File35:いらない
高校内における自らの居場所は、三年間が虚無になるかどうかがかかっている死活問題だ。椅子なし窓際族に追いやられようものなら、不登校になってもおかしくない。底辺高校そのものが地獄という意見はもっともである。
龍太郎の定位置は、隣のクラスに移りつつあった。ヤンチャが一発退学を食らったようで、美紀のすぐ後ろが空白地帯になったのだ。席替えまでのあいだ、根城として使う予定である。
「……結局、ゴールデンウィーク、何もできなかった……」
「……亜希に相談してみようか? 『何かさせてあげたい』って」
「龍太郎くんに悪いよ……。祝日を平日だと思えば、いつもと変わらないし……」
高校は義務教育ではない。にもかかわらず、休みの日は誰もが待ちこがれている。あの亜希ですら、
『……三日間もあれば、美紀にしてあげられるかな……』
と、とくに否定的な素振りは見せなかった。
悪いニュースは、その『美紀』は親に珍しく拘束され、外出許可すら下されなかったことである。彼女が家に帰ってこないと、家事要員がいなくなるとかなんとか。一人暮らしを勧めるには、あまりにも費用がまかなえない。
(俺は、何もしなかったし……)
高校生に、三日間の空白は長すぎた。気づけば、もう一週間のはじまりを迎えていた。
「……美紀、ほれ」
平坦な会話をする二人に、ワンコインが降ってきた。隙間に落ちる前に確保した美紀は、述語のひとつも聞き返さずに教室を飛びだしていった。
掛け声一つで手下を動員したのは、勢力圏を学年外にまで広げはじめた女王様。龍太郎はタメ口を使っていたが、公の場ではへりくだる比率も高くなった。
誰の目からしても、美紀はお使い犬だ。号令ひとつでご主人様の命令を聞く、愚鈍な中堅である。
(……購買、ちゃんと機能してるのが、また……)
高値吹っかけ事件以降、成瀬を筆頭とした一年生が利権を奪いとった。それだけでなく、教師陣に協力を要請して『取り分』を黒字にまでした。今は、標準的な購買部になっている。
成瀬は、龍太郎に見向きもしない。机に乗りあげ、窓から裏庭を注視している。何者も介さない姿勢が、また彼女の株を高めるのだろう。
『……高校で、成瀬は『成瀬』だから』
美紀とともに下校している最中、通り過ぎざまにつぶやかれた言葉。
成瀬は成瀬で、期待を集める『ステレオタイプ』になっている。それが安全に美紀を保護できる手段だ。
少女を買いだしに走らせているのも、過度な熱意を読みとられないため。事実、おつりはすべて美紀に回収させ、購入物の一部も彼女に回している。
(……ちょっとだけ、努力をしてみますか……)
龍太郎は、懐から英単語帳を取り出した。勉強道具を開くことそのものが自慢とみなされるこの環境だが、やってみないと始まらない。
本日の単語の一個目に、目がようやく追いついたとき。
にわかに、教室が騒がしくなった。椅子のパイプ同士がぶつかり合い、体育リレーの声援よりもやかましいかん高い音が反響する。
「ゴキブリ!」
女子たちの叫びが、対象物を明瞭にした。
教卓と廊下とのスペースに、黒の羽を持つ虫が鎮座している。申しわけ程度に生えた二本の触覚が、また気色の悪さをかきたてる。
(……ゴミがポイ捨てされてるくらいだからなぁ……)
人間がゴキブリのすみかを作ってあげているのだから、ゴキブリもその招待を受けて馳せ参じるのは当然のことだ。この高校に人間がどのくらい棲息するのかは棚にあげておく。
ここで頼りにされるのは、やはり成瀬。期待の眼差しが、大黒柱の背中を押す。
「……ガチイヤナンダケド……」
至近距離の龍太郎にしか届かない独りごとだった。
成瀬の右手は、つかむ動作をしては振りはらっている。いざ現れた敵は、購買部より恐ろしいものに映っているかもしれない。
気怠そうに両腕を天に伸ばし、脱力する。メカロボ成瀬が、重い腰を上げた。
タイル二枚分まで近寄り、一対一に持ちこんだところで。
『やあ』と言わんばかりに、二匹目以降が列をなして入場してきた。一匹目につられてやってきたのだろう。炎の女王様にかかれば、一網打尽。飛んで火にいる何とやらだ、たぶん。
成瀬の動きが止まった。見てはいけないものを見てしまった。殺虫スプレーが握られていても同じ結果になっているはずだ。
ドタバタ、もう一匹乱入してきた。
「……買ってきたよ……?」
総菜パンとペットボトルをそれぞれ握った美紀だった。お使い主の成瀬が臨戦態勢に入っていることを案じているようだ。
何も知らない少女は、女王より前方に張り出した。列をなしてごちそうを待っている暗愚どもとご対面になる。
先刻の敬う視線とはうってかわって、背中に取りつけられた綱を引っぱる勢力が教室中を覆う。『出しゃばるな』『成瀬に任せろ』と、容赦ない罵声が空白となって浴びせられている。
「……ゴキブリ……? ……それにしては、大きい……」
第一声は、おおよそ集団が期待するものと真逆であった。
(大きいと、ゴキブリじゃなくなるのか?)
龍太郎の意識は、驚きを通り越して感心にたどりついていた。ぽっと出の異星人少女が生みだす波風を、体いっぱい受けてみたくなったのだ。
美紀宅の台所で、棚の下から挨拶したゴキブリを見たことがある。あれは薄茶色の折れそうな羽に、小型だった。成瀬がそこら辺の棒で叩きつぶしていたのは、逃げたい一心だったのだろう。
ともかく、美紀はゴキブリと無理やり共生させられてきた。龍太郎たちでいう『アリ』のようなものだ。
顔をしかめて、成瀬が美紀の右ポケットを引っぱる。止める意志は見受けられない。
「……だったら……、こうして……」
無敵系少女は、先陣を切ったゴキブリを拾いあげると、裏庭へと放した。羽をはばたかせ、黒茶色の虫は飛んでいった。
前例を作ると、あとは面白いように事がはこぶ。二匹目、三匹目と隊列を組んで、窮屈な建物から脱出していく。アリの行列が空中に浮かんだ格好だ。
(……一人で解決しちゃったよ……)
龍太郎は内密に拍手をおくる一方で、とある懸念が増幅されていた。
美紀が表舞台に出てくる。彼女の経験が蓄積されると同時に、上位層に仕える二軍の嫉妬を買うことにもつながってしまう。自分から這いあがろうとしないクセして、自力でのし上がる人種には苛酷な言葉で殴りかかるのだ。
しばし静寂が場を支配した。誰を評価するか決めあぐねているようだった。
(……どうしても、美紀を認めたくないんだな……)
現状維持を望む世論は、変化しそうにない。
「……早矢さん、ゴキブリも処理しちゃうなんて……」
お世辞のみこし上げを皮切りに、拍手が巻きおこった。女王への賛歌であり、その下僕への労りはゼロ。長いものに巻かれにいく、日和見主義者のムーブである。
当の成瀬は、何か言いたげに口をもごつかせていた。スポットライトの光をねじ曲げると、かえって集中され危険と見たのだろう。
拍手が鳴りやむと、平常運転に戻っていく。美紀の活躍など、初めから存在しなかったかのように。
教室を出ていく手前、一人の女子生徒が。
「……出てくるなよ、前橋」
龍太郎は、聞き逃さなかった。




