File29:初心者
Chapter4 start
巻きこまれた激流がほんのり温かくなってから、一日。昼夜を挟んで、疑問の雨がようやくやんだ。
昨日、いやおととい。荒廃した環境が百八十度ひっくりかえるとは、予想していても外してしまうだろう。発案企画者の幼馴染にはもちろんのこと、綻びかけた編み目に気付かせてくれた某暴れん坊将軍にも頭が上がらない。
(……たった、一週間たらずで……)
ドラマの放送時間を引きのばしても足りない金銭問題を、彼女らはものの数日で解決してしまった。龍太郎の力がいかに微細かを明らかにしている。
掛け布団を吹きとばした床上で、健気に全力を出していた少女が蘇ってきた。潮の満ち引きを繰り返して、沈静化してきた中で、である。
『……ありがとう、龍太郎くん』
碇の鎖を断ち切って、大海を浮上しはじめた兆しが、ありありと含まれていた。背後に隠れていた太陽が出てきたような、暖かい日差しを四方八方に振りまいていた。
自分自身でも解き明かせない、自らのくぐもった心。理性で押さえつけて、動かそうとしなかったもの。厳重に密閉されていた心の膜に、針で穴をあけられたようだった。
柔らかくカーブを描く彼女の光沢ある長髪が、宝物にうつった。一晩寝かしても、視界の変容を脳が追いきれていない節がある。
龍太郎は自堕落モードの肉体を揺りおこして、子機を取った。いまどきは個人携帯が主流なのだろうが、龍太郎もまた過去にとり残されている。
掛けた相手は、心配事を受けとめてくれる信頼の人だ。
『……もしもし、こちらは……』
『龍太郎だよ、龍太郎。こんな誰しもの活動時間帯外に電話を掛けるヤツなんて、限られそうだけど』
『それは龍太郎が怠惰なだけだと思うよ?』
壁にぶらさがる丸時計は、なるほど二桁の数字に移ろうとしている。日曜日だけ標準時をイギリスに合わせてはどうだろうか。
受話器の向こうにいる亜希は、明快そのもの。規則正しい生活を送っているようでなによりだ。
『前座はここまでにしておいて。……さっそく、ライフラインの権利を使いにきたのかな? 使用制限は特にないけど』
『誰が賞金を取りにきた、と……?』
三十秒で切れてしまっては意味がない。それを知っていて雑談に巻きこむほうにも責任はあると思うのだが。
(……いつもの亜希のままでよかった……)
変調を亜希に気付かれてから、『親友が親友でなくなってしまう』瞬間が片隅に現れていた。自分が新たな段階に進むことで元の世界に残留できなくなってしまうような、根拠のない不安があった。
春というよりは初夏な、寒暖で表せない空気を吸いこむ。酸素を片っ端から神経細胞に送りこみ、意識レベルを下げまいと努める。
『昨日の話にはなるけど……。……俺、本当に『恋』に落ちてるのか、って……』
自宅に帰還してからも、龍太郎は水分補給無しでサウナに閉じこめられていた。窓の外を眺めても、布団の中で蝉の幼虫になっても、美紀の包囲は解かれなかった。高校で幾度となく目撃した弱弱しい彼女と、難破船から救出されて光を溜めはじめた彼女が重なり合って、消えない刻印を押されつづけていた。
ところが、時間というクッションが挟まるにつれて感情の乱高下は収まっていった。死人の心電図になるのも、そう遠くない状態なのだ。
『美紀に嫌なところでもあった? 嘘告白が許せなかった、なら……、……私が全部責任を被るよ』
『そんな昔のこと、ネチネチ恨みに持つヤツじゃないよ。……俺をどういう風に捉えてるんだか……』
自尊心は低く、プライドはお値段相応なのは理解している。が、美紀の案件について責める龍太郎は生まれてこなかった。いたって健康的文化的生活を送っている龍太郎が、上から見下ろしているだけだったのだから。
『……昨日みたいに、体の中心が揺れ動かないんだよ……。熱っぽいのも、治っちゃったみたいだし……』
ここ数年、血管が脈打つ情熱を体感してこなかった。体育大会も、クラス間の交流も、上辺だけの集団と冷笑していた。遠くから冷静に傍観する男の、どこが『かっこいい』のか、いまなら否定できる。
手に入れたはずの拍動が、一日もしない内にするりと逃げていった。まだ龍太郎がやすやすと入手できる範囲にないという神のお告げなのだろうか。
音声の向こう側からは、雑音とも息とも取れる微小音が伝わってくる。通話中にログアウトされてもらっては困る。
(前も、こんなことあったな……。あのときは美紀を連れ込んでたけど……)
そうであれば、亜希が時間を独り占めしなさそうである。取っ組み合いに発展しないのも不自然だ。
応答なしが続くこと、ひと時。
『……くく……、そっか……龍太郎、初心者も初心者だった……』
愉快にならない吹きだし笑いに、胸を小突かれた。反撃したいところだが、電話越しでは効かなさそうだ。カウンターを見とどける証人も不在である。
『なーにがおかしいんだよ。人が真面目に、れ、恋愛相談してるっていうのに……』
言い慣れない単語に、舌がつってしまった。
『あのさ、龍太郎。恋愛してたら、その人のことがずっと頭に浮かぶ、そう思ってる? 『好き』が連続的に押しよせる、そう考えてる?』
『……そうじゃないの、……か? 恋愛ドラマだって、恋人のことばっかり描いてるし……』
縦にも横にも繋がりのなかった龍太郎は、情報をメディアから収集せざるをえなかった。興味のないフリをして、恋愛を知っていそうな唯一の友人、亜希に教えてもらわなかったツケが回ってきたのである。
亜希の連続攻撃は鳴りやまない。
『ドラマなんて、視聴者が見たいシーンだけ映すに決まってる。龍太郎のことだから、ネットでも調べたんだろうけど……。ネット記事だって、アクセスが稼げれば何でもいいわけで』
ぐうの音も出ない。四面楚歌を飛び越えて、六方封鎖である。逃げ場所なしに正論迫撃砲を打ちこんでくる。
『……龍太郎、美紀を思い浮かべてみて? できれば、新しいイメージで……』
亜希からの指示に従うがまま、記憶から前橋美紀少女を創造する。お堅い制服から打って変わって、清潔感たっぷり真っ白のTシャツ、動きやすさ重視の短パン、筋肉がほぐれてより曲線になったまゆ……。『くたびれた少女』から『無邪気な少女』へとラベルが貼りかわっている。
まだ胃袋に食べものを放りこむ前から、腹のあたりが無意識運動をはじめた。さんざん恋愛感情が偽装か否かを心配していた領域は隅へ追いやられ、美紀の情報で大部分が埋めつくされた。
今、美紀が訪問でもしてこようものなら。硬直して彼女を困惑させてしまうかもしれない。
『……どうかな? 『美紀に会いたい』とか、『美紀がかわいい』とか……。勝手に出てきた感情、あるよね?』
『それは出てきた。……でも、その人に意識が行くときだけ、なんだよな……』
念じれば復活するが、気を抜くと霧散する。龍太郎の美紀像は、もろく儚い代物である。
(これで恋愛感情が成立する、って言えるのか……?)
四六時中、美紀に浸るわけにもいかない。龍太郎もまた高校生としての生業があり、『地獄を抜けだす』という目標にむかって精進する時間も必要だ。
『……よーく聞いてね、龍太郎。それは、れっきとした『恋』だよ。特別飾られた感情でも、縛り付けるモノでもなくて、ただ『この人が気になる』感情。一瞬でも『美紀に好かれたい』ってなったなら、立派な恋の航海者』
これでもか、と『恋』を突きつけられた。情報源が亜希で、信頼を損ねる要素はどこにもない。彼女は婉曲することはあっても、真っ赤な嘘を吹きこむことはしない。
あいている左手で、胸のあたりをさすってみる。肌着が肌と擦れるたびに、安堵感が美紀と混ざって天に溶けていった。
小柄で、その日を枠いっぱい生活する亜希の親友。どこまでもまっすぐな彼女の眼に、龍太郎は串刺しにされている。出血はせず、殻にこもっていた古き熱が解き放たれている。
人に特別感を持つ。それが恋愛の構成要素なら、龍太郎もその舞台に乗っかることができている。捜そうともしてこなかった桃色の道は、案外近くに転がっていた。
散らばった思考も整理が進み、未定義感情への解釈が一義に定まった。
(……やっぱり、俺は『恋』してる、んだな……)
『好き』を取りもどさせる救済者もまた、恋愛初心だったようだ。
『……それじゃあ、美紀に『好き』をどうやって説明するつもりだったのかな、龍太郎せんせ? ……冗談だよ』
『つねに人を追いかけまわす、かな』
『ただのストーカー! このあとすぐ、警察呼んだっていいんだからね?』
いつもの他愛ないツッコミ合戦になった。首までせりあがっていた肩の先も、元のレベルに落ちついた気がする。
引きこもった肺の空気を循環させると、視界が明瞭になってきた。もう、取りあつかいを間違えたりしない。
『……よかったよ。いつもの龍太郎が戻ってきた。だらけて、ツッコミ嵐で、ボーっとしてる龍太郎が……』
『そこまで不評なんだったら、ダウングレードしようか?』
時計の針に目をやると、制限時間の三十秒など余裕で吹きとばしていた。




