File21:闇夜の延長戦(後)
玄関に向かい一礼して、変形した合わない扉を閉めた亜希。誰も気にしない所での礼儀正しさはピカ一である。全国大会に出場出来るだけの実力者だ。
対して、半袖を目いっぱい振り回す成瀬。弱点を敵方に握られ、大きな態度が取れなくなった。神出鬼没の野生動物に怯みつつも、ライバル視した亜希を睨みつけている。
ここで二人を仲裁し、示談に持ち込むのが有能な弁護士の仕事なのだろう。龍太郎に、その方向の能力は無かった。
(……鍵、かけなくても大丈夫なのか……?)
体の貧弱な女子高生が一人で住まう家。犯罪者に入られでもすれば、一撃で生活は崩れてしまう。
遡ると、夕方の来訪時に鍵の音がした記憶は無い。
(……そうか、見た目が寂れてるから……)
泥棒に入る価値も付けられないということか。なんとも皮肉な防犯要因である。
反射板兼真っ白デザインの亜希が、田んぼの境目のコンクリートで平均台をし始めた。月が出ているとは言え、足元に殆ど光は届いていない。
成瀬はその奇行をじっと見守っているだけ。ちょっかいをだす発想はなさそうだ。妨害して、新たな弱みを暴露される事態を避けたいのだろうか。
「ほら、龍太郎もやってみようよ。私が出来るんだから、龍太郎も出来る」
「亜希に出来ること、大半の一般人には真似できないんだよ……」
一般枠に亜希を配置するべきでない。彼女が平均に立つと、一部を除いて皆『できない人』に分類されてしまう。
挑戦への手招きをされて、権力者は黙っていられなかったようだ。
「……成瀬もそれくらい、お茶の子さいさいなんだから」
言うが早いか、腕にかけていたバッグを草むらに放り出し、亜希の真後ろに飛び乗った。また美紀宅のシャワーを借りる羽目にならないか心配になる。
成瀬が足場の確認で一歩も進まない内に、亜希は平地と変わらない速さで用水路のかさ増しを駆けていく。軸は常にコンクリート上で、一切の迷いがない。
音を追い越して、彼女は点になってしまった。龍太郎は筋肉を弛緩させて立ち尽くすのみであった。
「……頼むから落ちないでくれよ、成瀬……。二度目は多分無いだろうから」
「その時は、龍太郎くんも投げ入れるから心配ご無用!」
こちらは根っからの武闘派だった。成瀬も『一部』に含まれる側の人間であることを忘れていた。
成瀬のお堅くとまった靴の先が、一歩先の大地を確かめている。人間暗視スコープの亜希と異なり、彼女の目は人間界に残留しているようだ。
黒いスポットライトを浴びて、汗の照り返しも弱弱しい。視線で次の選択を掴まえ、慎重になっていることは読みとれる。
「……龍太郎くん、何か照らすもの!」
「遥か彼方のフクロウさんしか持ってない。……無理しないでくれな……」
龍太郎の大親友は、羽を付けて飛び立っていってしまった。
立場の強弱には敏感なようで、龍太郎に対して腹部を丸出しにはしてこない。
(……美紀には、見栄っ張りでも親身になってるのに……)
このギャップは、何処からやって来るのだろう。亜希や龍太郎へのイメージと、美紀へのイメージとで、大きく変容している。
カーストの上位が、下位を助けようとする。逆下剋上もどきの事態を起こす理由は、はっきりと龍太郎に伝わってこない。
『美紀が困っているから』? ピラミッドの外にいる亜希を敵視する人間が、支配下から特定の人物を引っ張り上げる筋合いはない。
全てが謎。何度か会話をしても、彼女の本心は山の深い位置に隠れている。
「亜希ちゃんに、追いつく……!?」
成瀬が軌道に乗りかけたところで、風切り音を立てて飛来した天敵がレールを塞いだ。
「その亜希だよ? ハヤナルちゃん、中々来ないから戻ってきちゃった」
「「追いつけるわけない!」」
合成された音波が、幕の下りた閑静な一体にこだました。住人は美紀一人、迷惑は考えなくても良いだろう。
体を伸ばしてストレッチする亜希は、息一つ切らしていない。服に濡れている箇所は見当たらず、清涼感のある白の服が月の光に輝くだけ。およそ女子高生が叩き出してはいけないタイムを計測していることだろう。
亜希がポケットからスマホを取り出した。久しぶりの光源で、龍太郎を含めた三人の姿が露になる。
先頭を取った大親友は、全体的に顔が熟した以外に変化がない。頭脳明晰な彼女が体力まで習得すれば、太刀打ちできる者がいなくなってしまう。
亜希は重力を無視して元の砂利道へと降り、危険区域で粘ろうとした成瀬を引っこ抜いた。
先程から、成瀬はしてやられてばかり。しきりに小石を蹴飛ばして行方を追っているが、敵に隙は出来そうにない。
「ハヤナルちゃん、そこにいたら危ないよ。今日の龍太郎みたいに泥んこダイブしたくなかったら、もっと安全に……」
「わざとだよな? 狙ってるよな、それ……?」
自らの行いを棚に上げて、安全性を議論している。『どうぞ突っ込んでください』と注意書きがあるようにしか思えない。
龍太郎のツッコミの横で、煮えたぎる火山が一体。
智の勝負はおろか、瞬発でも黒星を喫した。亜希がさり気なく右腕を保持していなければ、暴走していただろう。
龍太郎は、水と炎の狭間に居るのが限界だった。
「……金策のこと詳しくは話してなかっただろ、亜希? 準備が要るんだったら、早めにしておかないと……」
流れを変えようと、パスを途中で遮った。
情報処理の優れた彼女は、ものの数秒で回答にたどり着いたようだ。顔色一つ変わらない。
火花を散らしていたはずの成瀬も、すっかり昂りが収まっていた。
「投げ銭を貰える所までは話したかな? 言い換えると、ライブ配信で視聴者さんからお金を恵んでもらうヤツだね」
「そこはいい。配信って言ったって、大型企画が出来る訳でもないし……」
ファンは好みの配信者を応援し、お金を贈る。『人そのもの』や『コンテンツ』を求めて、課金をする。多かれ少なかれ、他の職業もしていることだ。
配信に必要とされるのは、武器とネタと時間。三つ全て欠けては、一銭も入ってこなくなる。
(……今の美紀に、そんな武器は……)
肉体的でも、精神的でも構わない。何か一つ、尖った『特長』が欲しいのだ。一発屋になるかもしれないが、龍太郎たちはその『一発』を喉から手が出る程欲している。
喋りに長けていれば、それだけでアドバンテージ。なけなしの生活費を稼ぐには十分な量が見込める。
「……そうか、亜希が代わりにすれば……」
「美紀に重い役割を背負わせなくて済む、ってことかぁ。考えるね、亜希ちゃんも」
勢い余って成瀬を手繰り寄せようとした龍太郎。その口に、直立した人差し指が差し出された。
「ちーがーうーよ。美紀も配信者で、私オンリーにはならない。それは確定事項」
「……美紀がその負担に耐えきれるか……?」
この方針で回れば、彼女の経済問題と自信問題の二つが一気に好転する。そう、人晒しの状態で歯車を回せられれば。
『配信者』の三文字は、見た目に反して重量級だ。生半可な力で押し出すと、反動で自身がはじき出されてしまう。
周りの設計からネタまでは補助出来るにしても、美紀にはストレスが掛かり続ける。趣味でのんびりではなく、まとまったお金を稼ぐために配信するのだから。
美紀自身が必要なのはわかっている。選ぶ業種が問題なのだ。
(……自分を基準にしているんじゃなかろうな……)
亜希の『認識ズレ』は、冗談か本心か判別できない。ついさっきの全力疾走もそうだ。
まさか、他人に自己を押し付けないとは思うが。
「出来る範囲は自力でやらせるよ? 私だけで稼いだんじゃあ、根本的な解決になってない」
「そう言ったって……。何か秘策が……」
「どこに目が付いてるのかな、龍太郎は? ……あるでしょ、美紀の『武器』なら」
思考の及ばない空白領域に侵入されて、プログラムがバグを吐いた。定義されていない数だった。
龍太郎が捜索を放棄していた、美紀の特技。何処にある、いつ見える。
解決のカギを有する亜希は、成瀬と龍太郎を交互に見つめるだけ。『教えなくても分かる』と、心に一切の権利を委ねていた。
(……美紀にしか、ないもの……。俺が見つけられるもの……)
彼女のオンリーワン。誰も寄せ付けない、眩く光る何か。
龍太郎の目は節穴のままだった。
銃を突き付けられたかのように、両手を挙げた。やや斜め後ろの成瀬も、唇をかみしめて地面に視線を落としていた。糸口を発見できなかったのだ。
「そうだね、無意識に感じてることだから、難しかったかな? ……もーう、当たり前にしちゃいけないことなのに……」
童に戻った亜希を見ても、未だにその『何か』を感知できない。
万能と名高い親友が、幅を寄せてきた。服と服が擦れ合い、果汁的香りが遠回しに伝わってくる。
「……美紀にあるのは、『正直さ』だよ。私にも、ハヤナルちゃんにも、龍太郎にだってもない。コピーできる人は、いないんじゃないかな……」
予想外の方角から、聞き慣れない近接武器が取り出された。龍太郎の処理は追いついていない。
立て続けに、亜希が補完する。
「私は、美紀になれない。……他人を慰めたり発破をかけたりは出来ても、人を惹きつける正直さは持ってないよ」
暗がりで虹彩を大きくした彼女の瞳に、後ろめたい雰囲気は感じなかった。比較で上下に一喜一憂しない、並列の心を持っている人間だった。
亜希に具体化されても、イマイチ言葉の意味がつかめない。手に取ろうとしても、ぬめって滑り落ちてしまう。
「……野暮になるけど、『正直さ』って……?」
「もーう、女の子にモテないよ、いちいち聞き返してたら……」
髪のかからない額をやや白な指で突かれた。野外に繰り出しているにしては、色白だ。
「……龍太郎は、なんで美紀を助けようと思った? 恋したから? そそのかした私をギャフンと言わせたいから……?」
途中から薄々感づいていた嘘告白に、熱烈な感情は抱かなかった。後ろで(意図してなかったとは言え)亜希が糸を引いていた事実も、すんなりと受け入れていた。
『好き』が欠けていたから。人間の基幹を成す、誰かを想う心を手に入れられていなかったから。盆をひっくり返されても尚、龍太郎は手を差し伸べようとしたのだ。
龍太郎の外れた視線を認めて、亜希が再生ボタンを押し直した。
「ううん、そうじゃない。美紀に『普通の人』を実感させたい。そう思ったんだよね?」
美紀の迷走っぷりは、天から俯瞰しても丸見えだった。自身を正そうとする余り、湾曲させてしまっていた。
龍太郎と美紀は、行動パターンも考え方も似ている。心を通じ合わせられる、そう思ったのだ。
「……それって、美紀がどんな人でも? 『好き』が無いのを盾にして、開き直っちゃう子だったら?」
「それは……、流石に……」
問の返しに適切な文章が思いつかなかった。
美紀が自らを逆用する小悪魔なら。中途半端に茶化しておしまいにする女子だったなら。屋上の風で二人の間の糸は途切れていただろう。
『助けたくない』人のパターンは、何種類か頭に描ける。恋愛の欠落は、それ単体で無条件の救済に結びつかない。
逆、『助けたい』人は何なのだろうか。ある特定の要素を満たす即ち『救済』に至るのだろうか。
述べられるのは、美紀が確かに手を差し伸べる対象に含まれる事だ。
「『正直さ』は、そういうこと。ぼんやりしてる物だけど、無くちゃいけないもの。……自分に対しても、相手に対しても、素直な反応が出来るんだよ、美紀は……」
亜希が屈託なくほほ笑んだ。遠くでぼやけた月よりも眩しく、目を向けていられない。
(美紀の『正直さ』、かぁ……)
彼女を持ち上げることばかりで、ダイヤの原石を探す作業をしていなかった。裏に、美紀の個性があったのだ。
なるほど、美紀は自己に正直だ。『カノジョ』もどきになったのは、『好き』を取り戻すため。亜希との外食でやたら量を欲しがるのは、栄養を蓄えるため。後者は生存本能かもしれない。
粗食を隠していたのはまだ解明されていないが、いずれ答えが出ることだろう。
「龍太郎、それにハヤナルちゃんも、落ち込まなくていいから、ね? 美紀が普段あんまり喋らないから、折角の特技も隠れちゃってる部分があるし……」
「この成瀬がションボリするとでも?」
「忘れたのかな、来てすぐのこと。龍太郎の入ってる間に、俯いてばっかりだった気がするけど……」
やや蚊帳の外気味だった成瀬が、ここぞとばかりに突っ込んできた。猛獣使いの亜希にマントを翻され、あえなく躱される。
煙に隠れていた『武器』らしきものの正体を知ったことで、龍太郎の意識は美紀その人へと移る。
(……今日も、あの家で一人……)
どうしようもない。『実質』一人暮らしなのであって、美紀には転居の自由も与えられていない。
明日の美紀は、今日より一回り大きくなれるのだろうか。階段の一段上へと足を掛けられているだろうか。
(……美紀に、届きますように……)
明かりの足しにならない星々へ、ささやかなプレゼントを望んだ。
手を合わせ、凝り固まった首をほぐす。満天の夜空を見上げた。
「なーにしてるの、龍太郎? 七夕はもっと後にあるって知ってた?」
「……美紀がちょっとでも良くなれば、と思って……」
口数が少なくならざるを得なかった。一旦件の少女が思考回路に入って来ると、その日中彼女が話題を突っつくのだ。
じんわり湿った弾力のありそうな唇が、僅かにたゆんだ。
「……そうだね。それじゃあ、私も……」
亜希も同じように合掌し、落ち着いた眼を空へと飛ばす。なんと涼しげなのだろうか。
「……美紀、ちゃんと気づいてくれるかな、あの置手紙……」
場の感情に引きずられた成瀬の手足が、落ち着く場所を失い始めた。
一部始終を見届けることなく寝落ちしてしまった美紀が、慌てないよう。大した物ではないが、龍太郎たちは手紙を残してきた。
(……明日の生きる食材になってくれれば……)
氷の詰め込まれた保冷バッグに、お手製の簡易なものがぎっしり詰まっている。
「ハヤナルちゃん、置いてなかったら気づき様がないんじゃない?」
静と動の切り替えが早い亜希が、映像に映らない速度で手刀を入れた。流石の手数の多さである。
売り言葉に、買い言葉。成瀬とて、流れてきた標的をみすみす見逃す訳にはいかなかったようだ。
「成瀬が忘れるわけないでしょ? ほーら、ちゃんとあるよ、ここに……」
懐から手紙の入った封筒を取り出しかけた成瀬。『美紀へ』の文字が分断されたところで、手が止まる。
龍太郎は固まってしまった。漫画の締めくくりとしては完璧なのだが……。
やれやれ、と経験豊富な亜希も首を左右に振った。
「……ゴー、アズ、スーン、アズ、ポッシブル!」
「言われなくてもそのつもりだから!」
一目散に美紀の家へと急行していった。過去一番の風速だ。
(……亜希の言った意味、分かってたんだろうか……)
底辺校だもの、期待してはいけない。
今日、やるべきことは全て果たした。勝負をかけるのは、次回。前哨戦でいくら戦績が悪くとも、本戦でひっくり返してしまえばいい。
やんちゃ娘を見送ってこちらを振り向いた亜希の口角は、上がっていた。
「龍太郎、次は仕事が山盛りだよ?」
「何だってやってやるよ、それくらい」
龍太郎の腕には、トラックをも持ち上げられる筋力が湧いていた。




