじょうぶ。擦りむいただけだ、って。……それよりも、龍太郎くん……!」
一目膝に落とし、すぐソファに向かって走りよる美紀。肉体が回復し切っていないようで、龍太郎たちの足元にしゃがみこんでしまった。
体勢を立て直そうとする彼女に、優しい待ったをかけた。
「美紀が諦めずに前を向いてくれたから、ここにいるんだろ? ……立てないのは、自分ができることを全部やった証」
最善を尽くした結果なら、気にすることはない。
となりにいた幼い頃からの親友が、ゆっくりと立ち上がった。
「美紀、龍太郎、本当におつかれさま……。学校、休んじゃってもいいんだよ……」
そうかけられた亜希の手は、苦痛をやわらげるいたわりの施しだった。




