第2章
~第2章~
キポックベルク村の朝。東のキポック山から、今日のお日様がお顔を覗かせると、村の人たちは、それぞれのお家から一斉に出てきた。みんなが向かうのは、センバーシュさんとカレッシャさんのお家。村の人たちは、出会いながらに心配そうな顔を見合い、昨夜の驚きを口にし合った。みな信じられないといった様子。それもそのはず、センバーシュさんとカレッシャさんは、一度もけんかというけんかをしたことがないおしどり夫婦。しかも、いつも優しく穏やかなセンバーシュさんが、感情を爆発させ、声を荒げたことなど、今まで一度も無かった。もし、この村に新聞があるとしたら、トップニュースになるくらいの衝撃だった。
そんな事件は、昨夜起こった。村は、昨夜も静かに闇をむかえ、夜の祈りが広がっている時間だった。すると、その静けさを打ち破る怒鳴り声が村を駆け巡った。村の人たちは、何事が起こったかと、驚き心騒がせた。その気持ちは一瞬にして広がり、家々のあかりはおそるおそる灯っていった。村の人たちは、誰の家で何事が起こっているのかを案じながら、かすかに広がる外の情景に目を凝らすしかできなかった。というのも、キポックベルク村には、昔から続くきまりがあった。新月の夜は、決して外出してはいけないというものだ。月のリズムに合わせて暮らすキポックベルク村の人たちにとって、新月は、心静かに過ごすことが、新しい月の威力への感謝と畏れを示す大切な習慣だった。
その中、狩人のタンジーさんは、ランプと弓矢を手にすると、一目散に飛び出した。高らかに口笛を吹きながら、村の人たちに安心するように伝え、。狩人のタリックさんとの会話のツールである弓で合図を送った。緊急事態を知らせる音を聞きつけたタリックさんは、村から離れたキポック山のふもとから急いで村へと向かった。
タンジーさんは、声に耳を澄まし、センバーシュさんの家からだと分かると、より胸が高鳴った。旅の者がセンバーシュさんの家へ押し入ったのだと思った。センバーシュさんが怒鳴り声を上げるという考えは全くないし、叫び声は聞いたことのない言葉のような印象を受けたからだ。タンジーさんは、急いでセンバーシュさんの家へと向かった。しかし、センバーシュさんの家の情景を見て、我が目を疑った。怒鳴り声を上げているのが、センバーシュさんだと分かった時のタンジーさんの驚きは、一瞬その場に立ち尽くさせるほどだった。そこへタリックさんが駆け込んできた。そしてタリックさんは、冷静に扉をノックすると、家の中へと入っていった。その後に続いたタンジーさんは、つきものがおちたように倒れ込むセンバーシュさんを抱え、椅子に座らせた。そして、キッチンで丸まっていたカレッシャさんの方へと向かった。タリックさんは、タンジーさんの肩に手を乗せるとうなずいて、家を飛び出していった。俊足のタリックさんは、村の人たちに知らせに周ると、村はようやく落ち着きを取り戻した。しかし新月に起こった出来事だったから、重々しさはしばらく漂ったままになった。
その日の午後に、村の集会が行われることになった。朝、駆けつけてきてくれた村の人たちに、センバーシュさんが申し出たのだ。村では、すべての人たちと分かち合うことがあれば、集会が行われる。何かもめごとが起これば、集会で心ゆくまで話し合われた。月に2回、新月と満月の日には必ず集会は行われ、何か特別なことがあれば、その都度行われた。集会は、村の中心に立つクスノキの木の下で行われる。この大木は、どんな時も村人たちの営みを眺め、話に耳を傾けてきた村一番の長老である。午後のお茶の時間になって、大きな木陰の下へ、村の人たちが集まってきた。先に集会の準備をしていたセンバーシュさんとカレッシャさんは、朝と同じく、みんなに頭を下げては、お詫びの言葉を口にした。
「もう、そんなに気にせんでええですよ」
村で一番大きなお腹のバルーチェさんが笑って言うと、みんながうなずいた。そうしてセンバーシュさんとカレッシャさんは、カレッシャさん特製のラズベリーティーを配ってまわった。
「おぉ、やっぱりうまいの。二人のけんかのおかげで、カレッシャさんの美味しいお茶をご馳走になれましたわい」
大工のドルバルさんが、一気に飲み干して、大声で言った。集まった村の人たちが笑った。
「さて、二人のけんかは、私たちの協力が必要かね。そろそろ、始めましょう」
村で一番年を重ねたシュリナワさんが腰を上げた。
集会を始めるときには、集まった村の人たちは、手を繋いでクスノキを中心にして和になる。そして、集会で分かち合ったことによって、村がより良く、みんながより笑顔になれるようにと祈るのだ。そして、その場に円になって座る。クスノキの大きな幹に円を組めるだけの人数が集まることが、集会のきまりだった。
「今日は、暑い中、集まってくれてありがとう。みなさん、昨夜は、本当に申し訳なかった。この通り、許してくだされ」
センバーシュさんは、その場に立つと深々と頭を下げた。
「新月の神聖な夜に、静寂を破ってしまい、みなさんを驚かせ、恐い思いをさせてしまって、本当に申し訳なかった。カランバさんのチェリオちゃんは大丈夫だったかね」
「大丈夫でしたよ。ぐっすり眠ってました」
先月生まれたばかりのカランバさんの赤ちゃんは、チェリオくんという名前をいただいたと、昨日の集会で発表があった。
「よかった。実をいうと、わしが怒鳴ってしまったのは、けんかが理由ではないんじゃ」
「けんかではないのか」
「そうなんじゃ。けんかではないじゃ」
カレッシャさんも何も言わずにうなずいていた。
「玄関に行ったら、急に…。自分でも、驚いておるのだが、急に、込み上げてきたんじゃ。今までに感じたことのないような、強烈な怒りとでもいうのか。胸の奥から湧き上がってきて、止められんかった」
「なんじゃ、それは」
タンジーさんは、昨夜、センバーシュさんが、玄関の扉に向かって大声を上げていた情景を思い出した。
「不思議ですな」
「大ばあの所へ、お伺いに行った方がよいのではありませんか」
花摘み名人のカレナさんが言った。
「そうじゃな、それは、そのままにしておけんかもしれん」
シュリワナさんが、口ひげをさすりながら呟いた。
「二人の間に問題はないのですね」
「はい」
「もちろん。ありません」
センバーシュさんとカレッシャさんは、お互いを見合って言った。二人の仲睦まじさは、村の夫婦の鑑になっている。
「何か理由は思い当たらないのかね」
「込みあげてきた。ただそれだけで。月初めは特に心静かに過ごすようにしておるので、自分でもわからないんじゃ」
「うーん。何か、そうなる原因を知っておる方はおられますか」
シュリワナさんが尋ねたけれど、誰もわからない様子だった。
「何かの前触れでしょうか、新月の夜だったから」
「わからんな。大ばあに伺いましょう。どうか大ばあの言葉を聞くまでは、忘れるよう願います。広がらぬよう」
「タンジーさん、明日、よろしく頼みます」
「わかりました。大ばあに伺ってきます」
タンジーさんは言った。大ばあは、西にそびえるベルク山の近く、深い森の中に住んでいる。一年に一度行われる先祖への感謝のお祭りの時に、その祭事を司る以外は、ほとんど村に下りてくることはない。タンジーさんとタリックさん以外、大ばあの住まいへ行ったことはなかった。それだけ山道が険しいこともあるが、村の人たちは、一種の畏れを抱き、敬っていたのだ。
「一旦、今日はこれで解散としましょう」
「本当にすまんかった」
カレッシャさんは、帰っていくみんなに今朝焼いた向日葵クッキーを手渡した。
「わぁ、ありがとうございます。このクッキー、ドーナが喜びます。何かあったら、いつでも呼んでくださいね」
センバーシュさんとカレッシャさんの家に近いマアナさんが笑顔で去っていった。カレッシャさんは、マアナさんの娘さんのドーナちゃんの笑顔を思い描きながら、手を振った。
センバーシュさんとカレッシャさんは、後片付けを済ませると、タンジーさんの家へ向かった。昨夜のお詫びと明日大ばあの所へ行ってくれるお礼に、夕食を誘うためだった。タンジーさんは、狩りから戻り村にいる時は、村の人たちはいつでも何かしら料理を差し入れしていた。
「では、お言葉に甘えて」
「タリックさんも、誘ってもらえんかね」
「分かりました。誘ってみます」
「ありがとう。では、待っておりますぞ」
タンジーさんは早速タリックさんへ、思いを飛ばした。タンジーさんとタリックさんは、弓で会話する他に、思いを飛ばして会話もすることができる。相手を頭の中で強く、目の前にいるかのように思い描く。人それぞれ特有の周波数を持っているので、その周波数を呼び出し、伝えたい言葉を胸の中で光に包み、その光を飛ばす。そうすれば伝えることができる。タリックさんからは、夕食へ伺うとの返事が来た。タンジーさんは珍しいと思った。タリックさんは、めったに村に来ることはない。村へやってくるより、森へと入っていくことの方が多かった。東のキポック山、西のベルク山の間、村より北の方角には、深い深い森が広がっている。タンジーさんの思いを読み取ったタリックさんは、昨夜から変な胸騒ぎをあり、センバーシュさんが気になって、会いに行こうと思っていたのだと、伝えた。
真っ赤なお日様が西のベルク山にお姿を隠された。今日の夕焼けも素晴らしい美しさだった。その赤く染まった風景の中をタンジーさんとタリックさんは、センバーシュさんのお家へと向かった。その道中、タンジーさんは、今日の集会のことをタリックさんに話した。
「私も一緒に大ばあにお伺いに行こう」
タンジーさんは、ほっとする気持ちを感じていた。タリックさんは、澄み渡った心で、より大ばあの言葉を聞き入れてくれると思った。
「よく、来てくださった」
玄関先で、センバーシュさんは、満面の笑顔で二人を迎えた。
「今日は、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「なにをおっしゃる。わしの方がお礼を言わねば。タリックさん、昨日は本当に申し訳なかった。本当にありがとう」
「いいえ。実は少し心配しておったのですが、こうしてお会いできて安心しました」
「ありがとう」
「さぁ、さぁ、みなさん、用意ができてますよ」
カレッシャさんは、自慢の料理をテーブルの上いっぱいに作って待っていた。カレッシャさんは、村でも評判の料理名人だった。二人は、その美味しい料理を楽しみにしていた。
「カレッシャさん、木の実を取ってきました」
「わぁ、いつもありがとうね」
カレッシャさんは、麻袋をタリックさんから受け取った。明日、木の実クッキーを作って、村の人たちに配ろうという思いが、柔和な表情に映っていた。
食卓についた二人は、彩り豊かな料理の数々に目を輝かせた。朝採れた夏野菜たちは華やかで、優しい思いが匂いからも伝わってくる。4人は笑いの絶えない幸せな夕食の時間を大いに楽しんだ。そして、食後のお茶の時間になった時、センバーシュさんは、神妙な面持ちに変わって、二人に話したいことがあると切り出した。その変化にタリックさんは、胸騒ぎの原因が明かされると察知した。
「実は今日、集会でみなに話さなかったことがあるんじゃ。ちょっと待っててくだされ」
そう言って、奥の部屋から、小さな木箱を持ってきた。センバーシュさんは、家具などを作ることが上手である。その小箱も今日あっという間に作ってしまったものだった。
「2日前、サーリュ川へ行ったんじゃ。あの大雨の次の日じゃった」
センバーシュさんは、小さな箱のふたを開けた。一瞬、赤い光が洩れた。センバーシュさんは、慎重に中にあるものを取り出した。
「川底に落ちておったんじゃ」
ステンドグラスのカケラのようなものだった。少し黒みを帯びた赤色で、楕円が少し歪んだ形をしている。
「水の中で、きれいに輝いておってな。ついつい、持ち帰ってきてしまった」
確かに、光にかざすとキラキラと輝き、きれいな色をあたりに放った。しかし、タンジーさんもタリックさんも、異様な気配を感じた。森の中で獰猛な動物ににらまれている感覚を思い出した。
「センバーシュさん、もう触れずに、箱の中に納めてもらってもよいでしょうか」
タリックさんが言った。
「お、おお。分かった」
センバーシュさんは、箱の中に戻して、ふたを閉めた。そして、一息つくと話し始めた。
「このカケラ、実は拾った時には、こんな形じゃなかったんじゃ。四角形じゃった」
「形が変わったんですか?いつ、ですか」
タンジーさんは、姿勢を正して、センバーシュさんに向き合った。
「今日の朝じゃ。玄関の近くに落ちておってな、この形になっておった。2日前、持ち帰った日に、玄関の天窓に立てかけたんじゃ。落ちないようにちゃんと固定して。南向きの窓だから、太陽の光を反射して、玄関先が彩りよくなるかと思ってな」
センバーシュさんは、咳をひとつしてから、お茶を飲んだ。
「それが、今日の朝、床の上に落ちておった。それが、窓から落ちてきた感じがせんでな。あの高さから落ちたら、割れたりはせんかの」
「そうですね、あの高さは割れそうですね」
タンジーさんは、後ろを振り返って、玄関ドアの上部を見上げた。
「割れずにあったことも不思議じゃが、何より形が変わっておった。色もちょっと変わった気がするんじゃ」
「確かに不思議ですね」
「昨夜のセンバーシュさんの感情の爆発と、関係がありそうな気がするんですが」
タリックさんは言った。
「そうか。やっぱりそうじゃな。よかった。やっぱり、今日の集会で言わんでよかった。村の人たちにこのカケラを見せてしまうことはよくないだろうな。わしが笑って楽しい気持ちになったのなら、いいのじゃが、怒鳴り散らかしてしまったんだから、あまり好ましい影響があるもんじゃないな」
「そうですね、村の皆さんには知らせずにおいた方がよさそうですね」
「それにもうひとつ、あの時、わしは自分でも訳のわからん言葉をしゃべっておったんじゃ」
「はい。やっぱりそうですか。わたしも気になっていました」
タンジーさんは、耳の奥に残る昨夜の記憶を呼び起こした。
「何か、言葉を叫んでおった気がするんじゃ」
「不思議な話ですね」
「ああ。本当に、本当に二人には、申し訳ない。村の人たちにも申し訳ない」
センバーシュさんは、そう言ってまた深々と頭を下げた。
「わしが、川から拾ってきてしまったばっかりに、こんなことになってしまって」
「いいえ。いつか、どこかで明るみに出たでしょうから。センバーシュさん、嫌な役をしてくださいましたね」
タリックさんは穏やかな口調で言った。
「センバーシュさん、これを、手放してもらってもよろしいですか」
タンジーさんも穏やかに言った。
「もちろんじゃ。もちろんじゃ。申し訳ないが、明日、大ばあの所に一緒に持って行ってもらって、どうしたらいいのか伺って来てもらってもよいだろうか。わしが何かしなければならないなら、喜んでするから」
「わかりました。いいえ。センバーシュさんが何かをする必要はもうありませんよ。今日で忘れてください。後は私たちにお任せください」
「あー、本当にありがとう」
センバーシュさんの家を後にした二人は、これから大ばあの所へ行くまで、言葉を発せずに会話をすることにした。心の中で思うことも力を持っているが、それよりも音にしてしまうことはより影響力が強くなる。そのため、このカケラに関して、村にできるだけ何も残さないようにしようと思った。そして、タリックさんは、その夜、タンジーさんのお家に泊まらせてもらうことにした。タリックさんは、どうしても、このカケラの異様な力が気にかかり、タンジーさん一人にはしておけないと思ったのだ。そしてお日様がお姿を見せる前に、出発することを決めた。早めに大ばあの所へ行かなければと何かに突き動かされていた。
『あの雨の威力も強かったからな。何かを掘り起こしてしまったのだろうか』
『そうだな。だが、この土地に根ざしている感じは、どうしても受けないんだ』
『紛れ込んだか』
『そうだと、少しやっかいだな』
『大雨でキポック山から流れてきたのかもしれない』
『明日、大ばあの所へ行って、その後すぐにキポック山へ様子も見てくるよ。タンジーさんは、村の人たちに言葉を伝えてくれ』
『分かった。一人で大丈夫か』
『何かあったら、呼ぶよ。その時はよろしく』
『了解した』
二人は、狩りに出る時に特に用いる睡眠方法によって心身を入れ替えた。何時間も山道を歩いても、この睡眠方法は、短時間で心身を回復できる。ただ、この睡眠は狩りに出た時だけにしていた。やはり、ベッドの中で夢など見ながらじっくり眠ることはこの上ない幸せのひとつなのだ。睡眠を終え身支度を整えた二人は、まだ闇の濃い中を、出発した。
キポックベルク村から西へベルク山を目指すと、しばらくしてササラ湖が見えてくる。8の字に似た大きな湖で、ベルク山の水がササラ湖に湧き出していた。濃い緑色をした美しい湖である。そして、しばらく木立の道を進むと、先祖の霊を祀る聖地に出る。闇の中で数多くの木片の柱が、静かに並んでいた。二人は、この祖先と繋がることのできる聖なる場所が大好きだった。入り口で手を合わせ、神聖な空気を吸いこみ、活力を得た。祈りの言葉を口にすると、名残惜しく先を急いだ。そして、ベルク山に登る道へと向かった。しばらく山道を登り、途中、森へと通じるけもの道を下っていった。タンジーさんは、いつになく、汗が噴き出してきた。カケラを持っているという緊張感からなのか、カケラの魔力なのか。何度も水を口に含み、道なき道を足早に進んだ。
森の木々が、朝を迎え始めた。その声を聞く動物や植物たちが、眠りから目覚める。森の中で朝を迎える喜びは、狩人の醍醐味だった。明暗が景色をくっきりと形作り、もうじきすれば、お日様の光が木々と戯れ始める。土は、その光と影の乱舞を瞬間瞬間、記憶し肥えていく。その間を歩いていくことは、森の総合芸術を体感できる素晴らしい時間であった。その美しい情景から二人は安らぎを得ながら、大ばあの家を目指した。
大ばあの家へと近づいたとき、タリックさんは、木々と植物の様子から、大ばあが家にいないことを知った。
『いらっしゃらないな』
タンジーさんも気付いた。
『こっちだ』
ベルク山の方角へとシダの生い茂る場所を進んでいった。すると、目の前に大きな岩盤がそびえたった。二人とも初めて来る場所だった。その岩の下に、座りこむ大ばあを見つけた。
「よく、来ましたね」
大ばあは、真正面を見据えたまま、優しい声をふるわせた。
「大ばあ」
「なぜ、ここに招かれたのですか」
「一度、この水を飲み、身をお清めなされ」
そう言って、大ばあはすばやくその場を退いた。大ばあの身のこなしは、優雅であった。
「あまり、好ましくないものを持ってきましたね。二人とも、ご苦労様でした」
二人は無言で頭を下げた。
「村で、何人の方々が、その持ってきたものに関わっていますか」
「センバーシュさんと、カレッシャさんです。他の人たちはカケラについては知りません」
「タンジーさん、水筒に水を入れて持ち帰ってくだされ。そしてお二人にも飲んでもらい、お二人の家の四方、そして村の四方にも少しずつ撒いてくだされ」
「分かりました。ありがとうございます」
巨大な岩の下には空洞があり、その中に清水が湧き出していた。
「ここの水は強力な清めの力を持っておいでです。ただ、持ってきたものを清めることはできないようです。ここでは、そのものを取り出さないで下さいね」
「わかりました」
二人は、清水の水を口に含んだ。その瞬間、体が軽くなるのを感じた。
「すごい水ですね」
「今回この場所をお教えするのは、特別なことです。それだけ、その持ってきているものの威力が強力で、バランスを崩しておるということです」
二人は、もうこの場所に来ることはないと思った。その分、この場所の素晴らしさを目に焼き付けようと思った。来たいと願っても、もうここに至る道は封印されてしまうだろう。大ばあが今回開いてくださったのだ。
「どんなものも、二つの力が均等に働いている。時にそのバランスが崩れているものもあるが、それは、極端に一端へと傾いている。悪いものということではありません。力が傾きすぎているのでしょう。皆さんも少し影響を受けているように見受けられる」
「はい」
大ばあは、岩場の清水の前に正座をし、頭を下げた。そして、何か空中に手を振りながら、締めくくりの儀式を行っていた。タンジーさんもタリックさんも大ばあの後ろに座り、頭を下げ続けた。タンジーさんは、深い慈愛を大地から感じ、涙があふれてきた。タリックさんも体を動かすことも惜しいほど、この空間に集中した。
「さぁ、行きましょう」
しばらくすると、大ばあの声が頭上から響いた。二人は、立ち上がり、大ばあの後を追った。小柄な体の大ばあは、地面を滑っているように歩いていく。丈の長い麻の衣服を身にまとい、懐で鈴が鳴っていた。二人は、もう一度、後ろを振り返りたい気持ちにかられたが、大ばあを見失わないように、歩を進めた。
大ばあの家に着くと、大ばあは、玄関先の階段を上りながら行った。
「待っててくだされ。そこに座っておいでなさい」
そして、家の中へと姿を消した。二人は、言われた場所へと足を進めた。丸太が正方形に置かれ、その中心に円形の焚火のあとがある。タンジーさんは丸太に腰を下ろすと、安堵の気持ちが湧き起こってくるのを感じた。やはりずっと気を張りつめていたせいか、足がいつになく力を失っている。
「わたしには、その持つものが何なのか、わからない。ただ、きれいで人を魅了する衣をまとってはいるが、その内に人を惑わす力を秘めているように感じる。幾重にも厳重な結界を張ってはあるが、何かの刺激でいとも簡単に破れる。注意深く扱う必要がある。タンジーさん、この上に置いてくだされ」
家から出てきた大ばあは、話しながら、丸太の中心の円形部分に、セイジの葉っぱを13枚放射状に重ねて置いていった。大ばあの言葉に従い、タンジーさんは、注意深く、腰袋に入れてある箱を取り出した。
「箱のままで」
セイジの葉っぱの中心に箱を置くと、大ばあはすばやく葉っぱで包み、縄で縛った。
「すべてを話してくだされ」
「分かりました」
センバーシュさんが新月の夜に怒鳴り声を上げたこと。センバーシュさんが大雨の次の日にサーリュ川でこのカケラを拾ったこと。南の窓に飾っていたら、次の日形を変えて落ちていたこと、など、タンジーさんは、時折、大ばあの問いに答えながら、静かに語っていった。タリックさんは、目を閉じて聞いていた。
「分かりました。どうも火、熱に弱いようですね。タンジーさんはこのままここで待っておってくだされ。タリックさん、少しお手伝い願えますか」
大ばあはそう言うと、タリックさんと共に、タンジーさんのいる場所とは反対側へと歩いていった。そして、竹を切り出し、その竹を地面に三角の形で並べた。そして、その中心にセイジの葉の包みを置いた。
「タリックさん、次は火の用意を願います」
タリックさんは、大ばあにそう言われると、火熾しの準備を始めた。タンジーさんのいる方へと戻ると、丸太の中心に火を熾し始めた。タリックさんの火熾しの手さばきは、見とれるほど見事だった。丁寧で厳粛でありながら、短時間で効率よく火があがる。水と火の清めによって、ようやくタンジーさんの役は終わった。タンジーさんは勢いよく上がる炎を見つめながら、大ばあとタリックさんが振りまく心地よい空気に包まれ、心も体もゆるんでいった。
「タンジーさん、ご苦労さまでしたね」
「ありがとうございます」
「さて、中でお茶を入れましょう。しばらくしたら、おいでなさい」
そう言って、大ばあは家の中へと入っていった。
大ばあの家は、丸太で組まれており、大工のドルバルさんのおじいさんのおじいさんが作ったそうだが、高床の家は上手に年齢を重ねていた。玄関を入ると、すぐに広い1部屋が続いている。その部屋の中央には囲炉裏があった。二人は、囲炉裏を囲んで座った。と同時に、大ばあは二人の前にお茶を差し出した。
「ありがとうございます」
「いただきます」
薬草のお茶が、全身を巡り渡っていく。今日は、少し甘く、優しい味がした。
「キポック山から雨で流れてきたのでしょうね」
大ばあは、囲炉裏の火に炭を加えた。大ばあの年齢は、おそらく百は越えているのだろう。誰も何歳なのかを知らなかった。しかし、大ばあは時折何歳なのか分からなくなることがあった。愛らしくゆったりとした口調が、少女を思わせることもあるし、儀式を行う時には、身のこなしが機敏で、優雅であるため、若い女性を感じることもあった。しかし、会う者の背すじが一瞬で伸びるような威厳は、いつでも大ばあの中心にしっかりと据えられていた。
「キポック山にあったものなのでしょうか」
「いいえ、どこからかやってきたのでしょう。そしておそらく、キポック山のお力で、その形を持ったように思います」
「光を形へ」
「ええ。ガラスのような形をずっと持っているものは、そんなにいとも簡単に形から外れたりはしない」
キポック山は、光や見えないものを形や手にできるものへと変化させる力があり、ベルク山はその逆の力を持っていると信じられていた。キポックベルク村の人たちは、東のキポック山で体を与えられ、サーリュ川を流れて、下流のキポックベルク村で暮らし、その一生を終えると、西のベルク山から光の国へと戻ると考えていた。子どもを授かった母親は、生まれるまで毎日サーリュ川の水を汲みに行く。そして子どもが無事に生まれると、村の人たちが集まり、サーリュ川でお祝いをするのだ。そして、その赤ちゃんを馬に乗せて、盛大に村に招き入れる。そして、今度は人生を終えると、ササラ湖のほとりまで、村の人たちに花巻き行進とともに運ばれる。ササラ湖の水をみなが一柄杓ずつ棺にかけて見送り、祖先の聖地に埋葬するのだ。
「大雨の次の日、キポック山の頂上に虹がかかりました。とても美しく、嫌な感じはしませんでしたから、虹の結晶ではなさそうですね。あの虹は、久しぶりによい兆しを思わせました。赤ちゃんの笑い声のような、無邪気で純真な印象だったんですがね。私はてっきり、村におめでたかと思ってましたがね」
「そうなんですか。じゃあ、どこかで何かが変わってしまったのでしょうか」
「分かりませんね。ただ、これからキポック山へお返しした方がよいと思います。ベルク山が引き受けてくださることがあるかと、先ほどの清水の地でそのお心をお示し願ったのですが、そうではなかった。キポック山の御意志で何かを招かれたにしても、それがわれわれにとってたとえあまり好ましくないことであったとしても、我々はそれを受け入れなければなりません」
「はい」
「大ばあ、村の人たちには、どう伝えたらよいのでしょうか」
「むやみに心配を膨らませるような言葉は、今は控えなければなりません。まだ何も分かっていないのですから。ただ、ひとたび、しっかりとしたキポック山の御意志が分かったときは、もしかしたら、村での暮らし方に変化が起こるやもしれません。その時は、私がみんなにお話に行きます」
「分かりました。ありがとうございます」
「どんな変化が起こるにしても、それを静かに受け入れましょう。村の人たちは、そのお心をしっかりお持ちですから」
「はい」
「タリックさん、大変な役をさせてしまいますが、どうかよろしく頼みます」
「わかりました。そのためにここにいます」
「ありがとう」
「しばらく、タリックさんのお心に繋がせていただきますね」
「はい」
大ばあは、懐から鈴を取り出した。
「これを胸へ」
「はい」
「キポック山へ入られると、道は山が教えてくださいます。心静かに入ってくだされ。もし、心騒ぐことがあれば、鈴の音に意識を集中させてくだされ」
「わかりました」
「タンジーさん、水をよろしく願います。そして、村の人たちへは、心配せず、しばし待つことだけをお伝えくだされ。必ず、すべてが明かされ、どんなことがあろうと、我々の進むべき道は指し示されますから、と」
「わかりました」
「タリックさん、カアマヴェリナに添って、キポック山を目指してください。できるだけ、ゆっくりと歩を進め、キポック山は明日の朝にお入りくだされ」
「わかりました」
カアマヴェリナとは、キポック山とベルク山の間、キポックベルク村から北に広がる深い深い森にある、水脈である。ところどころ湧き水などが地の上を走っているが、おおよそ地中を流れている。山々や村を見えないところで、力強く護ってくれているのだ。この大ばあの家は、カアマヴェリナの上に建てられているだからここにいると、母親に抱かれているような安心感と平安が感じられるのだ。
大ばあは、炭の上に薬草や香木の木片を振りいれた。モクモクと煙があがり、白い柱が立った。三人は頭を下げ、目を閉じた。
「天と地、その間すべての神々に感謝を。我々の行く道に光を」
大ばあは、そう声に出し、それから呪文のような言葉を口の中で唱え始めた。白い煙の柱は、青色や朱色、山吹色へと変化していく。そして、手元にある壷の水を振り入れた。勢いのよい音と水蒸気が辺りを包み込んだ。そして再び静けさが訪れたとき、三人は顔を上げ、お互いを笑顔で見合った。
「さぁ、祝福と平安と共に」
大ばあの心地よい声を聞いて、タンジーさんとタリックさんは、無言で深々と頭を下げ、そのまま大ばあの家を後にした。
タンジーさんとタリックさんは、大ばあの家の前で、うなずき合い別れた。タリックさんは、タンジーさんの後姿が木々の間に消えるまで見送った。それから、竹の中心に置かれたセイジの葉の包みを腰に巻いて出発した。
タリックさんにとって、カアマヴェリナをたどる旅は、2回目だった。狩人としての役目を持っているのかを、このカアマヴェリナをたどることで試される。森に宿るいのちの象徴としてカアマヴェリナは、その者が森の真の遣いになれるかを、導き、試すのだ。森の言葉を聞き入れることができるか、森のいのちと共に生きることができるか。それができなければ、カアマヴェリナは見つけられない。森やカアマヴェリナがその者を狩人として認めれば、必ず月桂樹の葉が授けられた。今までの狩人は必ず月桂樹の葉っぱを1枚持って、村へと帰ってきた。すると、村は祝福と感謝のお祭りが始まる。その日から狩人としての人生が始まるのだ。狩人という名ではあるが、森と人を繋ぐ大切な役目を担うことになる。森への通行手形である月桂樹の葉は狩人の役目が続く限り、肩身離さず持つことになる。その葉を失うことは、役目の終了を意味していた。
カアマヴェリナは、まっすぐには走っていない。時に迷路のようであり、森の声を自分の内に響かせなければ、すぐに見失ってしまう。タリックさんは、カアマヴェリナの旅を大いなる祝福として、光栄に思った。大地に宿る母のような深い慈愛をより感じられる地を歩く喜びに心が躍る思いだった。だが、今は気を引き締めて、より意識を集中して進まねばならない。もしや、今後大きな変化があるやもしれない状況の中であっても、できるだけ、森のいのちはゆるやかに変化してほしい。そのためには、バランスを崩すものを持ちながら、歩かせてもらうことに、森の協力をお願いしなければならない。
タリックさんは、大ばあの家からしばらくカアマヴェリナの上を歩いて、始めの湧き水の場所で祈りをはじめた。大ばあの鈴を鳴らし、水を口に含んだ。そして全身を大地に預け目を閉じた。全神経を集中させ、深い呼吸とともに祈りの言葉を唱えた。頭上の木々が葉を一斉に揺らし、鳥の声が遠くかなたに聴こえた。風は地表にも渡り、草木がサワサワと音を立てる。タリックさんは、今までに感じたことのないような、森の深い愛と強さを感じた。狩人として、森に生かされ、森とともに生きてきた。森が与えてくださるいのちは、いつも愛に満ち、わたしたちに惜しげもなく力を分け与えてくださった。だからいつでもその深い愛を感じてはきたが、今日はその何倍もの思いやりを感じた。涙が溢れることを止められなかった。タリックさんは滅多に泣くことがない。タンジーさんはより情に厚く、タリックさんはより冷静で客観的である。二人はバランスの取れたパートナーだった。そのタリックさんが感情を抑えられないほどの感動に、自分自身も驚くほかなかった。森のすべてのいのちは、両手を広げて、協力すると伝えてきた。この信頼関係は、タリックさんだけでなく、祖先から続く狩人たちや、村の人たちと築き上げてきたのだ。その歴史にも深く感謝した。
「ありがとうございます」
タリックさんは、涙ながらに言葉があふれた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
タリックさんは、泣きながら、体を起こすとしばらく動けなかった。うずくまった姿勢で泣きに泣いた。感謝しか浮かばなかった。
そしてタリックさんは、いつの間にか眠ってしまった。背中に誰かのあたたかな手が置かれている感じがして、目が覚めた。お日様の光の手がちょうど天中から伸びていた。タリックさんは、体を起こした。体に力がみなぎっているのがわかった。出発する気力が充分に満ちている。水筒に水をもらって、カアマヴェリナを歩き始めた。包みを持つ手をヘソの前で組み、意識を足に集中させ、慎重に歩を進めた。一足ごとに体を通っていくあたたかなぬくもりを、幸せな気持ちで味わった。カアマヴェリナに沿って、森はすべてを揃えてくれていた。水はもちろん、木の実や甘い果実、薬草や眠る場所。タリックさんは、いつしか、この素晴らしい旅をするきっかけをくれた、このカケラにさえ感謝の気持ちが湧いてくるほどだった。大ばあは、大雨の次の日、吉兆が訪れたと思ったと言っていたが、本当にそうかもしれないと思った。だがそれは冷静な判断ができなくなる心の動きであることに気付く。今は自分の意思は必要ないのだ、とタリックさんは気を引き締めた。
大きな岩の上で、夜の祈りを迎えた。今日一日の感謝を口にすると、眠りについた。母の胎内にいるような眠りだった。絶対的な安心感と愛に包まっている幸福感を、子どもたちは味わって世界にやってくるんだ。その体験を再びしているようだった。そしてタリックさんは、久しぶりに夢を見た。1歳くらいの子どもが、森の中を歩き回っている。タリックさんは声を掛けた。すると、一瞬ちょっと困った顔をしていたが、すぐに愛らしい笑顔を向けて、探しものをしているの、と言った。男の子のようでもあり、女の子のようでもあった。色とりどりのブカブカの洋服を着て、虹色のストライプの帽子を被っていた。どんなものを探しているのかい、とたずねると、その子は、ポケットからきれいなガラスのカケラを取り出し、これと同じものだと言った。タリックさんは、夢の中で、あのカケラだと驚いた。そして、腰に縛ってあるはずの包みに手を伸ばしたが、包みが腰からなくなっていた。タリックさんは驚いて、あたりを見回した。すると、その子は、ケラケラと楽しそうに笑いながら、森の中へと駆けていった。空中を飛び跳ねたかと思うと、すごい速さで走っていく。見たことのないような体の動きだった。タリックさんは、追いかけようとしたが、そこで夢から覚めてしまった。目を開けると、濃い紫色の空気があたりに満ちていた。タリックさんは、ふと気がついて、急いで包みを探した。包みはしっかり腰に巻かれていて、ほっと胸をなでおろした。一息つくと、夢に出てきた子どもが取り出したものが、カケラにそっくりだったことを思い返していた。探しものだと言っていた。ということは、このカケラはあの子が落としたものなのだろうか。タリックさんは、正夢であることを願った。
タリックさんは、岩にお礼を言うと、お日様がいらっしゃる前に、キポック山のふもとまで辿り着くため歩を進めた。歩きながら、夢の子が気になって仕方なかった。とてもかわいらしい子で、青い目をしていた。ぱっと花を咲かせるような笑顔は、こちらまで笑顔にする力を持っていた。
タリックさんは、キポック山に入る前に、この旅の始まりと同じように森への感謝の祈りを行った。そして、それは合わせて、キポック山への祈りとなった。今度は、キポック山のお心にチューニングを合わせる。ラジオのチューナーを変更するように、意識を集中させる。普段、このような変更をすることがないため、その時間を特に慎重に取る必要があった。狩りをする時は、多重音声で、すべてのチャンネルを聞ける状態にしているが、今回は、1チャンネルだけに集中する必要があった。すると、キポック山はお日様の光を背後に、威厳のあるお姿でタリックさんを見下ろし始めた。そして、風がタリックさんの背後から吹き抜けていく。木々が歌い始め、歓迎の和音が響いた。タリックさんは、またおじぎをすると、キポック山へと足を踏み入れた。しばらく進んだ山道の途中で、立ち尽くした。目を閉じ、首だけを前に倒した。自分の胸のあたりに意識を向けたが、嫌な感じやどこか変わった感じは受けない。何かが入り込んでいるといった印象もなく、キポック山の持つ凛として清々しい空気は、以前と変わりがないように感じた。タリックさんは、大ばあの鈴を鳴らしてみた。その鈴の音も、すみやかで心地よく木々の間を駆け抜けた。鈴の音の反響も歪んではいなかった。タリックさんは、安堵の気持ちを吐き出すと、また歩き始めた。しばらくすると、サーリュ川に出た。水音が軽快だった。岩をつたって、川のほとりへと向かった。サーリュ川の水で顔を洗い、空を見上げた。もうすっかり夏の一日が始まっている。すると、大ばあの伝言が風をわたってきた。セイジの葉の包みをほどき、その葉を感謝と共にサーリュ川へと流してくだされ、というものだった。タリックさんは、大ばあの鈴を鳴らして、了解したことを伝える。そして、腰に巻いていた包みを手に取ると、少し震える手でセイジの葉を一枚一枚、祈りの言葉を唱えながら、サーリュ川に流していった。そして、タリックさんは地面に座り込むと、箱のふたを恐る恐る開けてみた。カケラは確かに箱の中でその存在を主張し続けている。タリックさんは、お日様の光へとカケラをかざしてみた。赤い光が一瞬強く光った気がして、すぐにふたを閉めた。そして、大きく息を吐いた。サーリュ川の流れへと目を向ける。
「やっぱり、私は自然の美しさの方が好きだ。きれいすぎるものは疲れてしまう」
正直な気持ちがため息のように洩れた。タリックさんは、自分がこんなことを呟くことに、驚いていた。ぎこちなく気持ちの換気をしてみる。もう一度目を閉じた。自分の中心へ意識を向けてから、キポック山へと意識を集中させた。このまま登っていってもよいのか、このカケラの行方について、タリックさんは耳を澄ました。すると、何か、変化を感じて、目を開けた。背後に気配を感じて、振り返った。岩場の上部に広がる木々に目を凝らした。何かがいると感じた。しかし、その存在は何なのか分からなかった。もう一度、目を閉じた。胸の辺りへと顔を沈ませた。緊張や恐怖は湧いてこない。危険な存在ではないことを感じた。タリックさんは、サーリュ川沿いに山を登ることにした。その気配の正体が分からぬまま木々茂る中へ入ることはしない。足を踏み出すと、今度はサーリュ川の反対側の川岸の岩場に何かを感じた。また振り返って確かめる。岩の間を見つめたが、やはり何なのか分からなかった。気配だけは強く感じていたが、その存在が何なのか分からない。ただ、複数いるのか、あるいは一つのものが非常に俊敏に動いているのか、気配の位置がめまぐるしく変わっていった。タリックさんは、近くの大きな岩の上によじ登り、腰を下ろした。そして、自分自身の気配を消し、岩と同化し始めた。目を閉じ、岩と接しているお尻から、自分の意識や感覚を岩の中へと送っていく。そして、深い呼吸と共に岩の意識を体に取り込んだ。肩の辺りまで取り込んだところで、目をゆっくりと開けた。岩のお風呂につかっているような状態になった。大地と風、キポック山にサーリュ川、すべてとの繋がりが圧倒的な充足感となって、タリックさんの頭脳に伝わってくる。広い視野を取って、しばらく様子を伺った。しばらくして、不明だった存在が明らかになった。目前の岩の上に子どもが立っていたのだ。あたりをキョロキョロと見渡している。タリックさんは、目をもう一度閉じ、慎重に岩から離れた。目を開けると、すぐさま立ち上がったが、もうすでにその子はいなくなっていた。タリックさんは、箱からカケラを取り出した。それを持つ手を掲げながら叫んだ。
「君が探しているのは、これじゃないかー?」
タリックさんは、前後左右を見渡した。
「昨夜、夢の中に出てきてくれたのは、君だろう?このカケラを探しているなら、返したいから、どうか姿を現してくれないか?大丈夫。安心して出てきてくれ!」
それでも、その子の姿は現れなかった。タリックさんは、このままカケラをこの場に置いて、立ち去った方がよいのかもしれないと思った。しかしすぐに思いとどまり、その場に座り込んだ。そして、もう一度、カケラを箱に戻すと、大ばあの鈴を取り出し、鳴らし始めた。風が揺らぎ始める。頬が火照っていることに気付いた。その頬に風が心地よく触れていく。するとタリックさんは、自分が落ち着かず、心がざわついていることに気付いた。いつの間にか、焦りやイライラしたような気持ちが入り混じっていたのだ。タリックさんは、深い呼吸に意識を集中し、落ち着きを取り戻すために、鈴の音に心身をゆだねた。すると、笑い声が鈴の音に合わさった。目を開けると、夢で会ったあの子が、岩の上ではしゃいでいた。楽しそうに、鈴に合わせて踊っている。その子は、遠く離れた岩へとひとっとびで着地すると、空中でクルクルと舞っていた。タリックさんは、呆然とその子を見つめていた。人間ではなかった。羽は見当たらなかったが、天使のような純真な存在だった。その子の笑い声が、キラキラとあたりに光となって降りそそいでいく。赤や黄色、青や緑の光線が、フワフワとした球状になっている。タリックさんは、いつしか笑顔になっていた。そして、優しく声を掛けた。
「はじめまして。昨夜、夢で会ったよね。探しているのは、これかい?」
タリックさんは、箱から取り出したカケラを差し出した。
「わぁ!あった!」
その子は、一足飛びで、タリックさんの目の前まで来た。そして、そのカケラを受け取ると、笑顔で首を左右に振って挨拶した。
「ありがとう!ずっと、探してたの!落としちゃったの!探してたの!よかった!あった!」
その子は、声を弾ませて楽しそうに言った。
「この村にご迷惑をおかけいたしましたこと、申し訳ありませんでした。どうかお許しください。そしてどうかもうご心配もお流しください」
一瞬、その純真な子どもの背後に、神々しい光が見え、子どもとは全く違った声が聞こえた。そしてその光はすぐに消えた。
そしてその子はカケラをポケットにしまうと、また飛び上がって、川向こうまで行ってしまった。
「ねぇ!君は誰なの?そのカケラは何なの?」
タリックさんは、慌てて叫んだ。でもその子は振り向きもせず、笑い声だけを残してキポック山へと登っていった。その子が去ってしまった後、タリックさんは全身の力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまった。そして、タリックさんは、体を岩に預け、大の字に寝そべった。空を見上げながら、大きく息を吐き出した。安堵の気持ちも確かにあったが、一つの山を登りきってみると、その背後に新たな山がそびえたっていることに気付いたという感覚を覚え始めていた。あのカケラがこの村からはなくなったが、あのカケラがこの世界には存在しているという事実は変わらない。ただ、何より、わたしたちは、もう数え切れない、計り知れない、様々な力によって生かされているのだということを、改めて強く心に突きつけられたのだ。タリックさんは、感謝という思いを強く強く心に焼き付けた。目をぎゅっとつぶると、ただただ祈った。すると、タリックさんは、涙が泉のようにどんどんと湧き出してきた。有難さはもちろん、どこか申し訳なさにも似た不思議な感覚が入り混じっていた。すると、今まで晴れ渡っていた空に雲がかかり、雨が静かに降り出した。タリックさんは寝そべったまま、その雨を全身で受け続けた。涙は雨と一緒になって、すべてを潤し、すべてを流していった。
「タリックさーん!」
タンジーさんの声がした。タリックさんは、その声に飛び起きた。
「タンジーさん!」
二人は、何年も会っていなかったように感じた。久しぶりの再会のごとく抱き合い、喜びを全身で伝え合った。
「今回のことは終わった。だが、タンジーさん、この星には何か大きな力が働いていて、何かが急激に変化している気がする。でもな、相変わらず、わたしたちは生かされ、支えられている。ありがたいことに。今回、より強く感じたよ。そして改めて教えられた、わたしたちの生きる道を」
タリックさんは、静かに語った。
「あぁ」
「大ばあの所へ行って鈴をお返しして、お礼をしたら、村へ帰ろう」
「タリックさん、実は大ばあが、村にいらっしゃってるんだ」
「そうなのか!」
「大ばあが取り仕切り、感謝のお祭りの準備をしている」
「それはありがたい」
そうして、二人はキポック山にお礼をすると、山を下りた。雨はいつの間にかやんでいた。すると、子どもの楽しそうな笑い声が聞こえ始めた。その声に振り返ると、二重に架かる見事な虹がキポック山を縁どっているのが見えた。
「素晴らしい」
「あぁ、素晴らしい。カケラは、あの虹の天使の落し物だった」
「そうだったのか」
二人は虹に向かって手を振った。そして虹が消えるまで見送った。
「さぁ、帰ろう」
「あぁ、村へ帰ろう」
二人は、微笑み合い、村へと歩き始めた。
読んでいただきありがとうざいます。