正しい恋の終わらせ方
「こちらの髪飾りはいかがでしょうか?」
「いいえ、橘」
煌めくバレッタの並ぶトレイを、結月は指先で押し返した。
「蒼いサテンのリボンがあったでしょう。あれを出してちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
ドレスルームの全身鏡には、ツンと澄ました品のある令嬢が映っている。
丸襟の大きさからボタンの配置までこだわりぬいたワンピースのシルエットはAライン。シンプルな仕立てだからこそ、張りのある生地感や縫製、素材の良さが最大限に引き立つ。
この装いに、華美な宝飾はいらない。
まっすぐ腰まで垂れる艶やかな黒髪を一束すくい取り、橘から受け取ったリボンを編み込んで、結月は満足げにうなずいた。
「どうかしら?」
「大変お似合いでございます」
「当然よ。私が選んだのだもの」
白峰結月は、自分自身の眼ですべてを選んできた。身にまとう衣服や小物、屋敷の家具や壁紙、住み込みで身辺の世話をする使用人に至るまで、結月の身辺は、常に完璧な調和をもって整えられていた。
白峰家の一人娘にふさわしいものを見極める。
幼少のみぎりから父に鍛えられてきた眼識に、結月は絶対の自信と誇りを持っていた。
――だからこそ。
「俺と付き合ってください」
大学の正門前。迎えの車を待つ結月に、衆目の中で堂々と花束を差し出した朝霧悠生の告白は、結月にとって青天の霹靂といえた。
「どうして?」
結月は、純粋な疑問を返した。
言葉を交わしたことはおろか視界に入れたこともなかったものに、ここまで堂々と手を伸ばされたのは初めての経験だった。
まるで触れてはならない存在だと周知されてでもいるかのように、結月の周りの人間は、誰もが一定の距離を置いて接してきた。
ひそひそと噂を囁かれ、さまざまな感情のこもった視線を向けられることには慣れていたけれど……。
今はその視線が、白峰結月という高嶺の花に身の程知らずにも手を伸ばした一人の青年に集まっている。
突然の告白に、結月がどう応えるのか。無数の眼が、固唾を飲んで見守っている。
あるいは彼ならば手が届くのではと予想されているのかもしれない。
だとすれば、安く見積もられたものね。
「え、と……俺、朝霧悠生っていうんです、けど。白峰先輩のこと、ずっと前から、……憧れで」
朝霧悠生。その名前は、かろうじて結月の耳にも届いて知っていた。高等部の噂の的。見目麗しく成績優秀な優等生。
物陰にうまく隠れたつもりでニヤニヤと二人の様子を伺う男子たちは、朝霧悠生と同じ、結月の通う大学に付属する中高一貫校の制服を着ていた。
(そういうこと)
結月の人生において、恋愛は選ぶべき価値のあるものに含まれていなかった。しかるべき時が来れば、しかるべき相手を選んで結婚し、家庭を持つ。母や祖母と同じように。その過程に、恋愛感情が必要だとは思わない。
今年で20歳になる結月の年齢を思えば、それほど遠い未来の話ではないとも、わかっていた。
「無理を言ってすみません。俺、帰りま――」
「いいわよ」
小刻みに震える花束を、結月は受け取った。
この眼で選んだ相手ではないけれど、生涯の伴侶を決めるというわけでもないのだから。一度くらい選ばれてみるというのも悪くはない。
信じられないと見開かれた朝霧悠生の視線が、ほんの一瞬、誰かを探すようにさまよったことに結月は気づかなかった――否、気にも留めなかった。
◆
「あの、白峰さん」
「結月でいいわよ」
「……結月さん」
「普通の学生は、恋人を畏まって呼ぶものなの?」
「いえ。あまり一般的ではないで、……ないと思う」
「ならばそのようにしましょう。悠生」
朝霧悠生は、深々とため息をついて、砕けた口調で話し直した。
「結月。あまりからかわないでくれないか」
「あら? 貴方が言い出したことよ」
「そうかもしれないけど、貴女を相手にするのはわけが違う」
「だって普通の恋を教えてくれるんでしょう」
生まれて初めて入ったファミリーレストランのメニューから眼を上げて、無邪気な好奇心に瞳を輝かせた結月に、悠生は眉尻を下げて苦笑した。
親しい友人すら作ってこなかった結月には、悠生の主張する、学生らしい恋人の過ごし方というものがわからなかった。
付き合い始めて最初の日曜日。橘の運転する車に乗って行きつけのブティックを訪れ、結月は悠生によく似合うジャケットを着せた。そのまま著名なクラシック楽団の来日公演を聴き、なかなか予約が取れないフレンチのフルコースに舌鼓を打った。
支払いを持たせるつもりはなかったけれど、こんなのは普通の学生がするデートじゃない、と悠生は拒絶した。結月のペースに付き合わせては、彼は破産してしまう。二回目以降は、悠生にすべて任せることにした。
「それで? 普通の彼氏様は、次はどこに連れて行ってくれるのかしら?」
「結月が楽しそうで何よりだよ」
磨き上げられた銀食器とは似ても似つかない、安っぽいステンレス製のナイフとフォークで鉄板の上のハンバーグを切り分けながら、悠生は拗ねたように口を尖らせた。
(楽しい? 私は楽しんでいた?)
見慣れない素朴なデザートが並ぶメニュー表で、結月は口元を覆い隠す。
隣の席の女子高生たちのように手を叩き大口を開けて笑うなんて、はしたない真似はしない。けれど、……不思議ね。どうしていつまでも口角が下がらないのかしら。
◆
朝霧悠生は、普通の青年だった。
モデル並みとも称されるスタイルよく整った容貌と、控えめで穏やかな性格。結月の母校でもある附属高校で学年上位をキープする学力。特筆すべきことといえばそれくらいの、結月に言わせれば、どこにでもいる年相応の男子高校生だった。
悠生の性格を知った今では、よくもまあ目立つ花束を買い、あんな人通りの多い場所で、結月に差し出せたものだと思う。大方、遠巻きに様子を見ていた友人たちに唆されたに違いない。
橘に生けてもらった花は、ずいぶん前に萎れてしまった。その花びらを一枚だけ栞にして残していることを、悠生には教えていない。
(わかっているわ)
あの告白が、純粋な好意によるものではなかったことくらい、結月は理解していた。
直接、真意を尋ねたことはない。悠生や、その周囲の友人たちの関係性を観察すれば、自ずと察せられる。半ば度胸試しのようなものだったのだろう。
結月に告白すること、それ自体が目的だった。想像するのも腹立たしいが、お前ならば落とせるとでも言われたのかもしれない。
すくなくとも悠生自身は、結月に受け入れられるとは予想していなかったのだろう。震えた手で花を差し出して、誰の目にも明らかな好意をアピールしながら、彼は断りの言葉を待っていた。
人の本音を見抜く目には自信がある。結月に憧れていたと語った、あの言葉には嘘はなかったから――だから、好奇心でその手を取った。
利用しているのはお互い様。
大学を卒業すれば、結月は父のツテをたどり、白峰家に相応しい人間を見極めて、婚約を結ぶだろう。
朝霧悠生ではない、誰かと。
(大丈夫。わかっている)
いつのまにか悠生に惹かれ始めているだなんて、そんなことはあるはずがない。あってはいけない。
◆
悠生と会うのは、週に一度。土曜日の夜に通話して、日曜日の朝に待ち合わせる。
大学に通うにあたって、橘一人を連れて独立した結月の住む家は、白峰の本邸に比べれば小さなものだったが、悠生は気後れすると言って近寄りたがらない。
待ち合わせ場所には、いつも悠生が先に立っていた。街ゆく人の中でも頭ひとつ抜ける長身は、遠目からもすぐに見つかる。車から降りて橘は帰らせ、迎えの時間まで二人で過ごす。
肩を並べて街中を歩く。
流行りの店を二人で回る。
悠生の隣に結月が並ぶと、どこからか彼を盗み見ていた少女たちの嘆息が聞こえてくるようだった。
「ねえ貴方、私をどこへ連れて行こうとしてるの」
「えっと、たぶんこっち、かな。裏通りに人気のカフェがあるらしいんだけど」
「自信がなくちゃ困るのよ、悠生」
「いや昨日は下見する時間が――今の聞かなかったことにして」
スマートフォンの地図から目を離さないまま耳を赤くした、悠生。
「こんな感じで角度をつけて撮るんだって」
「貴方の写真、ひどいブレ方だけど」
「おかしいな」
自分だってSNSの一つもやってないくせに、映える写真とやらの撮り方を結月に教えようとして、やっぱりよくわからないと匙を投げた、悠生。
「ああ、あのキャラクター。流行ってるんだっけ。結月も好きなの?」
「よくわからないわ。それに……私には似合わないでしょう」
「そうでもないと思うけど」
「ねえ、あれは?」
「あっちのはソシャゲ、ソーシャルゲームって言って――」
ゲームセンターの景品を物珍しそうに眺める結月の疑問に、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた、悠生。
「ごめん。結月が持ってなさそうなもの、これくらいしか思いつかなくて」
特大サイズのぬいぐるみを両腕で抱えて、恥ずかしそうに差し出してきた、悠生。
まさか20歳の誕生日に、そんなものを受け取るなんて。一年前の白峰結月に伝えたって絶対に信じないだろう。
「悠生。貴方、姉か妹でもいるの?」
「えっ? いや俺は一人っ子だけど」
「あらそうなの? 女の子の流行りに随分詳しいから、てっきり。私と同じなのね」
「まあ結月はそうだよね」
「……今の、どういう意味かしら」
なんでもないよとごまかす悠生のわき腹を小突いて、結月は吹き出すように笑った。人前で、こんな笑い方をするなんて。一体いつぶりか、思い出せないほど昔のことであることは間違いなかった。
わかっている。これは一時の夢。今まで味わったことのない感情の正体に、名前をつけてはいけない。
あの白峰結月が、朝霧悠生と交際している、という噂は、日に日に広まっていった。
◆
放課後デートというものをしてみたい、と結月が言ったのは、ただの思いつきだった。めずらしく難色を示した悠生を説き伏せて、結月は彼の帰りを待っていた。
なんの感慨もなく巣立って以来、数年ぶりに訪れた母校の校舎は、やはり変わり映えもなくたたずんでいた。当時の教職員も残っているに違いなかったが、何か用件があれば向こうから足を運んで来るだろう。白峰結月とは、そういう存在なのだ。
(私を待たせるなんて)
その贅沢さを、悠生は理解しているのだろうか。
「ねえ、あれ……朝霧先輩待ってるのかな」
「白峰結月と付き合ってるって本当だったんだ」
「でも朝霧先輩って――」
隣の中等部から出てきた制服姿の少女の一団が、ヒソヒソと言葉を交わしながら、結月の前を過ぎていく。
密談というには、いささか声が大きい。
結月に視線を向けられた少女たちは身を寄せ合って口をつぐむ。
怯えた瞳の奥に映る、羨望。諦観。
複雑な色を含んだ、女たちの嫉妬。
なんとも、――可愛らしいこと。
「結月? 俺が行くって言ったのに」
「見てみたかったのよ」
私の知らない貴方とその周りの人間を――言葉には出さず口の端をつりあげて、結月は待ち人に向き直った。
「二年くらいじゃ特に変わってないでしょ」
「そうね。この場所は変わらないわ」
目に映る景色は何も変わらない。結月が関心を寄せるに値するものは、ここにはない、はずだった。
変わったものがあるとするならば、それは。
(私の心――?)
認めるわけにはいかない。乞われるまま気まぐれに付き合ってあげているだけ。その気になればいつでも手放せるけれど、今はまだその時ではない。
言い訳を重ねながら、一方で悠生の関心は自分にあると、結月は疑っていなかった。
「ゆーくん?」
朝霧悠生を愛称で呼ぶ、一人の少女が現れる、その瞬間までは。
「やっぱり、ゆーくんだ」
中等部の制服に身を包んだあどけない少女は、連れ立って歩いていた友人をおいて、足早に駆け寄ってきた。
彼女が現れた途端、結月に嫉妬心を抱いていた一団の矛先が、一斉に流れていった。傍目には非常にわかりやすい敵意と、哀れみのこもった視線。
……それだけで、結月には十分だった。
「隣の人が結月さん、ですよね?」
無邪気に瞳を輝かせて、勢い込んで語る少女の言葉には、まったく裏表がない。
結月は一言も発せず、ただ黙って微笑んだ。
「中等部まで噂が届いてるんです! みんな、美男美女でお似合いだって……ゆーくんからもお話は聞いていて、ずっとお会いしてみたくて……わあ、本当に、綺麗な人……えへへ緊張してうまく言葉が出ないや」
キラキラとした光を内包する純粋な瞳と、どことなく自信なさげな佇まいが、庇護欲をそそる。くるくると目まぐるしく表情を変える、結月とは似ても似つかない、素朴で愛らしい少女。
「あ。すみません、友達待たせてるので、また……また今度、ぜひ!」
満面の笑みを浮かべて結月に話しかける少女の姿を、悠生はまぶしいものでも見るかのように目を細めて見守っていた。
「友達、できたのか」
「うん……えへへ。ゆーくんのせいじゃないのに、心配かけちゃって、ごめんね」
「そっか。よかったな」
悠生、貴方。
そんな声を出せたのね。
そんな目をできたのね。
「ねえ……当てて差し上げましょうか、悠生」
肩口で切りそろえられたボブカットを揺らし、何度も振り返りながら遠ざかっていく少女の背中に向けて、ことさら優雅に手を振ってみせながら、結月は言った。
「あの娘のために、私に告白したのね」
結月の他愛のない質問に、いつも澱みなく答えてきた悠生が、言葉に詰まったように口ごもった。その沈黙が何よりも雄弁な答えだった。
朝霧悠生の『女の子』は、ただひとり。
誤魔化しきれない傷と痛みが残った少女の鞄には、悠生に貰ったぬいぐるみと同じキャラクターのマスコットが揺れていた。
◆
なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう。
いいえ、わかっていた。
最初からずっと、わかっていた。
誰かを探すように、さまよう瞳。
予想外の展開に、途方に暮れたような顔。
結月の眼はたしかに捉えていた。
悠生の考えるデートプラン、悠生の用意するプレゼント、悠生の語る言葉、そのすべての裏に、知らない少女の影があることくらい、当然のように結月は見抜いて、その上で取るに足らないことだと片付けていた。
(どうして何も言わないの)
せめてもうすこし。もうすこしだけでも早く、この時が来ていたのなら。
朝霧悠生の頬でも叩いて、簡単に別れを告げてしまえただろうに。
この期に及んで、笑みを張り付けることしかできない己の愚かさに吐き気がするようだった。
「彼女は、幼馴染で……妹みたいなもので……」
「聞いていないわ」
結月は、そんなことを尋ねているのではない。尋ねる必要があるとも思わない。
「ずっと言おうと思ってたんだよ。……あいつ、俺には何も言わないから。どうしようもなくなるまで気づけなくて……最近ようやく昔みたいに笑うようになった。人前で話しかけてくるようになった。ぜんぶ結月のおかげなんだ」
言葉の意図を勘違いしたのか、ベラベラと語りだす悠生を、静止する気にもならなかった。
大方そんなところだろうと思っていた。わかりきった理由を聞かされたところで、眉ひとつ動きはしない。
「結月に憧れてたのは嘘じゃない! 本当に付き合えるなんて思わなかったけど、高等部にいたときから結月は綺麗で、強くて、気高くて。白峰結月には誰も手を出せない。傷ひとつつけられない。これだけ噂が広まっても誰も疑わない。ぜんぶ打ち明けて、手酷く振られるつもりだった、のに……」
そこで、朝霧悠生は、再び口ごもった。
結月は淡々と先を促した。
「なのに?」
「……言い出せなくなった」
「私が怖くて?」
「ちがう。結月が笑うから――」
悠生は、ひどく苦しげな顔をして声を張り上げた。
「あんなくだらないことで嬉しそうに喜ぶ顔を見て、言えるわけないじゃないか。普通の楽しみを何も知らずに生きてきたんだって思ったら、かわいそうで……!」
あまりの衝撃に、結月はすこしの間、言葉の意味を咀嚼できなかった。
(かわいそう? 私が?)
凍りついた心に、致命的な亀裂が入る音がした。
◆
味がしない肉を一口食んで、結月は食器を置いた。
「お嬢様?」
「食欲がないの。下げてちょうだい」
怪訝な顔をした橘は、しかし何も言わず、結月の指示に従ってキッチンに消えた。
テーブルの上に残された予備のナイフが、燭台の灯りを反射して煌めく。
悠生は肉料理が好きだった。彼の手に握られている間だけは、大衆店の安っぽいステンレス製の食器も、いくらか美しく見えた。
丁寧に磨き上げられた銀食器よりも、色とりどりに盛り付けられた料理よりも、雑然としたファミリーレストランの鉄板が、懐かしく思い返された。
そっとナプキンで包んだナイフを抱えて、結月は席を立った。
自室のドアを開けると、インテリアの調和を台無しにするような、可愛らしい大きなぬいぐるみが枕元で存在を主張していた。
悠生の声が、頭の中をぐるぐると回る。
『結月も好きなの?』
まさか。存在すら知らなかった。彼の大切な少女とは違う。
『結月が持ってなさそうなもの、これくらいしか思いつかなくて』
流行りのキャラクターも、可愛らしいぬいぐるみも、欲しいと思ったことなんて一度もなかった。結月が望まなかったから持っていなかったのだ。
ふらふらとベッドに近づいて、悠生から受け取ったぬいぐるみを冷めた目で見下ろす。いつのまにか逆手にナイフを握りしめていた。
こんなものを、受け取って喜ぶような少女では、なかった。
なかったのに。
振り下ろしたナイフが、ぬいぐるみの胸に突き刺さり、切り裂かれた布地から綿が飛び出す。
(白峰結月は、綺麗で、強くて、気高くて)
二度、三度と振り下ろすたびに、ぬいぐるみは無惨な姿になり果てていく。
(傷ひとつつかない)
とうとう首がぽろりと落ちて、結月は手を止めた。
馬乗りになるようにしてぬいぐるみを抑えていた左手を離し、じっと見下ろす。
もしも。この手首を切り裂いて、真新しい傷を見せつけたなら、朝霧悠生はどんな顔をするだろうか――。
コンコン、扉をノックする音が聞こえた。
「どうかされましたか、お嬢様?」
橘の声と同時に、力の抜けた右手から、ナイフが床に滑り落ちていった。
磨き上げられた鏡面のような刃に映り込んでいたのは、知らない女の顔だった。
「こんなの、私じゃない……」
結月は呟いて、両手で顔を覆った。
なんて、醜い。
◆
橘は何も言わず、結月からナイフを受け取り、ぼろぼろになったぬいぐるみを片付けた。
そして翌日、朝霧悠生とのデートに向かう結月を送り届けた。
朝霧悠生との交際は続いた。
何事もなかったかのように振る舞う結月に、最初のうちこそ戸惑ったような顔をしていた悠生も、次第に緊張を解いていった。しょせん結月にとっては取るに足らないことで、告白の経緯や少女との関係性も含めて許されたのだと解釈したようだった。
結月は、穏やかな微笑を絶やさず、彼の隣に立ち続けた。
何事にも動じない結月の態度に、悠生はすこしずつ年下らしい甘えをみせるようになった。
あいかわらず、悠生の話には、少女の影がチラつく。あの娘が言っていた。あの娘が好きだった。あの娘が――そのすべてを結月は笑って聞き流した。
どこにでもいる普通の男子高校生が、どこにでもいる普通の女子中学生の影を重ねて、白峰結月をエスコートしていただなんて。
なんたる侮辱。
なんたる喜劇。
それでも結月は笑っていた。日に日に熱を増していく燃え盛る炎のような感情を、胸の奥底に宿して、嫋やかに微笑んでみせた。
受験が近づく中、外部進学を志していた悠生は、結月の通う大学に志望校を変えた。彼の成績であれば、真剣に学業に打ち込みさえすれば、どこへなりと行けただろうに。理由は明らかだった。
結月から別れを切り出すことはない。
悠生から捨てられることなど猶更ありえない。
まだだ。まだ足りない。
(――殺してやりたい)
手を離してなど、やるものか。
◆
「お嬢様。旦那様より、こちらが」
「来たのね。そこに置いてちょうだい」
紐で口を封じられたマチ付き封筒の中身を察したのか、橘は一瞬ためらう素振りを見せた。
「……本当に、よろしいので?」
「貴方が私の選択を疑うの?」
「いいえ。差し出がましいことを申し上げました」
封筒の中には、父にねだって用意してもらった、何種類かの書類が入っていた。
ビデオ通話を重ねて、すべて結月に任せると言質も取った。
準備は着々と整っている。
あとはただ、終幕にふさわしい時を待つだけ。
「彼とか、ちょうどよさそうね」
外向きに取り澄ました顔写真と経歴の並ぶ紙を眺めながら、結月は呟いた。
◆
あの少女に恋人ができた、と悠生が相談してきたのは、それから数ヶ月が経った頃だった。すっかり兄離れをされた悠生は、内心寂しくてたまらないようで、一層、結月に甘えて依存するようになった。
悠生から聞かされるまでもなく、結月は事のいきさつを知っていた。年上の男性に憧れる少女と見合う年頃の好青年を引き合わせ、悠生には知られたくないと恥じらう彼女の恋愛相談を受けていたのは、結月だった。
あの少女が出会いえる中で、もっとも良い条件の相手にちがいない。
なんといっても、結月の婚約者候補の弟なのだから。
そうして、ついに時は来た。
「合格おめでとう、悠生。でも私、春には大学にいないの」
半年あまり浮かべ続けた微笑を脱ぎ捨てて、結月は冷たく吐き捨てた。
「――時間切れよ」
口にした途端、ずっと胸につかえていた淀んだ熱は消え失せて、溜飲が下がる思いがした。
悠生は信じられないと目を見開いた。いつかのように。しかし、その視線はさまようことなく、結月の唇に固定されたまま、冗談よと別れの言葉が覆される奇跡を待っているようだった。
「さようなら。いい夢を」
言葉もなく立ち尽くした朝霧悠生の姿を、結月は一生忘れないだろう。
◆
「これはもう用済みね。先方には適当にお断りを伝えておいて」
結月は上機嫌で、婚約者候補の釣書を投げ捨てた。
大学に通うのも今日が最後。父も卒業した経営学部への編入手続きは既に終わっている。
「お嬢様……」
「縁談なんて受けたら、貴方を雇えないじゃない」
橘が呆れたように問い返す。
「そのような理由で、旦那様の跡を継ぐと啖呵を切られたのですか」
結月は微笑みながら、静かに答えた。
「だって、私が選んだのよ」
白峰結月は、自分自身の眼ですべてを選んできた。身にまとう衣服や小物、屋敷の家具や壁紙、住み込みで身辺の世話をする使用人に至るまで――今までも、これからも。
ただ一つの例外を除いて。
悠生から受け取ったものはすべて処分した。最後に残った、すっかり色褪せた押し花の栞を、結月は指先で弄ぶ。このひとつくらいは、戒めとして残しておくのも悪くないかもしれない。
一生に一度の恋をした。
みっともなく滑稽な少女の見た夢は、彼の中に置いていく。忘れがたい思い出として、せいぜい美しく焼きついていることを願う。
朝霧悠生との縁は、二度と交わることはないだろう。
白峰結月は彼を選ばない。
最初から、ただの一度も、選んでなどいなかった。
「ふふ。知っていて? 私、怖い女なの」
橘は一礼して答えた。
「よく存じ上げております」