File48:論理と直感
自治体が運営するプールとはいえども、競技用が並べられた無機質な光景とは違う。ほどほどのウォータースライダーや、こどもたちの集まる浅いプールまでよりどりみどりだ。客を集めなくては経営が成り立たないのだろう。
龍太郎たちは、水から上がっていた。次なる目標を目指して、美紀に付き添っているところだ。
(……元気だなぁ、美紀は……。そこが、いいところだって俺は思うけど……)
体力と体格がつり合わなくなってきた常人は、自分相応の行動をとるようになる。
子供心をくすぐられた美紀は、マップ係の龍太郎をひきつれて、片っ端から足をのばした。入ってみないと気が済まないタチだった。
『いいから、泳いでみよう?』
首から上がでるだけの通常プールで、龍太郎はそうせがまれた。競争する気はないと渋ったものの、『見たい』の一言で押し切られた。
壁キックからスタートしたはいい。しかし、両腕がいっしょに回転し、前に進もうとしてくれなかった。
めいっぱいの泡を出して浮き上がってきた龍太郎に、コーチとなった少女の言葉が。
『……ええっとね……、腕がここにあるときは……』
他の青年が自由自在に泳ぎまわるプールで、プール教室が急遽開催されていた。
(……おかげで、ちょっとは進むようになったな……)
岸につかまり、横で監督する美紀から形を正してもらう。指示を体が聞くようになったときは、息継ぎを忘れかけたほどだ。
教える技術は生まれつきだとしても、なぜスイミングスクールに通ったはずがない彼女が泳ぎを習得しているのか。意外にも聞いたことのない質問が湧き上がってきた。
「……美紀ってさ、どうしてあんなに泳げるんだ? 水泳選手を目指してた、とかじゃなさそうだし……」
少女は歩みを止めず、背中を向けたまま。頬に指をあて、円を描いている。
「それはね……、『習うより慣れろ』だよ、龍太郎くん。お風呂でも、床でも、ずっとイメージしてたら、泳げるようになってた」
彼女は何に慣れていたのだろうか。同じことができるのなら、スポーツという言葉はとっくの昔に死んでいる。
亜希に言われたほうが、まだ冗談と流せてよかった。
閉鎖環境に、飲食店はつきもの。ベンチの置かれている休憩広場を過ぎると、ジャンクフード商店街ができあがっていた。
誘惑を断ち切るため、お金はロッカーに預けてきている。先導する少女の足取りが歪みそうなのが、唯一の気がかりである。
ある店のそばに、従業員がプール全体を眺めている。給料に不満でもあるのだろうか。
その男は、おもむろに龍太郎たちへ歩みよってきた。
「……君たち、デート中かい? 違ったらすまないね」
オレンジの帽子をかぶり、店の制服を着た店員だった。ちょうど父親くらいの年齢に見える。顔にできているしわの本数も、まだ数えるほどだ。
控えめなビキニの下端から水を垂らす美紀は、何を問われているか理解していない。目をパチクリさせて、龍太郎に助けを求めていた。
いくら店員でも、学生らしき男女に声を掛けるのはいかがなものか。美紀に話しかけていたら、無視するところだった。
(こういうとき、亜希がいれば、な……)
優等生の幼馴染は、年上の人間との交渉にも慣れている。一年生だというのに、教師陣を説得してプロジェクトを立ち上げたのだとか。亜希から見れば、みな同じ人間ということだ。
だが、亜希が身を引いてくれた意味は、龍太郎自身が持っている。ふたりきりになっても安心だと、信じてついてきてくれた少女に表すのだ。
店のドアから、もう一人の青年が歩み寄ってきた。柔和な笑顔を見せ、軽く会釈をしてきた。
「何してるんです、こんなところで油売って……」
「いやいや、今時、この子たちみたいな初々しいカップルを見るのは久しぶりでな。……年も近いキミなら、何かアドバイスできることがあるんじゃないか?」
かろうじて髪の黒い中年男の目を、龍太郎は見逃さない。美紀に行きかけていないか、監視しつづける。
プールサイドには、単身客や家族連れでごった返している。万一手を掛けられても、味方はごまんといる。
若者はといえば、龍太郎ばかりを見回していた。カメラで周りを撮られているようで、得体のしれない気持ち悪さがある。
アゴに手をかけた青年は、上の空から手を打った。
「アドバイスは……。ちょっと男の子のほう、耳貸してもらってもいいかな?」
美紀から注意を逸らさぬよう、体だけをその店員に寄せた。
「……そこの女の子……、君のことを何回も見てる。アタックするなら、近いうちがいいんじゃないかな」
(……それは、頼りにしてくれてる証拠で……)
龍太郎は、その信頼の土台を守り続けたい。この場で、将来の心をがっちりつかみたいのだ。亜希や成瀬がいないから、とは言わせない。
アタックするなら、近いうち。赤の他人に言われなくとも、そうするつもりだ。
元の位置にもどった若い店員は、なにやらヒゲののびた男に耳打ちしている。脈打っている目は、君が悪くて忘れられない。
「……龍太郎くん、さっきのは……。やっぱり、いいや……」
自らの守備範囲を確認して、美紀は引きさがった。限界を知ってしまったようで、こちらが寂しくなってくる。
年増の男店員が、ふたたび龍太郎たちに声をかけてきた。
「キミたち、ここのプールは初めて?」
「そうです。最近は、流れるプールなんてのがあるんですね……」
「うーん……。本当に初心者だね、キミは。キミが小学生くらいのときにはもう、流れるプールはあったと思うけど」
流行に取り残され、ついていこうとしなかった龍太郎の黒歴史だ。掘りかえさないでほしい。
『……どうでもいいだろ、プールなんて……』
忌まわしき、人間関係に興味を持てなかった自分が復活してしまう気がしたから。
美紀はいつも通り、会話を耳でたどっている。店員たちに意識はのこしつつも、視線は龍太郎に向いていた。
余計な水分が抜けたことで、水着の形がボディラインに沿うようになっていた。彼女の肩から引っ張られた人工布は、山をくだりきったところで終わっている。そこから下は、意識をまわしたくない。
「……店員さん、おすすめのプールってありますか……?」
顔色をうかがう作り笑顔は、少女の出す最大の勇気。水の楽園を楽しみたい、純粋な心から生まれた質問だった。
距離をとっていた今までと違い、男たちは間合いへと踏みこんできた。『近い』と遠ざける権限が発動しない、ギリギリのラインである。
「……特別に、僕たちがとっておきのを紹介してあげようか? お金は、もちろんいらないからね」
『とっておき』。間の持たせ方が、この言葉だけ長く感じた。
同時に、龍太郎の頭にあるマップが注意報を発令していた。
『とっておき、なんて言えるプール、調べた限りでは無いぞ……!』
龍太郎がとってきたのは、公式サイトのマップをダウンロードしたものだ。が、信用できるかはまた別問題である。
行政は仕事が遅く、たとえ公式だろうと更新が数年前、というのはよくある話。形状が変わり、閑散としたスポットが生まれたのかもしれない。
龍太郎は、息を飲みこんだ。
「……おねがいします……」
「そうこなくっちゃ。そっちのお嬢さんも、ほら、いっしょに」
付き添いの親友が従ったのを見てか、美紀も背中を追ってきた。
青年の店員を先頭にして、龍太郎たちは北へ北へと歩いていく。マップで予習してきたプール達を目視し、努力の方向性が間違っていなかったことにほっと息をついた。
行き止まりの柵にぶつかったところで、男たちは進路を左へ取った。文字がかかれている板が柵においやられる形で、扉が開いていた。
「ここから先は、マップにも載ってないからね……。知る人ぞ知るエリア、わくわくしてこない?」
男二人のキャッチボールが、龍太郎たちの頭上で行われている。水の足跡を地面に残す美紀は、策の向こうに生い茂る草木に目を奪われていた。
(……これ、立ち入り禁止ゲート、か……?)
プールの入口すぐに、似たようなゲートがあった。『立ち入り禁止』と書かれ、遮断されていたはずだ。
論理を突き詰めれば、男たちに騙されている、ということになる。
(……論理だと、か……)
人を決めつけてかかっては、あの散々だった二軍女子と同じ土俵である。ニュースをつければ悪人だらけだが、世の中から見るとちっぽけでしかない。
それに、必要なくなったゲートも、後年まで残っているものだ。高校に入ってすぐの扉が固定されたフェンスも、元は生徒を取り締まるゲートだった。治安の悪化で意味を為さなくなったから、というのは隠すお約束である。
ゲートが確認できるところまでは、行ってみよう。
解放されたゲートを通って、龍太郎は落ち葉が散らかっている道が見えた。木くずが床のいぼの間にはさまり、茶色が点在している。
何かアナウンスが流れているが、自然の防壁にさえぎられたのかよく聞き取れなかった。カラスの能天気な鳴き声が、あたりにこだましていた。
水に濡れた状態で、日陰は身にこたえる。水着にはさまった水分が、龍太郎の体温を奪っていた。
周囲には、めぼしき建物が見えない。はずれで売店がお尻を向けている他、人どころか湿っている地面もないのだ。
「ああ、そうだった。お店に戻らなくちゃいけないんだった……」
先導していた制服姿の若い男が、折り返して横を通り過ぎた。その左腕が美紀に伸ばすことはなく、落ち着いた足取りだった。
龍太郎の警戒センサーが発動していた。脳のリソースが中枢へと集まっていく。
舞う木の葉の葉脈が、はっきりと読み取れる。ふわりと空気の手から逃げようとして、折れた手首から垂直に落ちていく。
「……待ってください。僕たち、忘れものをしちゃって……」
龍太郎に見える限り、通用口のついている建物は男たちが入っていた店そのもの。馬鹿のひとつ覚えなだいだい一色は、そう忘れない。
引き返そうと、美紀の手を持とうとした。
龍太郎の視界は、彼女を通り過ぎていた。横に置き去りにし、枯れ葉の地面が迫ってくる。
とっさに出した両腕に、肘がなくなるようなしびれが生じた。足をすべりこませ、かろうじて膝を守った。
理解が追い付かない。頭が真っ白になる。
「……龍太郎くん!?」
柔らかい声質の悲鳴で、ようやく状況が呑み込めてきた。龍太郎は男に突き飛ばされたのだ、と。
「なんとかしないと……。足、ケガして……」
腰をおろして介抱してくれようとした美紀も、背後に何かを見つけて凍ってしまった。
金属と金属がこすれる不協和音が、背後から響いた。小学校のプール入り口にある、フェンスの開閉が思い出された。
謎の不快音に構ってはいられない。突き飛ばされた痛みを気合いでこらえて立ち上がった。、呆然と後ろを眺めている美紀の手を取り。肩まで腕をまわして胸元まで引き寄せる。
「……美紀、今から走るぞ……」
「……龍太郎くん……、足が、動かないよ……」
彼女は、自由なほうの震える手で後ろを指していた。
『立ち入り禁止』を外に向けたフェンスが、内側から閉まっていく様子だった。その幅から見える遊泳客は、ひとりもいない。
美紀の手が深くまで食い込んできた。異常な高校でも見たことがない、純粋なる恐怖の形であった。
あの恐怖で支配しかけた二軍女子に対してでさえ、彼女は立ち向かおうとした。言論を組み立てて、理不尽に抗おうとしていた。
その気力をも奪い取る、大人の邪悪さ。その深淵はいかほどか。
龍太郎に、それをまとめる時間は残されていない。
「……走って!」
乾ききった号令にはじき出されるようにして、龍太郎と美紀は地獄への案内人に背を向けたのだった。




