第1章
~第1章~
細く長い指…
瞳のゆらめき…
固く結ばれた唇…
…別れの夜
エンジン音…
他人のような自分の声…
彼のため息…
…別れの夜
天頂へ登る月…
車窓に広がる見慣れた風景…
居心地のよかった助手席…
…最悪
…さいあく
…サイアク
…サイアク…
バタンッ
フラッシュしていたすべてから逃れるように、車外へと飛び出した。と同時に、夜の空気が体を締め付ける。耐え切れず駆け出した。小高い丘の上に広がる住宅地への道は、今の私を嘲笑うかのように長く伸びている。私はありったけの力で駆け登った。やっとの思いで登り切ると、私は苦しい息を吐き出し、急いで冷たい空気を取り込んだ。そして、恐る恐る後ろを振り返ってみた。彼も彼の車も消えていた。
すると、眼下に広がる宝石箱をひっくり返したような街明かりが目に飛び込んできた。その明かりが心の中の後悔と自己嫌悪の気持ちを照らし出していく。天空へと目をそむけると、いくつかの星の輝きが夜の魔法のように瞬いていて、欠けはじめた月が笑っている。もうどうしようもなく自分のちっぽけな存在を突きつけられて、情けなさが襲ってきた。天空への視線が自分の足元へと落ちていくと、胸の辺りで何か得体の知れないものが動き出した。心に切れ目ができて、その中から大切にしまってあったものがあふれ出しているようだった。とっさに胸に手をやった。でも、速い鼓動に合わせて、とめどもなく流れ出ていってしまう。私はしゃがみこんだ。ひざを抱えて、全身に力をこめる。誰か他人の体を抱きしめているみたいだった。誰もいない空間で私はしばらくうずくまった。体の起伏が序々に小さくなって、ようやく立ち上がってみると、一時のほてりに強められた寒さが体を駆け抜けてゆく。思わずよろめいて鳴った靴音が辺りに反響して、力ない一歩を強調する。どれくらいここにいたのかわからなくなるほど、時間の感覚が歪んでいた。時間を操る魔物がすぐ側に潜んでいる。不気味な雰囲気さえ感じられて、家へと急いだ。さっき投げかけたエネルギーが抜け切った虚脱感のような、あるいは投げかけたエネルギーが倍になってはね返ってきた重圧感のような感覚が押し寄せてくる。いつもの帰り道が、拒絶というべき色に染まっている。目を閉じて足に意識を集中させた。そうしてなんとか家へとたどり着くと、そこだけ色が違っているのを感じた。私はここにいていいんだという感情が安心感となって押し寄せてくる。早くその中へと入ってしまえばいいのに、私はその場で立ち尽くした。意識とは逆方向に身体はその場に押しとどまる。私の周りに漂っている重苦しい空気を纏って、入っていってはいけなかった。私は、くるんでいる毛布を取り払う動きをしながら、気持ちを入れ替えようとした。うわべだけでも取り繕うかのように、大きく息を吐き出し、微笑んでみた。すっかり冷たくかじかんだ頬は、不自然にぎこちなく動く。手のひらをあてがって、何かに祈るように目を閉じた。
外界の空気を遮断すると、奥にいる母の気配が流れてくるのがわかった。その気配にシナモン香が加わった。すると思いがけない涙が溢れ出してきた。涙は治まらず、どんどん湧き出してくる。私は普段の声を演じて帰りを告げると、洗面所へと入った。すぐに蛇口をひねって水音をかきならす。涙は冷たく固まった頬を緩ませていく。高揚した熱い流れは、すべてを崩してしまいそうだった。決壊させないように、冷たい水で急いで鎮めた。そして、鏡の中の水滴したたる顔をぼんやり見つめ返した。ここにいるのに、まだあの別れの場面を彷徨い続けている。最悪な別れの夜の断片が、コマ送りで頭の中を行ったり来たりしていた。
「ただいま」
中の空気をかき乱さないように、慎重にリビングのドアを開けた。
「おかえり」
近くで響く声へと顔を上げると、キッチンからリビングへと歩を進めていた母と真正面に向き合った。動揺を悟られないように、私はすばやく微笑んだ。
「ミルクティーあるよ」
母はソファーへと向かう背中越しに言った。
「うん、ありがとう。あとでもらうね」
部屋を横切る途中、冬支度のひとつに気づいた。所定の位置で石油ストーブが今年もちゃんと冬がやってくることを静かに伝えている。季節が変わっていくことへの感慨を粗雑に味わっていることを、今は気にも留めなかった。強烈な願望に心が占拠されていた。沈殿していく悲しみや悔しさを涙で流してしまいたい。その一心に駆り立てられて、お風呂へと向かった。なのに、お風呂に入ったとたん、私は泣くことができなくなった。泣こうという気持ちを働かせて、頭の中で涙への道筋を組み立てなければ、泣くことはできそうになかった。その気持ちは、念じるほどの強い力でなければ動き出さない。静かで深遠な心の隙間に、なぜかコトンと入り込んでしまった。嵐の只中を進んでいた旅人が、次の瞬間、暖炉の焚かれた部屋の中にいて、ざわめく風景を窓の外に眺めている。しかし実は、そこは旅人が入り込んでしまった幻想の場所だった…。そんなイメージが浮かんできて、笑いさえ込み上げてくる。幻の安らぎは、上手にバランスを取って温められた体にもぐりこんだ。
リビングへと戻ると、趣が変わっていた。部屋は闇へと近づいて、電灯が橙色を放ちながら、空間があることを精一杯示している。私は、もっと暗がりを抱いたキッチンへと入り込んだ。おぼろげなミルクティーのポットを火にかける。暖炉の火を見つめる旅人の姿がまた浮かんだ。ミルクティーがあたたまるのを、しばらくその場で待ちながら、キッチンのカウンターを額とした印象派絵画の風景を見つめていた。リビングのテーブルの上にあるカップや平べったいお菓子の缶が上手に闇を纏っている。ティーポットが高熱を帯びて小刻みな音を出した。ぼんやりしていた私はその軽快な音に驚いて、急いで火を止めた。と同時に、記憶の経路がある場面を呼び起こした。
『これは、お父さん直伝、魔法のミルクティー!』
湯気立つカップを私の目の前に掲げながら、微笑む母が蘇ってきた。そして、その記憶の断片の糸をたぐり寄せた。私は小学生だった。そして確か、あの時、泣いていたんだ。学校で友達と喧嘩してしまって、泣いて帰って来た。それから、ミルクティーをもらって、私は本当に魔法にかけられたみたいに、泣き止んだことを思い出した。そして確か、次の日にはちゃんと仲直りできたと思う。
このミルクティーの魔法が、今の私にもかかってくれることを願いながら、カップへと注いだ。なみなみと注いだカップを抱き上げて、一口口に含んだ。シナモンの湯気が鼻の奥をくすぐる。この甘い喜びに感謝しながら、父を想った。そして、慎重な足取りで、ソファーへと向かった。暗がりが少しやさしくなっている。ミルクティーの魔法は、認識するものすべてにやさしいヴェールをかけ始めた。闇は何か大きくて慈悲深いものの内部を思わせた。この魔法は、井戸の呼び水のように、喜びを湧き出させてくれるのかもしれない。
ソファーに座って、少しずつミルクティーを体に染み込ませていった。そういえば、母が泣いていた私に直接ミルクティーを差し出してくれたのは、あの記憶が最後だったと思う。小学校の頃まで、外で悲しいことがあったらそのまま家に持ち帰っていた。といっても、持ち帰るような悲しいことは小学生の私には滅多になかったけれど。中学生になってからは、少し増えてしまった悲しいことを、そのまま家に持ち帰ることはしなくなった。意識して変えた訳ではないと思う。母に気を遣っていたり、無理をしていたりしていた訳じゃない。ただその方が、私自身にとって心地良かったからだ。中学生になってからの私と母の関係は、お互いが心地よい距離感を保っていた。そして、その距離は自在に変化した。お互いがそれぞれの世界を尊重し合いながら、対等な同志というべき関係だった。母は、どんな人とでも、その心地よい距離を保っている気がする。お互いがしっかり自分の足で立ち、それぞれを繋いでいる信頼と尊敬、感謝が支えとなる。もし人間関係において寄りかかる癖のある人と出会ったとしても、上手にその間にクッションを置く。そのクッションにさえ相手への敬意が詰まっていた。これは、母の才能だと思う。
それでも、思い返せば、私の涙とこのミルクティーは密接に結びついている。いつでも涙で抜け出た水分を補ってくれていたのは、ミルクティーだった。私の感情が、言わずとも表面から丸わかりなのかもしれないけど、それだけではない、きっと母は察知できるんだと思う。近くにいなくても、見えなくても、私の心の波が大きく動くことを感じてしまうんだと思う。だから、今日みたいに、ミルクティーを作って待っていてくれるんだ。
母はとても丁寧な儀式を行うようにミルクティーを作る。時間をかけて作る。父が世界を旅していた時知ったという作り方を、母は家宝のように大切にしていた。
ひとしきり思いを巡らせると、大きく息を吐いた。するとさっきキッチンからぼんやり認めていたお菓子の缶が目に留まった。古びた缶箱は、意味深く私を捕らえていた。ストーブを出すときに、思い出の品を見つけたのだろうか、と思ったところでタイミングよく母が入ってきた。
「もう少し飲もうっと」
母はそう言ってキッチンへと入っていった。そんな母を追いかけるように声を張り上げた。
「ありがとうー」
「は~い」
冷たい現実が浮かび上がるように、キッチンの蛍光灯が不調和に空間を彩った。すると、鳩時計が日付の変わることを告げた。もうこんな時間だと思うと、今まで気にも留めなかった窓ガラスのきしむ音がいやに低く聞こえた。風が強くなっている。窓外を想像するだけで、身震いがした。重苦しい記憶が引き戻されそうになるところで、体がフワリと波打った。母がその場をゆるやかな時空に変換しながら話し始めた。
「今まで気づかなかったことが、ある時、ふと気づくことってあるでしょ。なんで今まで気づかなかったんだろう、って不思議に思いながら」
「う、うん、ある」
「これ、そのひとつ」
母は、お菓子の缶を手元に引き寄せながら言った。
「物置にあったの?」
「そう」
「中、見てもいい?」
「いいわよ」
母は、ソファーに身を預けて、ミルクティーを口に運んだ。
「お父さん、たくさん手紙くれたのよ。あんまりしゃべる人じゃなかった。けど、よく手紙をくれたの。原稿用紙の切れ端とか、チラシの裏紙とかに…」
私はずっと持っていたカップからようやく手を放した。鼓動が手のひらをかすかに波打っているのが感じられた。幾分熱っぽく膨張した手をこすり合わせると、慎重に缶の蓋を開けた。押し込まれていた紙たちが、やっと息ができましたよと身を乗り出してきた。
「ほんとにたくさん…」
「ふとしたところに置いてあったのよ、洗面所とか、台所とか。見つけると嬉しかったな」
二人で作り上げてきた物語が、こんなにたくさん目の前で膨らんでいる。私は慎重に手紙の束の上に手を乗せた。不安定な紙の感触を確かめながら、側面を指でなぞってみた。そして、幾枚かをトランプマジックみたいに、指先ではじいてみた。色とりどりの思い出がパタパタはためいた。何度か繰り返してみる。父が何かシグナルを送ってくれている。
父は小説家だった。きれいな織物を作り上げるように丁寧に言葉を織りなし、さりげなく読者の心を愛撫する小説を作っていった。日の光、木々や芝生の緑、そして白いセーターを着た大きな胸、父を想う時、そんな少しピンボケの映像が脳裏をよぎる。それが実際に見た記憶なのか、作り上げたイメージなのかわからない。もしそれが記憶であるなら、幼い私が強烈に刻み付けてくれた父との大切な思い出である。
年を重ねるにつれて知る父は、どこか父親役をしてくれている他人のように感じた。父の出版物、掲載された写真などは、いつでも父のことを丁寧に教えてくれたけれど、私にとって父だと認識することをより一層困難にさせた。頭の中で、これが私のお父さんなんだ、とささややきながら眺めていた。なにより父が父として私の中に存在してくれるのは、母が語る父との思い出話の中だった。
「少し読んでもいい?」
「いいよ」
母も手紙の山の頂上から幾枚か手にすると読み始めた。
母が一時期決別していた父との思い出は、缶の中で相応しい時を待ち、そして再び生き返った。父を照らし出す光は、私たちの顔を輝かせた。父の文字、父の手にした色とりどりの紙片、その中を流れる母への想い。手紙ひとつひとつの背後には、父が確かに存在した時と場所が抱え込まれている。
すると、手紙の山の裾野に一筆箋が横たわっているのに気づいて、注意深く取り出した。
”親愛なる妻へ 昨夜は本当に申し訳なかった。あんなひどい言刃を君に投げかけたこと、反省しています。”
思わず手紙から目を離してしまった。今の私の状況と重なっている文章に驚いて、私は小さくふぅっと一息ついた。
”この気持ちがワーズ・クリーナーに届いて、うちにもやってきてくれることを願います。もしも見かけたなら、教えてください。”
少し背を丸めて、真剣な面持ちで書き記す父の姿が浮かんできた。反省の思いが筆跡からも滲み出ている気がした。そう感じれるのは、同じような状況の私の心が敏感になっているからかもしれない。あるいは、自分の心を投影しているからかもしれない。なだめて押し込めようとしていた感情に、やさしい光をあて、ちゃんと上手に解決することを諭されている。
誰かにひどい言葉を投げつけてしまったのは、初めてだ。手紙の中の言刃という文字が胸に刺さる。言葉は、相手の心を切りつけ、傷つける力をも持っていることが伝わってくる。私は彼を言刃で傷つけてしまったんだ。彼との間に出来てしまっていたほころびを、私は切り裂いてしまった。元に戻すことは難しいだろうけれど、彼との間の糸をつなぎ合わせることはきっとできる。いつしか私は彼にお詫びをしなくてはいけないと思える自分になっていることに気づいた。人間関係は、自分と相手とが一本の糸で結ばれているのではなく、すべての人と蜘蛛の巣のような糸で結ばれていて、それは、現実に会うことがなくなったとしても、永遠に糸は存在し続ける。母が以前話していたことが、私の記憶に鮮明に残っていた。そのイメージは、私の人間関係における認識の根っことなっていた。彼と結ばれていた糸が切れてしまうことは、蜘蛛の巣全体が歪んでしまうことになるんだ。それは、大きな視点に立つと、私と彼だけの問題ではないのかもしれない。
”この気持ちがワーズ・クリーナーに届いて…”
私は気になる部分をもう一度読み返した。
”ワーズ・クリーナー”
知らない言葉だった。私はこの言葉の意味をどうしても知らなくては、と思った。こんなにたくさんある手紙の中で、始めに選んだ手紙が、今の私の状況と重なっている。これは、偶然だとは思えなかった。そんな思いに突き動かされて、私は、タイムトリップの中の母を呼び起こした。
「ねぇ、この手紙、覚えてる?」
母は、ゆったりと現実へと戻ってくると、一筆箋に手を伸ばした。
「このワーズ・クリーナーって、何?」
母は手紙に目を通すと、つぶやいた。
「懐かしいなぁ。ひどいことばねぇ…」
母はしばらく黙っていた。私はそんな母の横顔を見つめながら、子どもの時に感じた母の儚げな印象を思い出した。母が時々透明になっている、と感じることがあった。透明という表現がぴったりで、そんな時は、思わず母の体に抱きついた。すると、母は驚いた顔をした後、いつも優しく微笑んでくれた。その笑顔を見ると不安な気持ちは消えていった。きっと、母は父を想う時、記憶の時空へと飛び立って、しばし抜け殻になっていたんだと今になって気づく。抜け殻になってしまうほど、父との別れがもたらした心の変容は大きかったんだろう。
「何才になったんだっけ?」
母は背後にあったクッションを胸元に抱き取ると、一瞬の風を起こして、私の方へ体を向けた。
「え?」
そんな質問がくることに戸惑ってしまった。微笑む母の顔を見て、難しい漢字の読みを思い出すように言った。
「19才…」
「もうはたちか…時流れゆくは早いものね…」
そう言って母は目を閉じた。そんな母の様子にたじろぎながらも、そのゆるやかな雰囲気が心地よかった。
「大人へと成長してゆく我が愛しき娘へ、父が今夜伝えたいメッセージなのかしらね…」
「え?!」
過剰に動揺して出た甲高い声に思いがけず驚いた。そんな私を気にも留めないで、母は小さくつぶやいた。
「ワーズ・クリーナーのお話…話せるかしら…」
母は、父との独自のコミュニケーションツールを持っているんだ。目を閉じた母の横顔を見つめていると、すぐ側に父がいるような気がした。
「お父さん、ストーリーテーラーだった。世界を旅していた時の話を、たくさん聞かせてくれたのよ。」
母は、大きく息をついて、ソファーに体を預けた。私も同じように目を閉じて、深呼吸した。すると、瞼のスクリーンに父と母が現れた。二人が肩を寄せ合い、父が語る隣で、母が聞き入る情景が動き始める。幸せが静かに二人の間に湧き出していて、水が満ちていくように、その映像が次第にピンボケになっていった。私は、その心地よい幸福感の中に安心感が混ぜ込まれていくことに気づいた。いつか私もこんなひとときを築ける、その可能性の種は、二人から受け継いでいるはずだと思った。
「ストーリー・オブ・ワーズクリーナー、スコットランドへ行った時に、体験したお話。このお話は、スコットランドのある街で、不思議なものを見たことから始まる…」
父が、笑っている。こんなに上手に父を思い描けたのは、初めてかもしれない。いつだって、父を想う時、写真のままの平面的な姿しか浮かばなかった。父が側にいるような錯覚をしっかり味わいたくて、閉じた瞼により一層力を込めた。
「不思議なものを見た日は、朝から天気が悪かった。厚い雲に覆われて、霧吹き雨が降っていた。歴史を感じさせる重厚な街は、一層重々しい威厳というべき雰囲気を醸し出していた。天気は人の心にダイレクトに影響するよね。なんとなく物憂げな気分を持て余しながら、薄暗い午後の幻想に横たわる街へと散歩に出かけたんだ。石畳の道や古い建物、行き交う人々、そのすべての情景はどこを切り取っても、映画のワンシーンだった。街には、数多くの路地があってね。ひっそりと街の片隅に身を潜めているものや、住民の生活がしみだしていて活気を放っているもの、異次元へのトンネルのようなものや、通行人を丁寧におもてなしするようなもの、いろんな路地があった。それぞれの趣を味わうために、わざと複雑な経路を辿って、その街が差し出す巨大迷路を進んでいったんだ。もしかしたら、街全体に暗号が仕掛けられていて、僕は、知らぬ間に、異次元へのドアウェイが開くチェックポイントを通過していたのかもしれない。僕は迷い込んだことにも気づかずに、現実だと思う世界、異次元が入り込んだ別世界を歩き始めていたんだ。そのことに気付いたのは、赤レンガの建物に挟まれた道幅狭い路地でだった。足を踏み入れた時、目に映る情景に強い違和感を覚えた。その日の天候も手伝って、おおよそ細い路地は薄暗い印象だったのに、そこは異様に明るい気がしたんだ。でもね、上を見ても、街灯が付いているわけでもなく、光を発するようなものは見当たらなかった。不思議と怖いという思いは湧いてこなくてね、好奇心が背中を押してた。それでも路地を進むにつれて、胸が騒いでいくのがわかった。ちょうど路地の中間地点まで来た時、勢いよく運んでいた足が固まった。我が目に今まで見たことのないものが映った。何度も瞬きしても、目をこすってみても、そこにいたんだ。そこにいたのはね、小人だった。絵本の世界、ワンダーランドの世界の住人が、そこにいたんだ。小人は、僕のひざほどの背の高さで、とんがり帽子を被っていた。それが、変わってるところがあって、体は確かにあるんだけれど、半透明でね、薄ぼんやりと建物の壁が体を通して認められる。しかも、動きに合わせて、透き通る青色になったり、赤色になったり、そして黄色になったり…体の色が変わっていく。まるで、人型の虹のようだった。そして、手には、金色に光る小さなほうきとちりとりを持っていて、掃除をしている様子だった。そして、時々空中に体が浮かんだりしてね、明らかにこの星の重力から自由の身だった。優雅な空中舞踊のような動きは、月面着陸した宇宙飛行士を連想させた。ほうきで地面を掃くと、何かキラキラしたものが集まってきて、それをちりとりにすばやく収めていくんだ。そんなありえない状況を目前にして僕の心臓は高鳴り続け、体の震えは止まらなくなった。脳の中では、なんとかこの不思議な状況を理解しようと、急激な化学反応を起して、神経細胞がフル稼働してたけど、検索不能でさまよい続けていた。僕の体の内側は高速活動していたけど、体そのものは、大気中に閉じ込められて動けなくなってしまった。この小人は見るだけで人を石にしてしまう力を持っていたのかもしれない、しばらくその場で固まってしまった。そして、何度も同じ場所を掃き続ける小人の様子を見つめるしかなかった。しばらくして、僕は思い切って、現実的な夢の中にいるんだと思うことにした。その場や状況に集中していた意識をゆるめて、深呼吸したらね、小人の魔法は簡単に解けた。動くようになった手を急いで頬へと持っていって、力いっぱいつねった。このお決まりの方法によって、痛い上に、この状況は夢ではないと突きつけられた。それでも、夢であるという証拠を見つけようと、周囲を見渡した。僕が入ってきた方へと振り返ってみたら、ストリートからは車の轟音が流れ込んできた。そして人や車が空間の切れ間に現れては消えていく。この街ではこんなことは当たり前のことですよとでも言いたげに、すぐそこには日常が滞りなく流れていた。と、その時、一人の人影が路地の入り口に立ちふさがった。なんと、この路地に人が入ってきたんだ。全身がにわかに騒ぎだした。そして、小人へと急いで視線を戻すと、こちらに気づくことなく、掃除を続けてくれている。消えてしまわないように念じながら、また急いで入り口の方へと目を向けた。どっしりとした体格のおじいさんでね、少し俯き加減にこちらに近づいてきている。歩みが遅めで、かなり年配の方だった。この不思議な体験を分かち合える人がやってきていることに興奮したよ。僕はおじいさんを待ちわびながら、落ち着くようにと自分に言い聞かせた。このチャンスを逃してはいけない。僕は今までそんな不思議なものを見たという記憶なんてないし、霊感があるとは思えない。そんな僕でもこんなにはっきりと見ることができているんだ、誰とでもこの体験を一緒に分かち合えると思った。ようやくおじいさんが近くまで来た時、意を決して、声を掛けた。おじいさんは、驚いた顔をして、僕を見た。そうだよな、夕方、狭い路地で、見知らぬ異国人に声を掛けられるのは、恐怖心に近い驚きを感じさせてしまうよな。僕は、なんとか落ち着いて、おじいさんがパニックにならないよう祈りながら、『突然すみません、あそこに…』って小人の方へと指を差したんだ。すると、そこにはもう小人がいなくなっていたんだ。ほんの少し前までそこにいた小人が消えてしまっていた。僕はしばらく呆然とした。拍子抜けしてしまった。なんだか、小人にすべてを見透かされていたんじゃないかと思ったよ。おじいさんは、そんな僕から立ち去ろうとはせず、『どうしましたか?』ってやさしい笑顔を向けてくれたんだ。その声にハッと我に返って、おじいさんの笑顔を見た時、泣き出しそうになった。『あそこに変なものがいたんだよ~!』なんて子どもみたいに泣きじゃくりながら声を上げそうになったくらい。でも大人の僕は急いで深々と頭を下げて謝ろうとした時、おじいさんが言ったんだ。『何かがいたのですか?』ってね。好奇心にあふれた少年のような表情に見えた。直感的に、このおじいさんはあの小人のことを知っているんじゃないかと思った。そして自分でも思いがけず、さっき見た情景を話したんだ。すると、おじいさんは口ひげを撫でながら言ったんだ
『そりゃ、ワーズ・クリーナーだな…』ってね。
その時の驚きようったらすごかったよ。驚愕。驚嘆。長年数学の難問に取り組んでいた学者が回答を得たときに感じる感動に匹敵するほどかもしれない。それくらい僕には不可解な大事件だったんだ。そして、おじいさんに取りすがるほどの勢いで、話を聞かせてほしいとお願いしたんだ。おじいさんは、家に帰る途中だったらしいけど、快く話を聞かせてくれたんだ。
ワーズ・クリーナー、言葉の掃除屋さん。あの小人は、精霊のようなもの。言葉の掃除をしてくれている。言葉の掃除って何だろうって思うだろ?あの時、ちりとりに集めていたキラキラ光るものは、実は言葉のカケラなんだって。言葉は目に見えないし、ましてや形になるなんて変な話だろ?口から発せられても、耳では聞けるけど、目では見えない。ところが、言葉は形になるんだって。思考や感情から具現化された、物質になるんだそうだ。形になるんだそうだ。形になるってことは、影響を与える力を持つ。何かに作用して、結びついたり、壊したりする。そして、その言葉の形には、何種類か種類がある。大きく2つに分けて、発せられてから溶ける言葉とカケラになる言葉があるそうだ。溶ける言葉は、時空に溶けて、大気を巡っていったりできる。その言葉の持つ力は一ヶ所に集中せず、いろんなところへと流れていっては、影響を与えたり、また何かに影響を受けては、自在に形を変えていくことができる。しかし、カケラになる言葉は、まさにガラス片のような状態になってしまう。そして、地上に溜まっていく。中には非常に強い力を持ち、岩のような重さを持ってしまうカケラもあるらしい。そうなると、その言葉が持つ力がその場にずっと影響を与え続け、また時間が経つにつれて、求心力を持つこともあるらしい。カケラが磁石のようになってしまう。その磁石の威力は人を引き寄せ、そのカケラと同じ種類のコトバを発するようにさせてしまうんだって。そして、どんどんカケラが溜まっていく。敏感な人なら、あ~嫌な場所だなって感じるらしんだけど、そんな場所は決まって、カケラが溜まっているんだって。そこまで来ると、ワーズ・クリーナーでも太刀打ちできなくなってしまうらしいけどね。そうなる前の段階で、ワーズ・クリーナーはカケラの言葉を掃除してくれているんだ。そのカケラを集めて、その後どうしているのかまでは、おじいさんにも分からないって言ってた。そしてね、ワーズ・クリーナーは、言葉の掃除をするために存在しているわけではないそうだ。ワーズ・クリーナー自身の意志でカケラを探して、パトロールしているわけではない。それなのに、どうして掃除をしてくれているのか…。人がゴミを捨てていくように、カケラを落としていって、そのことに気づかず、またカケラを積もらせていく。でもね、カケラになる言葉を発してしまったと、気づいた人の心には、小さな光が灯るんだって。ワーズ・クリーナーは、その光を、僕たちが夜空の星を眺める時と同じように、美しく感じるんだそうだ。その気づいた人の心が澄んでいればいるほど、その心はカケラになった言葉へと繋がって、カケラの中にその光が宿るんだ。だから、僕がワーズ・クリーナーを見た時、掃除していたものが、キラキラ輝いていたんだね。ワーズ・クリーナーはその光を放ったカケラを見つけて掃除してくれるんだそうだ。
おじいさんは、子どもの頃、家の納屋でワーズ・クリーナーを見つけたらしい。そのことを、自分のおばあさんに話したら、おばあさんがその小人のことを詳しく教えてくれたそうだ。どうして知ってるのかと尋ねたら、いつか教えてあげましょうって言われながら、そのまま聞けずじまいだったそうだよ。ワーズ・クリーナーって言葉は、そのおじいさんがつけたんだって。そしてね、ワーズ・クリーナーを見ることのできる人ってのは、言葉を使う仕事に就く人が多いんだって。おじいさんは、小説家だった。僕も小説家なのかと問われたけど、その時、小説を書いたことなんてなかったし、小説家になりたいとも思ってなかった。なのに、本当に小説家になるなんて、自分でも驚いている。ワーズ・クリーナーのもうひとつの魔法かもしれないね。
これが、ワーズ・クリーナーのお話。このワーズ・クリーナーの存在を信じるも信じないもどちらでもいい。ただ言葉の力は信じてほしい。そう願って、この話を大切にしている。それからね、僕なりに、ことばの漢字を作ってみたんだ。カケラになることばは、刃物の刃の字を書いて言刃。普段話しているのは、いつもの葉っぱの葉の字で言葉。そして、他には、羽根の羽の字で言羽、なんだかやさしい感じかな。そして、波という字で言波、なんとなく溶けていくイメージ…他には…」
私は目が覚めた。自分がどこにいるのか分からなかった。目を閉じる前、闇だった空間には、光が満ちていた。自分が横になっていることに驚いて、飛び起きた。体から何枚もの毛布がずり落ちた。いつの間にか眠ってしまったようだ。私は、くしゃくしゃの髪の毛をまさぐり、頭を掻いた。
「おはよう」
母がリビングへと入ってきた。
「おはよう、私、ここで寝ちゃったんだね」
「急にコクンと寝入ってしまうんだもん、ワーズ・クリーナーのこと話そうとしたら、もう寝ちゃってたのよ。」
そう言って、母はキッチンへと入っていった。
「え?!ワーズ・クリーナーの話、聞かせてくれてたんじゃないの?」
「え?」
その瞬間、やかんが高らかに鳴り響いた。私はそのまま何も言えなくなってしまった。そしてぼんやりと夢か現実かわからない中間地点を漂っていた。
「時間大丈夫?」
母の声にはっと我に返って、私は身支度を始めた。頭がぼっとしていて、いつもよりも時間がかかってしまい、慌しく家を飛び出したが、いつもの電車を乗り過ごしてしまっていた。次の電車に間に合うように、私は駅へと急いだ。坂道を下りながら、私は知らぬ間に泣いていることに気づいた。朝の空気に引き締まった頬に幾度も涙が流れ落ちる。その時、ワーズクリーナーのお話を父が話してくれていたんだと確信した。お父さんと会えていたんだ。お父さんが私のために話してくれたんだ。声を上げて泣きそうになるのを堪えた。坂道を下りきると、私は思わず声を上げた。一瞬、虹のようなきれいな小人の姿を見た気がして、立ち止まった。けれど、そこには何もいなかった。私は、涙で濡れた顔を拭いて微笑むと、駅までの道をまた駆けていった。
読んでいただきありがとうございます。