File40:梅雨の屋上
六月某日、お天道様が梅雨を呼び寄せるか迷う頃合い。グラウンドがやられる日も珍しくなく、校舎の密度は四月ほどではないにしろ高くなっている。
「なんで、こんなところに……。学校に来てまで、カサ差させて……」
「しょうがないだろ、晴れだとサボりが集まるんだから……」
灰褐色の空の下に、龍太郎たちはいた。立ち入り禁止の先、美紀との出会い、破談があった屋上だ。コンクリートが無機質に広がって、空と同化していた。
雨粒が潰れる悲鳴が、一面を覆っている。傾斜のない床は水はけが悪く、膜を形成していた。
龍太郎の説得は、何日にもわたった。リストに載った全員と現状把握をし、抗争への賛歌を呼びかけた。
龍太郎一人では、胡散臭がられてまともに立ちゆかなかった計画。『早矢さん』『成瀬さん』の言葉は絶大だった。絶対的女王の人望と面倒見のよさは、中間層のいたぶりにも揺れなかったらしい。
「……それで、どれくらいが協力してくれるって? 全員は難しそうなの、さすがに成瀬でもわかるし」
くぐもった声とは裏腹に、成瀬の眼はふくらんでいた。か弱き女子たちに期待する目である。
成瀬は百パーセントを求めてこなかった。付きあいの中で、性格を読みとらなければ不可能な芸当だ。リストの備考欄は全員埋まっていただけのことはある。
「だいだい。数人だけは、どうしても踏みだせなかったけど」
龍太郎のような日和見主義の人種は、形勢不明な戦で肩入れすることを敬遠する。痛めつけられて恐怖に支配された人も、参加するだけの精神は持てない。
(……俺だって、『参加するか』と聞かれたら……)
かたくなに誘いを断る自身の姿は、確率で現れる。拒否した女子たちに不満を言う権限はない。
『自分は関係ない、で見すごしてほしくない。君が標的になったとき、助けてくれる人が誰もいなくなるから』
有名なセリフを拝借したものである。各個撃破を見殺しにすると、いつか自分に返ってくるのだ。最初に動くか、動かないか。それが運命を分ける。
日和見主義者の大半も、この一言で抵抗に舵を切ってくれた。
いつも威風をまとうプレジデントは、安堵の息を漏らしていた。
「そっか……。あの子たち、やってくれるじゃん……」
「普段から、成瀬が見捨ててないおかげだよ。『早矢さん』って言うたびに目の色が変わってたし」
成瀬が警察に牙を剥いても、正当な理由があれば彼女らは従うだろう。成瀬ひとりの存在で、信頼も、情勢も、全てがひっくり返ってしまう。
美紀を含め、数十人もの参加表明にこぎつけた。反乱が起こっても、下位層が同調する事態は防げそうだ。
そうなると、気になるのは成瀬のほうである。核心となる上方の同意を得られなければ、作戦はすべてが水泡と帰す。
「……それで、成瀬は……? 取りつけ、うまくいったか……?」
「ここにいるお方を誰だと? ここから突き落として、迷宮入りにしてもいいんだよ?」
美紀がすべてを取り戻すまで、死にたくはない。
「もちろん、一軍女子の方は、ね。真ん中の子たちには、一部から絶交された」
「絶交!? それ、制御できなくならないか……?」
反乱軍が蜂起するにしても、予測が必要。関係を断絶されてしまっては、情報がつかめなくなるのではないか。よそ見で美紀を人質に立てこもられれば、すべては瓦解する。
龍太郎のうろたえに、成瀬は一切の弱点を見せない。目力で建物を真っ二つにする気概が感じられる。
「そうかもしれないね。成瀬が限界ギリギリまで追い詰めちゃったからね。……でも、ことを起こすなら早いほうがいいと思ったから」
平然と話しているが、グレーゾーンを踏んできたことは明白である。彼女の詰問を受ける気には到底ならない。
「……だから、龍太郎クンが授業中に呼び出してくれたの、エクセレント。上の子たちだと、抑えきれるかは怪しいから……」
成瀬の定義する『一軍女子』には、部下を使役する人以外にも、優等生やスポーツ少女なのどカテゴリが含まれている。全員が戦闘型ではない。
「……限界まで追い詰めたら、自暴自棄になって……」
「言ったよね、『ギリギリまで』って。非協力的な子たちには、ほどよくヘイトを買ってもらって、爆発しないくらいの騒動を起こしてほしいからね」
たくましい千里眼と評するべきなのか、スリルを楽しむ冒険家とけなすべきなのか。ヘイトをコントロールするという思考は、龍太郎になかった。
不発弾のままでは、システムを再構築するきっかけが得られない。大爆発を起こせば、美紀やその他の女子にまで被害が及ぶ。不平不満を操って、都合よく事件を起こしてもらえれば、うまくことが運ぶ。
もっとも、その絶妙な調節は、失敗を頭から消した成瀬にしかできないわけであって。
「というわけで、龍太郎くんも備えておいて。『ほどよく』ても、流れ弾はありえるから」
暴力革命のつもりがなくとも、衝動で飛び火する可能性は捨てきれない。龍太郎も、そう心構えている。
ジメジメした空気が、汗を空気へと逃がさない。龍太郎も、成瀬も、傘の下に汗を浮かべたままだ。
目を閉じると、動物の鳴き声一つしない天気の世界へ。傘の柄が震えるのが、唯一の信号である。一定のリズムで刻まれる音楽が、梅雨前線を知らせてくれる。
(……美紀を救えるか、どうか……)
金銭欠乏の有事には、亜希というウルトラCの出現で対処できた。今回、カギになったのは成瀬である。龍太郎が直接打開の糸口にはなっていない。
だが、主役の座にいないだけ。最大の貢献に励んでおり、またそうでありたいとも思う。
「……龍太郎くん、今からは成瀬の独りごと。何も反応してくれなくていい」
出入口の扉に目線を張りつかせた成瀬は、傘を閉じた。雨の勢いはむしろ増している中で、だ。
遮蔽物が取り払われた彼女の髪の毛に、我先にとしずくが群がっていく。
龍太郎がもの言いする前に、肘を張った手で制止させられた。
「……トップにならないと、何もできない。何をするにも、力がいる。混沌としたここで、統制しようと思ったら、それしかない……」
かの女王の視界は、誰の肉体も寄せつけやしなかった。
「……最初に美紀を見て、ただの可哀そうな子だと思った。部品は問題ないのに、動力に問題があるロボットみたいな……」
桜散る校庭で、見初めの龍太郎を追いかけまわしていた少女。貴重なエネルギーを、『好き』の探求に割いていた。動きがぎこちなかったのは、制限解除の副作用だ。
隣の女子は、前髪を額にはりつけてなお雨に打たれている。肌が生きた色なのは、中で炎が燃え盛っているからだろうか。
「……でも、気づいちゃった。美紀と一緒にいて、付き添って、話してみて……。もちろん、他の子とも交流はしてたけど」
雨水が唇を伝って、アゴから滑り落ちる。制服から覗き見えるスクールシャツには、肌色が映りこんでいしまっていた。
彼女の攻撃域に立ち入らないよう、背中側から傘をかぶせた。大柄でない龍太郎をもってして、ギリギリ二人がおさまっている。
ビニールをたたく、自然太鼓の音色。ようやく雨の途切れた成瀬には、水滴がアクセサリーとして付加されていた。雲の切れ間からの太陽光線が望まれる。
「……あんなに汚れずにほほ笑む子は、他にいないんじゃないかな……」
「純白じゃなくても……」
「独りごとに返事したら、変な人だと誤解されるよ? まったく、最近の男子ときたら……」
突き飛ばされるのを覚悟したが、固めた腹筋に蹴りは入らなかった。
(……美紀が、きれい……)
少女が不自然な行動に踏み切るのは、背後に別の人が陣取っているとき。支配下にいない美紀は、ニュートラルな感性で空気を味わっている。
誰しもが、心にキャンバスを持っている。各々が自由な発想で絵を描き、他人と見せ合い、完成品となっていく。道を踏み外して墨汁をぶちまけるヤツもいれば、他人から絵具を強奪する悪党もいる。
美紀は、まっさらだ。下書きもラフもない画用紙が、地平線まで広がっている。
(……無彩色に染め上げられてたまるか)
色の明度は低くなる一方の世界だ。灰色に着色した心は、二度と陽気を浴びない。現実は、分岐路までやってきている。
成瀬がまわれ右をした。蒼い感情を地に流す詩人から、やんちゃな幼心を忘れない番長に戻っていた。
「龍太郎クン、扉まで傘さしててね。入ったところにタオル用意してきたから、心配ならご無用ってこと」
「風邪引いたらただごとで済まないんだから、もうちょっと慎重に……」
「むしろ身体が熱かったから、冷やせて丁度いい」
彼女との口合戦には、勝てそうにもない。




