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さびしさとは一体何なのか。生きている上で、孤独はその人の生と切っても切り離せないものだ。誰しもがふとした時に感じる、孤独、さびしさ。いや、違う。私自身が感じていることをそう簡単に一般化してあの人もこの人もさびしさを感じていると早合点してしまうのは間違いのもとだ、そもそも私は私であり他の誰でもないのだから。道行く人たちは、私のようにさびしさを感じることがあるのだろうか。昨日のバーで隣りに座っていたあの男性も、あの女性も、さびしさを感じることがあるのだろうか。推測するのは容易い、しかし、確証を得るのは難しい。まさか、さびしいですかと単刀直入にそんな質問を赤の他人にぶつけるわけにもいくまい、常識と、礼儀というものがある。酒の力を借りて、酔っ払っているということにして聞くことも可能といえば可能なのだが、そんな卑下なやり方をしたいかと問われれば、答えはいいえ、だ。本当に、みんなは、何を考えているのだろう、何にさびしさを見出すのだろう。自分が他人でないことを呪う、とまではいかないが、わかりたくてもわかることができない事象にでくわした時に、ああ、人間の、もとい、私の力などちっぽけなものなのだな、と、無力感にさいなまれるようなことが、ないでもない。力があればなあ、と思う。ただ、力があってもその力に振り回されて、他人に対して傲慢な態度をとってしまうかもしれないし、そんなことになるのなら力など持たない方が、野蛮になるくらいなら無力でいた方が、良い。無力だからといって、弱いとは、限らない。それが美徳というものではないのかな。美しいバラにはトゲがあるが、美しい人が針を持っているとは言い切れない。もしかしたらものすごい毒針を隠し持っているかもしれないが、それも、実際に会って確認するまでは、わからない。推測はいくらでもできるが、確証を得るのは難しい。推測を展開していくのはいくらでもできるので、確証に邪魔されないこの自由な空間で、好きなように羽を伸ばそうと思う、うんざりしない程度に。そうならば、言うが、やっぱりみんな、各人の差こそあれ、心のどこかに、少なくとも一抹のさびしさを抱えているような気がする。あくまで推測なのだが。だから、羽振りよく金を使うのだろう。証、といったような、自分がここにいることを誰かに認めて欲しくて、金をたくさん使うのだろう。孤独とは、人を内側から喰らい尽くす怪物のことをいう。目には見えない、においもしない。しかし、確かにそこにいる。あなたの内側に、いる。上手く飼い慣らさないと、一飲みにされてしまいかねない。凶暴で、打たれ強く、理解ができない。とても恐ろしい存在、それが、孤独だ。常日頃から、備えなければならない。