File34:善いこと
美紀の恋愛感情を取りもどす、いや植えつけるには、何をすればいいのか。少ない頭で知恵をひねり出そうとしても、やすやすと思いつくものではない。
「……ふんふん、ふふーん、ふんふんふん……」
背もたれにもたれかかる少女が奏ではじめた即興のメロディで、脳細胞が活気づけられる。
龍太郎は、これまでに施してきた策を思いかえしてみた。
(……美紀に直接なにかをしたこと、あったか……?)
環境を整える準備はあっても、心に訴えるものは少ない。心理の面からも、突破口を探していかなくてはならなそうだ。
また精神世界に戻ろうとして、忘れものを思いだした。
「美紀、そういえば……。『一日一善ノート』、作ってなかったか?」
「もちろん! 一日もかかさず、書いてるよ」
意識の浮ついていた美紀に、ほんのり灯りがついた。小さな体に引っついてくる制服が跳ねたように思えた。
飢餓騒動以前のことで、すっかり忘れていた。龍太郎は、『そんなの、作ってたねー』と亜希が苦笑いするほうに賭ける。
「……高校に持ってくるのは怖かったから……。家に来てくれるなら、見せてあげられるけど……」
「乗った!」
監視衛星から噂を聞きつけた成瀬が、はるばる宇宙を旅して登場した。地獄耳とは彼女を指す言葉である。
(ノートを持ってこれない……のは当然か)
小柄で立場の弱い少女にとって、高校は危険な場所の一つでしかない証明だ。成瀬の力一本でも、残念ながら環境は改善されていない。
龍太郎にとっては、ひさしぶりとなる美紀の家。こびりつく貧乏イメージは、亜希の尽力で多少は変わったのだろうか。
(……美紀……の、家……)
彼女が生活する空間に行く意味が、意識の中で色づいている。ブレーキ役の亜希は、間に合いそうにない。
美紀とすごす時間が伸びたことに歓喜する少年心と、成長を楽しみにする親心が両立した龍太郎である。
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砂利道を抜けた先に、くだんのボロ屋が姿を見せた。明かりがついていなければ、ただの廃屋にしか見えない。
「……成瀬ちゃんも、龍太郎くんも、あがって。……お茶は出せないけど……」
家主にならって靴のかかとを揃え、居間にあがる。ジャンプをすれば踏み抜いてしまう床板は、数週間前と何も変わらない。
ちゃぶ台には、向かい合うように置かれた座布団。選択肢は存在せず、成瀬と対面に座った。
「……そういえば、龍太郎くんは配信以来だったっけ……。クイズ、家の中の何が変わったでしょう……か?」
首を傾げる美紀は、心をわしづかみにするエンターテイナーだった。頬が緩んでいるのを成瀬に悟られてはいけない。
キッチンに目を向けると、白くそびえ立つ塔が約一本。コンセントが尻尾から伸びている箱が、約一台。かつての貧乏少女の家にも、文明開化の波が訪れていた。
居間を見わたしても、あきらかに彼女専用の学習机。ゴミ置き場にされることは、彼女が拒んでいるらしい。書きかけのノートが開かれたままだ。
「……全部。どこもかしこも。亜希が文句をたらしてた箇所すべて」
「……正解、になるのかな? 選んでくれたのは亜希だったし……」
あらゆる分野に明るい幼馴染博士なら、性能を心配しなくてよさそうである。
(……とはいえ、美紀の親は事情を知らないだろうし……)
美紀には汗水流して手にいれたお金でも、両親からすれば『湧いてでた』拾いもの。財政のヒモが親に握られていれば、彼女が自由を授かるターンは一生回ってこない。
追加で疑問を入れるとすると、家電の所有権はいったい誰の手に渡っているのか。親が保持する未来は、はした金になっている。一人娘にビール缶しか見せない親に、将来性を構築できるはずがないのだ。
「……美紀の親は、大丈夫か? お金とか……、亜希に買ってもらったものとか……」
亜希が手段を尽くしてくれていても、なお不安になるのが龍太郎のいけない点である。
いつもは弾んでいる美紀の目が、柔軟さを失った。
「……私から、『絶対使うな』って釘を刺したから。……もう、他人のせいで何もできない、なんて……。こりごりだったから……」
足かせに感じたとしても、実の親は実の親。翼をもがれていた彼女が、残された羽を伸ばして飛びたとうとしていた。
理不尽に抗う心を手に入れた美紀は、どこかものさびしく映る。従ってさえいれば無難に過ごせた過去を打ち消して、未開拓の地へ降り立った孤独さだろう。こればかりは、慣れるのを待つしかない。
「……ノート、取ってくるね……」
防護壁を用意せず、スカートをふんわり反りかえらせて美紀が立ちあがった。広げられたノートに向かっていく。
(……机に出したままで……)
今日が始まったときから、龍太郎たちを招きいれるまでのあいだ。ノートには、何かが書き込まれたはずである。不要物を放置しておく意味はない。
一挙手一投足をメディアに保存する成瀬は、手持ちぶさたそうだ。人目の入らない空間は、そう多くはない。
「……高校だと聞けないから、ここで聞くけど……。……強いヤツと戦う時、どんな風に考えたらいい? ……もちろん、俺がする前提で……」
「ん、知らない。……だと、求めてられてる答えじゃなさそう。……龍太郎くん、自分がどの位の格付けされてるか、分かる?」
最低限の配慮をしてくれた。声質が鋭利なのは変わらずとも、虫眼鏡で観察すると先端は丸めてくれている。
(俺の、立ち位置……?)
スクールカーストで判断するなら、最底辺。武力ランキングでは、下位常連。平均より優っていそうなのは、美紀に対する熱意くらいだろうか。
格上に向かっていく勇気は、真向かいの成瀬に譲ってもらってようやく平均に達する。いわゆる『人を助ける力』において、龍太郎は優位性を作りだせていない。
『闇の差しこむ悪循環を生みだしてはいけない』との誓約が、クレバスに挟まる寸前で龍太郎を引っぱりあげた。
「……正直、何のパラメータで見ても、下のほうだ……」
「それくらい、一秒で即答してくれないと……」
黒色になりかけた龍太郎を一周して、成瀬はため息をついた。分かっている事柄を複雑にする癖は、無意識のうちにやってくるのだと感じらせられた。
人差し指が、優柔不断な男をめがけた。
「ともかく、龍太郎くんの武器はそこ。振りきれてるから、分かりやすい。……『ありのままの自分である』かな、まとめるとしたら」
彼女の眼光は緩まない。いつもの暴風が強風注意報に格下げされていても、自然と背筋が伸びる。
『ありのままの自分』とは、龍太郎そのままのこと。武力で負ける相手に遭遇したときは、ぶつかっても悲劇が待っているだけという意味だろう。
また成瀬に質問をぶつけようとして、腕でけん制された。左を見ろ、とハンドサインが飛んでいる。
「……ほら、これ。『一日一善』ノート。亜希が作ってくれてから、もう宝箱みたいになっちゃって……」
一枚一枚を羽ばたかせるのは、蚊帳の外だったらしい住人の少女。表紙タイトルに『いちにちいちぜん!』と善行なのか米飯なのか判別しかねる題名が載せられている。
ちゃぶ台に広げられたソレには、規律に沿った美紀のおとしやかな字が躍っていた。ひらがな成分多めで、カチコチの龍太郎とは反対の文章スキルを持っている。
『亜希と龍太郎くんが、捕まってたわたしを助けてくれた』
まだ記憶に新しい重大事故未遂も、ありありと生きていた。美紀が読み聞かせ会を開いているかのように鼓膜が反応した。
「……美紀、この『龍太郎くん』、消しゴムで消したほうがいいんじゃない」
「武力型亜希になるのは勘弁してくれよ……」
「誰がアキになってる、だって? 初対面から『ちゃん』付けされたの、忘れてないからな、あやつ……」
時限爆弾の起爆コードを切るところだった。ていねいに点線が引かれているのが悪い。
美紀は、いつでも恐ろしい成瀬の額に指を走らせていた。
「私も、龍太郎くんと同じこと思っちゃった……。……龍太郎くんをニセモノの包丁で切りかかるの、亜希もよくするから……」
頬が持ちあがったほほえみが神々しい。少女には、新しい気の許せる友がもう一人いた。
味方に背中を急襲され、百戦錬磨の女王も身動きが取れていない。野生の狼をひるませる目力も、美紀相手には子猫の甘えになってしまう。
「……いいよ、成瀬は寛大な女だから。……」
美紀にされるがままのロボットと化した成瀬を脇において、龍太郎はノートの金言を読み込んでいく。
同クラスの保護者なこともあって、対象の大半は成瀬。彼女なしに、美紀は相対的に安定した日常を保てただろうか。愛情に代わって、巨大な友情が一文字一文字から発現してくる。
少女の貴重な『今』を、対価も払わず閲覧していいものか。わずかな葛藤があったのちに、ページをひとつめくる。
『こけそうになったところを登川くんが助けてくれた』
これは、プロジェクトが始まってまもない頃のもの。成瀬が『ドジっ子』と公言する根拠は、どこにでも埋まっている。
美紀に日付をたづねようとして、ある一文に目が留まった。
『龍太郎くんが、手を差し伸べてくれた。不安を全部取り払ってくれた』
このノートには、彼女の本音が記されている。その日起こった出来事を、新鮮なうちに文として残してくれている。
この一文だけなら、意識を釘付けにされることはなかっただろう。
『その手を取れたことが、嬉しかった。よく分からないけど、力がすっと抜けた』




