動き始めた意志
地面に描いた魔法陣が淡く光っている。アウレリオが魔法を発動させてから、特に変化もなく時間だけが過ぎていく。トリスタンは手持ち無沙汰に、木の枝で己の肩を軽く叩いて待っていた。
――結界を調査する方法が、残滓を読み取るだけとは。
教会の行政府にいる使徒の中でも、特に有能だと噂の神父に同行したものの、調査は原始的で単調に思えた。結界に使われた魔法が森の魔力を乱し、その乱れを観測して種類を特定する。使用者の知識と経験に大きく左右される方法だ。教会の魔法に馴染みがないトリスタンには、準備を終えると早々にやることがなくなった。
同行している僧兵は森の奥を警戒している最中だ。セレスティノは魔石を届けるなり、別件の用事を申し付けられて森を離れてしまった。話し相手が誰もいない。
――こんなことなら、あの男に会いに行けば良かった。
賢者と同じ時代を生きていたという、嘘のような経歴を持つ彼なら、きっと話題に困らなかったのに。あの頭の中には当時の魔法だけでなく、庶民の風習や生活など、資料に残っていない情報が豊富に詰まっている。
知ることに興奮を覚えるトリスタンには、ユーグのような過去の人間が現在に生きているというだけで朗報だ。なんとしてでも帝都へ帰る前に捕まえて、可能な限りの記憶を教えてもらいたい。いっそ大学へ招待したいが、それはもっと関係を深めてからだ。
少しばかり意識を飛ばしている間に、アウレリオの調査が終わった。魔法陣が光を失い、ただの線に変わる。
「調査は終わりだ。教会へ戻って精査に移る」
何も言われずとも、周囲を警戒していた僧兵たちが集まってきた。線を消そうとしていたアウレリオを止め、先に教会へ戻るよう促す。
「ミケーレ司祭より、時間を無駄にしないようアウレリオ神父を補佐せよと申し付けられております。魔法陣の消去も、司祭の下で学んでおりますので」
「そうか。では諸君らに任せよう」
アウレリオはそう言うと、さっさと森を出ていった。
ここは森の入り口から浅いところにある。魔獣が消えた今、警戒すべきものは少ない。戦闘員には見えない神父でも、一人で行動できるほど安全だとトリスタンは考えていた。
残されたトリスタンは僧兵の一人に話しかけた。
「魔法陣の消し方にも決まりがあるのか」
「はい。完全に消してしまわないと、残った断片が土地の魔力を乱してしまいます」
話しかけられた僧兵は、作業を中断させられたにも関わらず、嫌な顔一つせず誠実に答える。
「線を消すだけでは駄目なんです。上から『聖水』を撒いて、可能な限り魔力の乱れを整えます」
「ほう。教会らしい丁寧な仕事だ」
「ありがとうございます」
遠回しに教会は行動が遅いと言ったつもりだったが、僧兵は言葉通りに受け取ったようだ。素直な反応にトリスタンのほうが戸惑う。どうやら貴族間でありがちな皮肉の応酬に毒されすぎているようだ。
「作業の邪魔をして済まなかった。僕も町へ戻るとしよう」
「お気をつけて」
僧兵の集団から離れ、トリスタンは森の外を目指した。アウレリオが歩いて行った方向へまっすぐ向かえば、町を囲む防壁が見えてくるはずだ。ここへ来るまで、僧兵が残した目印もある。
目立つ赤色のリボンを見つけながら歩いていると、地面に落ちている木の影が動いたような気がした。魔獣の一種かと身構えたが、その後の動きはない。
「気のせい……?」
魔獣から身を守る手段は持っているものの、あまり実戦は得意ではない。早く森を抜けてしまいたいと、足が速くなる。
冷たい風に乗って異音が聞こえてきたのは、その時だ。
獣の息遣いと走り回る音。
――狼か?
森の浅いところでは魔獣が消え、魔石を持たない動物が増えたと会議で言っていたではないか。すみかを追われた狼が獲物を探して出てきてもおかしくない。
音は近づいてくる。
トリスタンは丈夫な木に背中を預け、腕輪の形をした魔道器に手を添えた。普通の獣なら物理を防ぐ結界で十分だ。幸い、僧兵が残した目印が近くにある。大人しく身を守っていれば、作業を終えた僧兵が見つけてくれるはずだった。
木々の間に動くものが見えた。黒い狼が一直線にこちらへ走ってくる。見慣れた動物の姿にトリスタンは安堵した。野生動物なら己の結界だけで持ちこたえられる。
魔導器を動かして待っていると、狼は木の根を避けて跳躍した。ずいぶんと身軽な狼だ。
狼はそのまま何度か飛び跳ねて、ふと幻のように消えた。
「……どこへ行った?」
しっかりと目で追っていたのに、狼は空中で溶けるように消えてしまった。もう息遣いも聞こえない。
――待て。どうして僕は獣が吐く息遣いが聞こえたんだ?
獣の姿が見える前から、まるで至近距離にいるかのように聞こえていた。幻聴だったのか、それとも。
足元が急に沈んだ。
ふらついて木の幹に手をつく。
トリスタンの目の前に顔が現れ、じっと見つめてきた。
男とも女ともつかない。無表情で口はかたく綴じられている。やけに黒い目に光はなく、深い穴のようだった。
不気味な顔が近づいてきて、トリスタンは反射的に両手で顔をかばい、目を閉じた。
生温かい風が首筋にかかり、それっきり静かになった。
トリスタンは恐る恐る目を開けてみたが、顔はどこにも見あたらない。獣の息遣いも聞こえず、冬の森が広がっているのみだった。
「何だったんだ。今のは……」
亡霊よりも希薄な気配なのに、生きている人間のように存在を主張してくる。幻惑の魔法よりも生々しい吐息を思い出し、トリスタンは己の首を触った。
「そうだ。町へ戻らないと……」
結界を解除し、急いで森の出口へ向かう。転びそうになる足を動かして、ようやく木々が途切れたときは、ため息が出た。
荒野を貫く道は雪で真っ白になっている。防壁の近くには畑が広がっているはずだ。道から外れないでくださいと僧兵に言われ、森まで来た。帰りは足跡をたどっていけばいい。
防壁の上には森を見張る自警団の姿があった。門扉は閉じられていたが、トリスタンが近づくと、一人が通れるだけの間を開けてくれる。
「お一人ですか?」
自警団の一人が尋ねてきた。
「ああ。僧兵たちは調査の痕跡を消してから帰ってくる」
トリスタンが喋っている間に、森の入り口に僧兵たちの姿が見えた。あれに近づいてはいけない。なぜかそんなことを考えてしまう。
見張りをしている自警団に労いの言葉をかけ、トリスタンは町の中心地を目指して歩いていった。
――さて、これからどうしようか。
会議は終わった。教会へ行っても手伝える作業はない。獣の正体はほぼ掴めた。ならば報告書の作成に入るべきだろうか。
「あとは」
こめかみの辺りに鋭い痛みが走った。口が開かなくなり、腕が重くなる。制約の魔法が発動する時と同じ症状だ。禁止事項を喋ろうとした訳でもないのに、不思議なことだとトリスタンは思った。
大通りに出たトリスタンは、自警団の本部へ向かった。迷わず中へ入ると、最初に出会った団員を捕まえる。
「君、ユーグという男を見なかったかね?」
ぜひ昔のことを知りたい。
「あー……ここにはいませんよ。もしかしたら寮に帰ったか、彼女のところへ行ったのかも」
「寮?」
「領主様の屋敷のそばに、護衛とか使用人が使ってる建物があるんです」
「ああ、あれか」
トリスタンの宿泊場所は領主の屋敷に用意してもらっている。客室の窓から平家建ての建物が見えた。あの中に使用人たちの部屋があるのだろう。
「寮ならば仕事の合間に会いに行けるな。彼女とは?」
「あいつの恋人ですよ。魔石職人の。急ぎの用じゃないなら、寮に帰ってくるのを待ってたらどうです? 夕方には帰るはずだから」
工房の場所を聞いてみたが、滞在先とは遠く離れている。そこへ向かったかどうかも分からない。トリスタンは団員の提案を受け入れることにした。
「それもそうだな。君、ありがとう」
「どういたしまして」
教えてくれた団員はトリスタンに貴族への礼をしなかった。礼儀に欠けるというよりは、話している相手が貴族だと気づいていないらしい。トリスタンもあえて名乗ろうとはしなかった。
本部を出たトリスタンは屋敷がある方角を見上げた。
「さて。瞳を探しに行く前に、魔力を補給しておくか」
*
入りこんだ人間の知識は豊富だった。
久方ぶりに触れる情報の多さに『それ』は歓喜した。足りなかった情報が次々と補足されていく。この知識の多さは支配者層だろうか。
少し前に吸収した人間とは段違いだった。潤沢な知識と魔力。核を育てる才能はないが、力尽きるまで使い潰す道具になれる。
情報の海に浸かって恍惚としていた『それ』は、秘匿された場所があることに気がついた。何らかの方法で厳重に守られ、掴もうとすると、するりと逃げてしまう。
中心となる言葉があって、関連した情報ごと触れられない位置にある。無理に暴こうとすれば、この人間の命が危ない。
己が存在していた時代よりも、魔法が洗練されている。慎重に身を隠すべきだと『それ』は思った。この時代の人間は、瞳を探そうと解放された手足を全て壁のところで阻んだではないか。
探しているのは主の瞳。
瞳さえあれば、主の力が戻る。
檻から出られる。
主の瞳を奪った男は未だ見つからないが、後継者の存在は感知した。
後継者は体を構築した過程が似ている。古代の支配者が求めていた器。主が檻に捕らえられる前に完成した秘術。全てにおいて無駄が取り除かれ、完成されている。
魂から読み取った情報で、再び同じ肉体を得て生まれるという、永遠を求めた執念の成果。己の体は唯一無二。いくら優れた器を作ろうとも、それは不相応というもの。
だから全く同じ肉体を求めた。
若返りさえすれば、永遠を生きられる。
そんな秘術を継承した者なら、きっと瞳のありかを知っているに違いない。




