静岡の新しい境界
県境がどこにあるのかすら曖昧になり、いつもなら高速道路が走っているあたりまで行くと、明らかに別の世界の気配が混じっていた。
草原のように見える広い大地の向こうに、紫色の花を咲かせる奇妙な木々が群生しているのが見える。
幹の肌はざらざらとして灰色を帯び、枝先に咲く花の形は壺のようにも見えた。
花弁らしき部分がかすかに動き、まるで風もないのに音をたてる。
これが普通の植物とは思えず、近くまで行って匂いをかぎたいが、周囲には見知らぬ虫の羽音が絶え間なく聞こえており、警戒心が先に立つ。
さらに目を凝らすと、草原の遠くの方をバサバサと何かが走り抜けているのがわかった。
四つ足でありながら背にはコウモリのような羽根があり、頭部には長い角が二本。
動物なのか、魔物なのか。
「なんだあれ…」
低い声でつぶやいた石川大吾は、背筋を伸ばしながらじっとその影を見つめる。
短く刈り上げた髪が汗で濡れ、頑丈な体つきからは熱気が立ちのぼるようだ。
「ああいうの、日本にはいなかったよな」
わざと明るい口調を混ぜるが、まるで笑えない光景を前に頭をかきむしる。
三島梓は少し離れた場所で、一心不乱にメモをとっている。
「背に羽根を持つ四足獣……説明がつかない。
あれがファンタジー作品に出るような魔物なのかはまだわからないけど、少なくとも現実の生態系には存在しないわ」
冷静な声で言いながら、ポニーテールを軽く揺らす。
その眼差しには、不安と興味とがないまぜになった光が宿っている。
「こんな未知の生き物が県境付近にうろついてるなんて、信じられない」
大吾はやや苦い顔で答えずに、ただ頷く。
サッカー部のユニフォーム姿がまだ残る雨宮翔太は、紫色の草を指先で弾きながら口を開く。
「これ、見た目は柔らかそうだけど、指にチクッとくる。
なんか変な植物だな」
そう言うと慌てて指先を確かめるが、血こそ出ていないものの薄い刺し傷のようなものができていた。
「うわ、痛くはないけど、なんか妙に熱い。
ヤバい毒とか持ってたらどうしよう」
困惑気味に言いながらも、興味津々な目つきをしている。
梓はノートにその草の特徴を書き加え、「後で図鑑とかで見比べたいけど、今はそんな余裕ないね」とつぶやく。
県庁の指示で県境付近に簡易の規制線が張られ、探索チームが派遣される予定だと聞いたが、そのチームはまだ来ていないらしい。
翔太たちは案内役や見張り役のボランティアから「迂闊に近づかないで」と止められる。
しかし、興味半分と危機感半分の気持ちが止まらない。
「僕たちはもっとはっきりと状況を知りたいんだ。
この県がどこに来たのかを」
言い切った翔太の声はやや震えているが、その瞳は決意の光を放っていた。
数十メートル先で、ガソリンスタンドの建物が半端に切れたかのように床が途切れ、その先は土が続いている。
そこには小さな草むらが広がり、見たことのない赤い実をつけた植物が茂っていた。
大吾はその真っ赤な実をじっと見つめ、「なんだかリンゴのようにも見えるが、怖くて近寄れんな」と額の汗を拭う。
「匂いは甘いのかな…」
翔太がぼそりとつぶやくと、梓は思わず苦笑してメモを閉じる。
「食べるなんて論外。
命がいくつあっても足りないよ」
大吾は辺りをもう一度見回した後、無意識に喉を鳴らす。
実際、空気も少し違っていて胸をざわつかせるものがある。
「見たところ、明らかに俺たちの知ってる世界じゃない。
転移、って言葉で済むような問題じゃなさそうだな」
そう漏らす声に、翔太と梓は小さくうなずく。
静岡が丸ごとファンタジー世界へ飛ばされてしまった――それを否定する要素はどこにもない。