File47:文字通り?
窓から採りこまれる直射日光も耐えがたくなってきた。紫外線対策に、と日焼け止めを肌に塗りたくる女子たち。教室でおしゃべりするのに、そのべたついた保護剤は必要なのだろうか。
肌の焼けた男子たちがサッカーボールを手にグラウンドへと繰り出していく。体力のステータスはカンストしている我が高校は、夏をアイスのおまけだと思っている人が過半数を占めている。
少数派に入っている龍太郎は、自らの教室にいた。全体が成瀬の統制下に組み込まれてからというもの、龍太郎の席が昼休みに戻ってくるようになったのだ。
(……今日は、我慢だ……。やらなくちゃいけないことは、終わらせないと……)
席を立とうとする足を地面にくくりつけて、龍太郎はノートに向かっている。心も体も強くするためには、自信のもてる箇所をつくらなければならない。
体力でも、生まれつき備わった生存本能でも優位が取れない龍太郎だが、試行錯誤の繰り返しなら負けていない。負けていられない。
ノートに写した方程式と取っ組み合って、解法を探す。今は分からなくとも明日には分かるように、解説も踏み台にして登っていく。
「……龍太郎くん! お昼休みなのに来てくれないから、何事かと思っちゃったよ……」
聞きなじみのある力の入らない声が、集中というフィルターを突破してきた。
廊下の窓からは、真面目そうな美紀が腕を組んでいるのが見える。頭に入ってきた数式を片づけることにリソースを割いている。
「龍太郎くん、ここ最近、勉強がんばってるね。……そうだ、いっしょに勉強会してみない? お昼休みに」
名案だ、と彼女は二本指を前にさしだした。字幕で『I WANT YOU』と張り出しても違和感はない。
美紀がドジの星に生まれたのは間違いなさそうにしても、勉学は好調そのもの。足かせがなくなるたびに、テストの点数が倍々ゲームになっていくのを見てきた。
『美紀、パニックになっちゃって……』
四月のいつぞやかに、亜希がそう嘆いていたのを思い出した。感情の欠落に揺さぶられ、ペンを持つのもままならなかったらしい。
頭が真っ白になってしまえば、試験で点数が取れるはずがない。美紀は、本来ここに来てはいけない存在なのである。
ぜひ、と言いかけた喉を殺した。『あの人』の存在が気になった。
「俺は喜んで受けるけど……。成瀬はいいのか、勉強と対極にいそうだけど……」
「勘違いしてるよ、成瀬ちゃんのこと……。成瀬ちゃんは勉強が嫌いだけど、それは『授業が嫌い』っていうだけで……。私の家に呼んだとき、ずっと質問攻めされちゃったもん」
目がやや上を向いて、美紀はほほえんだまま。棒でつついても抵抗してこなさそうだ。
体一本で知識を蓄えてきたような女王様が、学問への道にも興味があるとは知らなかった。言われてみると、なるほど『謎』そのものを嫌いそうな性格ではあるが。
過去への旅を終えて、龍太郎がいっしょにいたい少女は教室へと回り込んできた。机の前に立ち、気を引こうと顔をのぞきこんできている。
彼女を透過して、シャーペンを動かせるわけもなかった。
「……ところで、龍太郎くん。夏のスポーツと言えば……?」
「プール、かな。……あのプールで泳ごうって言うつもりじゃ……?」
ややしゃがみこんで身体をよせてくる彼女のまつ毛には、一滴の涙のあともない。きちんと洗顔をしており、かつ授業をすべて取り込んでいる証拠である。
美紀には悪いが、高校のプールで泳ごうという誘いに乗りたくはない。消毒の粉を撒いているのだが、不定期開催なのだ。メロンソーダかと何回も勘違いしたことがある。
「そうじゃなくって……、休みの日。……休みの日に、泳ぎにいかない……?」
美紀の自由形、いやクロールの動きひとつひとつが愛らしい。とぎれとぎれの言葉も、息が多くゆるい印象を受ける。
彼女のお誘いは、字面そのままなのがタチの悪いポイントだ。龍太郎が勝手に苦しんでいるだけなので、美紀に非はいっさいない。
(……含みもなにもないのは、分かってるけどさ……)
美紀が休みの日を使って提案してくれていることに、胸がうずく。うずまきが中心に現れて、考え事をすべて吸い込んでしまう。
シャーペンが真っ二つになりそうなほど、力がこもった。
「もちろん、いいよ。……亜希とか成瀬とかも、呼んでるの?」
「今思いついたことだから。このあと、同じように誘うつもり」
突発的なアイデアにしても、最初が龍太郎というのは意図がなかろうが心地がいい。
龍太郎はノートを閉じ、机に収納した。
「あれ、もう勉強はいいの? 邪魔しちゃったなら、ごめんね……?」
「……今日はもう、勉強はいいかな……。好きだし、このリラックスできるの」
ビデオを撮っていれば、気持ち悪い言動である。が、美紀の自信を上げるためならなんだってする。
目一杯のかわいさを蓄えながらも、少女の目がわずかに歪んだ。
「そうなんだ……。『好き』なんだ……」
心臓が皮膚に浮かび上がった。薄皮一枚につつまれて、拍動が直接伝わってくる。
彼女の感覚は、まだ欠落したままの状態。自らにない感情で話をされて、なんとかくつかめないのは当然だった。
ごめん、と心の中で謝る。口に出して得になることはないだろう。
「……龍太郎クン、なんのお話かな? 成瀬をハブるつもりじゃないよね?」
放っておけない少女を見つけて雪崩れ込んできたのか、女王様がいつのまにか横にいた。気配を消すこともできるとは初耳だ。
固まりそうだった美紀の顔が、まだゆるんだ。
「あ、成瀬ちゃん! ……成瀬ちゃんも、プールいかない?」
いつもの日常が、また動き出していた。
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更衣室から出て、冷たいシャワーを浴びる。効果があまりないとされつつ、いまだに導入されている厄介ものだ。
市民プールといえども、ありとあらゆる種類のものが揃った施設。外周は見えない。
あれだけはやっていた成瀬は、部活動の試合が緊急で入ってしまったと、前日に怒鳴り散らかしていた。触れただけで火傷しそうな火山だった。
「早いね、龍太郎くん。この水着……、似合ってるかな……?」
ビキニに似た水着の美紀は、視線を逸らしていた。端についているヒラヒラが、彼女をさらに柔らかくしている。
(……肌が、思ったよりも多い……)
引き締まったおへそまで露出しているとは思いもしなかった。コーディネーターは、『かわいい』を連呼している亜希監督だ。布面積が大きいぶん、まだ健全である。
「せかいいち、かわいい! 知らない人に、美紀を見せたくないなぁ……」
「あきぃー……。選んだの、亜希なんだからね、これ……」
美紀の顔は、赤がにじみ出ていた。
少女が腕を動かすたびに、違う角度からの彼女が見られる。自身の格好を確認するぎこちなさも、美紀が派手な衣装を着ていることそれ自体も、肌に感じられる。
彼女は、天から舞い降りた水着天使だ。やや奥手なその性格と、開放的な水着のギャップが微笑ましい。
「かわいい。すっごくかわいい」
横の応援隊長のエールに比べれば、まだ控えめな方だ。公共の場ですよ、ここ。
平場でも目がくらんでしまいそうな少女の水着姿。背景とマッチした彼女は、いくらばかりの輝きを放ってくれるのだろうか。想像しただけで卒倒しそうになる。
「……そう、かなあ……」
美紀は、そうして口角を緩ませた。
龍太郎と美紀を交互に観察していた亜希が、一歩退いた。
「せっかくなんだし、ふたりでまわってきたら? 私と美紀なら、配信とか遊びでよく過ごしてるし……」
どうぞ、と美紀のとなりを明け渡された。
パージされようとしている少女は、ふっくらした顔で行く末を見守っている。反対をつきつけるのでもなく、賛成の声をあげるのでもなく、やりとりを追っていた。
(……美紀が『それはイヤ』って顔をしないなら……)
お膳立てを蹴って、空気の読まない人間になるつもりはない。龍太郎はありがたく機会を受け取ることにした。
人混みに飛び込んでいく亜希を見送って、視点が少女に戻る。『いっしょにいたい』のなら、それ相応の役割は引き受ける必要がある。
その場足踏みをする美紀は、流れるプールに興味をかっさらわれていた。薄緑のウキワが、所有者をさがして漂流している。
「……龍太郎くん、あの流れるプールでどっちが先に一周できるか、競争しない?」
「……弱点を狙ってくるそのセンス、嫌いじゃない……」
来るまでに、『泳ぎが苦手』と申しつけたばかりである。
「そうじゃなくって、はし……歩いて競走! これなら、平等になる……」
「なるほど、それなら……浮いてるだけのほうが速そう……」
舞台があるのに、案がまとまらない。美紀がただ流れるプールに入りたいだけに見えてきた。
ああでもない、こうでもないと親友の少女が体を揺らしはじめた。一点にとどまらない目は、彼女の側面を開拓していた。出るは出ているものも、緩いしめつけをいいことに控えめな振動をしている。
表情が顔に出るとは、美紀のことを指す。今すぐ結婚式場を予約して、純白のウェディングドレスを着てほしい。
龍太郎は軽く膝を曲げ、さまよっている彼女に目線を合わせた。
「『入りたい』って言ってくれればそれでいいのに……。どうしてもやりたくないことなら、『やりたくない』って言うから……」
美紀の意識がふたたび肉体に宿った。口が開き、こまめに手入れされている真っ白の歯が姿をみせる。
言葉はなかった。合図をだして進行する美紀に連れられた。
浸かったプールは、学校のプールよりもぬるく感じられた。




