File33:アホウがいっぱい
五月は初夏、そんな日本人の常識は崩れようとしている。一昔前の世代が『子供のころは』と懐かしむように、現代の皐月は蒸し暑さに対抗しなくては生きていけない。扇風機だけで過ごせる上限の月になってしまった。
梅雨前線が接近してくるまでは、津々浦々晴天が広がる。心地いいくもり空の日は、外の空気を浴びるのに最適な気候といえる。
やる気のない龍太郎も、休日の今日に限っては外に出てきていた。歩行して緊張をほぐせば、それだけで本来の機能が回復する。
(……ちょっと遠出だな……)
龍太郎は住宅街に囲まれているとあって、灰色の壁を眺めるのでは目の保養にならない。鉄道も駆使し、自然が顔をのぞかせるふもと付近まで遠征しにきた。
やまびこを狙って叫びたくなるが、まだちらほらと住宅が残っている。周辺地域に悪名を轟かす気にはならない。
駅のロータリーから道なりに進んでいくと、川にぶつかった。川底の石が肉眼で見える程度に浅く、釣り人は見当たらない。泳いでいるのも、全身を覆う水着で暴れている奇妙な女子一人だけだ。
(高校近いからな……、あんなアホウも湧くんだろうな……)
底辺高校周辺は、極端な特性を持つ人種とエンカウントしやすい。クスリなるものに手をのばしていたり、路上で売店をしていたり、大型二輪を乗りまわしていたり……。無個性率も上昇している。
河川敷には、中程度の丸石がごろごろ。とてもレジャーに向いているとは思えない。小川に堆積能力を求めるのは間違っているようだ。
龍太郎が辿ってきた道は、この先橋を越えて山道へと変貌する。新たな散歩コースを求めて、急傾斜の河原を下っていった。
橋の死角になっていた日陰に、サングラスをかけた少女がいた。空は曇り空、外で休憩するには最高の条件なのかもしれないが、サングラスが泣いている。
くわえて、上下真っ白の長袖長ズボン。せめて水着ではないのか。何をしにきたのだろう。
海水浴にしても、動きづらそうな格好は適していない。海水もない。
頭を左右に転がしていた少女が、ノックバックから起きあがった。頭の後ろに隠れていた髪は整然と下に流れ、話しかけてもいないのに肩をすくめている。
(……亜希ではない……、成瀬でもない……)
付近で思いあたる知りあいの女子は、高々数人。
「……龍太郎くんだ。……おはよう……」
「もうお昼が近いんだけどなぁ……。おはよう、美紀」
垢がまったく抜けない少女だった。アウトドア活動に見えて、ひんやりした日陰で寝転ぶだけの簡単なお仕事だ。
両足を丸石の上に乗せて、重心のバランスを取る。平坦な川沿いには行かず、手間をかけてその場に留まっている。
(……ここ、美紀の家から近いんだっけ……)
鮮明に映る記憶によると、美紀宅は山の登りかけ。遠方のイメージがついていたが、住宅街へ迂回したのが原因だったようだ。
無風の河川敷で、彼女はロウソクの火になっていた。元凶は、もちろん不安定な足場である。平衡が失われそうになるたび、整えられた正直な髪の毛が初夏に洗われる。
(……この服装のチョイスは、どこの誰が……?)
特徴を見つけられない白シャツに、サイズの合わない長ズボン。足の裾に、美紀をもう一人入れられる。グレー基調の今日の天気では、純白さも輝いてくれない。
さらに大問題なのが、すべてを覆いつくすサングラス。黒が濃く、はっきりと瞳が読みとれない。ただの美しい少女に成りさがってしまっている。
「……その格好、誰かに言われたのか? 自分で調整したなら、そのときはごめん」
「やっぱり、変かな……? とくに、この黒い伊達メガネ……」
語義として間違ってはいないが、本人が積極的につけた言動とは感じられない。
「そう、サングラスかけたままだと、美紀の……」
「そうだよね。……龍太郎くんのこと、近くに来るまでほとんど見えなかったし……」
無意識に龍太郎の本音が出かけてしまった。聞き逃せない情報で上書きされたのでよしとする。
外界からの光がすべて黒に吸収されて、宝石がちりばめられた彼女の眼が鑑賞できない。
根が消極的な彼女にとって、発言以外でもっとも会話をしてくれる器官、それが『目』だ。歓喜も、悲観も、そのこぼれてしまいそうな瞳が紹介してくれる。田んぼに飛びこんだバカ二人組を目撃した吊りあがりも、金欠を気にしなくてよくなった円も、つねに全力で話しかけてくれていた。
今後、美紀が眼科にお世話になるとき、眼科医はその喜怒哀楽に我を忘れてしまいそうになるだろう。施術中はやめてほしい。
龍太郎に促されて、黒いベールが解かれた。高校で周りを気にしている警戒モードから百倍は拡大していそうな、感受力豊かな眼が現れた。
「……どうかした? ……砂がいっぱいついちゃってる?」
目元をはらう彼女は、疑問符を浮かべている。ファッション雑誌の表紙を飾っていてもおかしくない。
龍太郎は肩の力を抜きとられて、地に足がつくようになった。ゴロゴロした石ころに体重がのって、トラックに激突されても飛んでいかない自信がわいてきた。
カメラを持ってこなかった自分を悔やんでも悔やみきれない。
一心不乱に見つめられても、美紀は心を動じさせない、動かせない。彼女が持つはずの『好き』は、封印されている。
(……この目にハートマークが浮かぶのは、いつになるか……)
九割九分の感情を含められる武器に、唯一足りない部品。それを求めて、龍太郎たちは航海に出ている。
何もしていないのに、ほっぺたは熟れている。美容が頭から抜けた状態で、水分を保ちつづける唇。余裕のある首元は、猫が近寄ってねぐらにしてしまいそうだ。
龍太郎は、それ以上直視することを拒んだ。ここのところ収まっていた微熱が、また再発してしまいそうになった。
今の美紀に想いをぶつけても、回答は変わらない。道具として扱ってしまっており、美紀にいらぬ爆弾を投げこむことになりかねない。
心臓に手のひらをあて、拍動を数えてみる。持久走の後、強度を計るように……。
「……龍太郎くん? 体調、また悪くなっちゃった?」
美紀の影が進行するのに気づき、距離を取る。
(……いま触られでもしたら……)
肩を叩かれただけで、不自然な対応をしてしまう。美紀の前では、平静を装いたい。
ひっきりなしに思いかえす少女の姿を、別の写真にすりかえる。橋の下にはだれもおらず、龍太郎は散歩しにきただけ。美紀とは、今ちょうど出会った……。
「……ここから、私の家まで近いか……!?」
ドミノの崩壊する音が、憂慮をはじき飛ばした。美紀の未処理声が、弱々しく河原に響く。
龍太郎が振りかえったときには、別の影に日光を奪われていた。
男子の視線に興味のない、露出ゼロの水着。水に濡れているのは、横の泳げそうもない小川で暴れていたからだろう。
「頭打ってない? ……石が崩れただけ、か。ドジっ子だなぁ、まったく美紀は……」
こちらも、高校のキャラからは予想できない温和な低音だ。
美紀がバランスを崩して転び、周囲には監督できるはずの龍太郎がいました。さて、矛先は誰に向くでしょう。
「……龍太郎クン、やってくれるねぇー……」
「元はと言えば、成瀬が目を離したから……」
「そう。だから、成瀬もキミも、罰として100メートル泳ぐことにしよう」
いちおう筋を通してくるのが厄介な点だ。
「……水着も持ってきてない相手に、泳ぎを強要するのは……」
「だれも『川』なんて言ってない。か・わ・ら」
……尻もちをついたまま、呆気にとられて意識のふき飛んでいる美紀がただただ愛おしかった。




