12 ビアンカ
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瀕死の狼を連れて、辺境伯は領地に帰った。途中で息を引き取るかと思った。しかし狼は生きていた。
「ブランカ!」
孫たちが号泣して迎える。その声が聞こえたのか、白い狼の目がうっすらと開いた。最後の力を振り絞って狼は地面に文字を書いた。
「や・く・そ・く」
約束だ。この身体はあげる。そう言っているのだろう。こんなに孫たちが懐いているのに。皮を剥ぐなど。
「お・く・さ・ま」
「何?」
違う。狼は妻と何か約したのだ。妻は横たわる獣に囁いた。
「ありがとう。ブランカ」
狼はそのまま呼吸を止めた。とうとう死んだ。一家は黙祷した。それが終わると、妻は遺骸を研究室に運ぶように命じた。娘の薬を開発する為に作った施設だ。夫は妻の腕を掴んだ。
「待て。何をするつもりだ?」
妻は青ざめた顔で答えた。
「ブランカを使って薬を完成させるのです」
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『死んだらその身体を捧げる』
辺境伯夫人の末娘は不治の病だ。何とか治そうと古今東西の医学と薬学の書物を集めた。高名な医者を招き、助言を求めてきた。あらゆる方法を試したのに。娘が歩き、話すことはなかった。そうして17年が経った。
夫はまだ王室の研究所と薬草の開発を続けている。一方、疲れ切った夫人は神殿に頼った。古代なら知らず、今の神殿に魔法の力は無い。だが怪しげな古文書の閲覧ができた。
『新鮮な神獣の肝』
それが万病を癒す薬の材料だと書かれていた。それを知ったすぐ後に、城にブランカが来た。人語を解する狼なら神獣かもしれない。
『今すぐでなくていいの。お前が死ぬ時に、その身体を捧げてほしい。その代わり、レオナルド王子への支援を約束するわ。私の実家である東の辺境伯家も』
狼は頷いた。彼女は契約を履行した。生きて戻って、夫人の目の前で死んだのだ。その命を無駄にはしない。
◇
やっと楽になった。少女の魂はまた輪廻の輪に戻ったのだろう。暖かく平穏な布団の中でブランカは伸びをした。
(ん?布団?)
目を開けると見覚えのある天井の模様が見えた。辺境伯の城だ。死ななかったのだろうか。身体は軽く痛みも無い。彼女は床に降りた。目線は変わらないが、後ろ脚が長いような気がする。
ガチャリとドアが開けられ、誰か入ってきた。夫人だ。
「ビアンカ!?」
叫ぶように言うと、夫人は駆け寄ってきた。聞き間違いかしら。夫人はブランカを抱きしめると大声で泣いた。すると辺境伯やらお孫ちゃんやら、召使やらが集まってきてしまった。
「ご心配おかけしました」
頭を下げて謝る。人語を喋れることに、その時気づいた。彼女は人間になっていた。
◇
鏡に映るのは白い髪に赤い目の女の子だ。顔立ちが以前とは違っていた。辺境伯夫妻の末の娘“ビアンカ”だ。元は茶色の髪に榛色の目だったとか。狼の体から作った薬を飲ませたら、色が変わってしまった。おまけにブランカに意識を乗っ取られてしまった。
「何かすみません…」
娘の中身がブランカだと知った夫妻は自失してしまった。流石に伯はすぐに気を取り直した。
「いや。前例のない事だった。不測の事態が起こっても仕方ない」
良かった。怒ってない。ブランカはおずおずと夫人に提案した。
「あのう。こちらで働きます」
見た目は不気味だろうが、以前は人間だったのだ。下働きにでも使ってほしい。そう頼むと、夫人の目が吊り上がった。
「何を馬鹿なことを。令嬢が家事なんて」
じゃあ子守りでも。跡取りの令息夫人は妊娠中だ。娘たちの子守りがいれば楽だろう。夫人はこれも反対した。あれこれ交渉した末、ビアンカ嬢として教育を受けつつ、孫娘たちの遊び相手をすることになった。
◇
少女の名はビアンカになった。3食たっぷりと食べ、子供達と遊んだ。痩せた身体はみるみる肉がついた。動いているうちに気づいた。ビアンカは物凄く足が速い。多分100メートルを7秒くらいで走れる。剣の才能もある。少し手ほどきをしてもらったら、上級者レベルであった。
令嬢教育もまあまあ楽しい。勉強も城の書庫を読み漁って進めた。そうやって1年を辺境伯の元で過ごした。皆が優しいのでビアンカは居候であることを忘れがちだった。
ある日、行商人が驚きのニュースを教えてくれた。
「レオナ妃が王妃様に?」
王妃がレオナルド王子暗殺を企てたらしい。狼が死んだ原因もその女だった。王は離縁し、新たにお母上が王妃になるらしい。
(お母上に仕えよう。身体も丈夫になったし。教育も受けたし)
きっと王子にも会える。ビアンカは夫人に希望を伝えた。
◇
夫妻は反対しなかった。
「でもお前は私たちの娘よ。辺境伯の令嬢は召使いにはなれないわ」
ルビーノ家は元狼の少女を家族として受け入れてくれた。ビアンカは夫人を“お母様”と呼んでいる。
「王妃の侍女か、王子の婚約者か。募集の案内が来ていたぞ」
お父様が書類を取り出す。新王妃殿下の侍女及び王子殿下の婚約者候補募集、と書いてある。応募資格は伯爵家以上の未婚女性。来週、王城で試験がある。
「しがらみが嫌なんだろうな。どうする?」
「侍女に応募します」
両親は意外そうな顔をした。お母様が訊いた。
「王子の婚約者じゃないの?」
ビアンカは首を振った。自分の容姿では、レオナルド王子の隣にふさわしくない。でも駿足や剣の腕できっとお2人の役に立つ。夫妻は了承してくれた。




