計画発動の合図
ふらりと戻ってくるユーグが見えた。リリィは壁から背中を離し、軽く手を振る。
スポーツを好きになるかどうかは一日目で決まる。大切なのは成功体験を積み重ねること。出来ないことが当たり前の初心者に、面白いと思ってもらうことだ。
せっかくだから、二人で楽しめることを増やしたい。
――大人ってどう褒めるんだっけ。
新入社員の教育と同じにすると、他人行儀すぎる。だがやり過ぎると子供扱いしているようで良くない。成人男性に向ける褒め言葉は、前世の自分を参考にしてもいいのだろうか。
人を褒めることの難しさに悩んでいる間に、距離が縮まってくる。リリィは細かいことを考えるのは止めて、いつも通りに笑顔で出迎えた。
「おかえり。一日でこんなに上達するなんて――」
氷面に窪みでもあったのか、ユーグの体勢が崩れた。とっさに助けようと腕を掴んだが、リリィの力で立て直せるわけもない。逆に引きずられて姿勢を崩される。
転ぶ衝撃を予想して、体が強張る。だが痛みが来る前に体が浮いて、壁際に追いやられた。
痛くはない。
氷壁とリリィの間にユーグがいて、後ろから抱きしめられる形で止まっていた。あの姿勢から、どう動けば転倒を回避できるのだろうか。ユーグと一緒にいると、不思議なことばかり起きる。
「びっくりした……ありがとう?」
「……ごめん、油断した」
リリィが離れると、ユーグも壁から離れて出口へ向かった。
「溝に引っかかるのはよくあることよ。慣れてる大人でも転ぶから気にしないで」
「残念だなぁ。滑ってる最中はリリィの顔が見られない」
「なんで」
「笑顔が好きだから。見惚れてた」
「ユーグ」
「ダメ。一度しか言わない」
ユーグは壁の向こう側へ出ると、さっさとベンチへ行ってしまった。
聞き間違いではなかったらしい。
リリィのどこが好きか、聞いたことがあった。その質問を今になって返してきたのは、心の準備ができたからなのか。それとも素直に本音を教えてくれるほど、信頼関係ができている証なのか。
どちらでも嬉しい。
少しずつではあるけれど、良い方向に進んでいる。お互いが好きで一緒になりたいと思っているけれど、まだまだ知らない部分のほうが多い。だから明らかになったところがリリィにとって好ましいことなら、この上なく幸せだ。
にやけそうになる口元を両手で覆った。冷えた顔を温めているように見えるだろうか。油断すると、ずっと思い出し笑いをしてしまいそうだった。
ふわふわとした気持ちで並んで座り、黙ったまま靴からブレードを外していった。
そろそろ話しかけたほうがいいだろうか。
リリィが最初の一言を探していると、急に空が陰った。
見上げた先に赤いものが飛んでいる。翼を広げて高度を下げ、何もない荒野に降りようとしているらしい。
「やっぱり来たよ」
ユーグは新たに現れた竜を見て、町へ向かって紙飛行機を飛ばした。
「さてリリィちゃん、ここからが『交渉の本番』だったよね?」
「そうね。あの竜が知り合いなら楽に終わると思うけど、気は抜かないようにしないと」
竜を見つけたシーリスがスケート場から出て走っていく。喜んで竜へ向かう彼女を、周りの大人は微笑ましく見守っている。
見た目に惑わされてはいけない。
リリィはユーグを連れて、赤い竜に会いに行った。
*
「シーリスよ。何故に人の国へ来たのか。お主にはまだ早いと言っていたであろう」
雪原に降り立った赤い竜は、同じ色の髪をした少女に変わった。仁王立ちをして走り寄ってきたシーリスを睨む。シーリスは相手が本気で怒っていることを見て取り、明らかに動揺していた。
「し、しかし姉上。鱗が生え変わったら外へ連れて行ってくれると言ったのに、留守番ばかりだから!」
「鱗が生え変わっても、人間の常識は知らぬままであろう。徐々に教えてやると約束したではないか。今のお主では人間と対等に会話できぬ。不利な契約を結ばされるのが落ちじゃの」
シーリスがさっと目を逸らした。知られたくないことがあると、全身で言っているようなものだ。
あからさまな態度に、姉と呼ばれた少女の表情が険しくなる。
「まさかお主、もう既に誰かと契約を!? 条件は何じゃ、金か? それとも魔力――あっ」
ようやく赤い少女はこちらに気がついた。リリィとユーグが過去に会った人間だと気がついた途端、ふと遠い目になる。色々と察してくれたようだ。
「……達者でな、シーリス。父上には我から報告しておく。じゃあの」
「あ、姉上!?」
帰ろうとする彼女に、シーリスがしがみつく。腰に両腕を回して抱きつき、引きずられても離れない。
「私を助けに来てくれたのではないのですか!?」
「やかましいわ! こうなるから外へ出るなと言ったのに、家出したお主の自業自得よ! 大人しく奴らの奴隷として労働に勤しむがよい!」
「奴隷!? 奴隷じゃないもん!」
「どうせ似たようなものであろう? まあ、捕まったのがこの二人だったことに感謝せい!」
「盛り上がってるところ悪いけど、契約したのは僕じゃないよ」
面白おかしく事態を見守っていたユーグが口を挟む。子供、と言うよりは小動物が戯れているところを、微笑ましく見学していた態度だ。
「どうせ手伝いはしたのであろう? ならば同じことよ」
赤い少女は嫌そうな顔でシーリスを剥がしにかかる。逃したくないシーリスもまた必死だった。
「ええい離せ、シーリス! 我は寒いところは苦手じゃ、帰る!」
「そ、そんなこと言わずに!」
放っておくと、いつまでも終わりそうにない。こちら側の計画もあるので、リリィは竜の姉妹に話しかけた。
「とりあえず、シーリスの雇用主に会ってきたら? 契約することになった理由も知ってほしいから。ユーグ?」
「いつでも転移できるよ。お菓子も用意してくれたみたい」
「お菓子……」
赤い少女は迷っていたが、やがて場所を移すことに同意した。
見覚えがある転移門が現れ、まず竜の姉妹が通る。ユーグに軽く背中を押されて、リリィも転移門へ入った。
ようやく計画の終わりが見えてきた。




