氷の上で
数日後に荒野を訪れると、大きな城が消えて広いスケートリンクができていた。胸の高さまである氷の壁で外周を作り、内側には水平で滑らかな氷面が輝いている。古い記憶の中にあるスケート場とほぼ同じだった。
川で遊んでいた時よりも住民の数が多いのは、町から近い場所にあるからだろう。特に親子連れが多いのは、幼い子供を連れて凍った川まで行かなくても済むからだ。珍しい冬の晴れ間の下、楽しげな笑い声が響いている。
リリィは早く氷面を見たくなり、ユーグの手を引いて走った。
「すごい……ユーグ、氷に亀裂がないよ!」
「川に落ちることはなさそうだね」
頬に一房落ちた髪を、ユーグがすくって束に戻す。だが走ったことでほつれた髪は、元に戻ることなく下に落ちた。
「後ろを向いて。結い直すから」
優しく、かつ強引に体の向きを変えられた。整えた髪を解かれ、前髪の近くから髪を編んでいる感触がする。
肌に触れているわけでもないのに、体温が上がってきた。
手櫛で髪をすいて、彼の思う形にされている事実が、なぜか人に見られてはいけない行為のように思えて戸惑う。
好きな人以外には髪に触れてほしくないと言ったのは、いつ出会った女の子の言葉だっただろうか。
「こんな感じかなー?」
心を動かされているのはリリィだけだ。後ろから聞こえてくるのは、呑気そうな鼻歌と声だけ。緊張している間に、仕上げのリボンを結ばれて終わった。
「ありがとう。どんな髪型にしたの?」
「そんなに変えてないよ」
行こうかと促されて、リリィたちはスケート場の前に設けられたベンチへ向かった。四つほど氷の壁が低くなっているところがあり、利用者はここから出入りできる形になっている。
壁の周囲には屋台まで来ていた。どうやら許可制で出店しているらしく、町にいる時には見たことがない、青い色の旗が下がっている。
持ってきたスケート靴は、長靴の上からブレードを装着するものだ。素材には魔獣の骨や金属を使っている。木製の踏み板の上に靴を乗せ、革紐で固定して使う。しっかり紐を締めておかないと、滑っている最中にずれて危険だった。
ユーグにやり方を見せると、すぐに覚えて装着していく。相変わらず器用でうらやましい。
準備が終わり、壁の切れ目からスケート場へ入った。一年ぶりの氷の感触だ。夏から冬にかけて忙しかったこともあり、思いっきり遊べる予感に嬉しくなる。
「リリィちゃん、お願いだから置いて行かないで」
背後から聞こえてきた不安そうな声で、リリィは我に帰った。
振り返ると氷の壁から手を離せないユーグがいた。捨てられた犬のような目でリリィが来るのを待っている。
「あなたにも苦手なことがあったのね……」
想像とは全く違う姿に人間味を感じ、ついしみじみと感想が漏れた。何となく、他人の行動を真似して完璧に習得するのではと予想していただけに、驚きが大きい。何でもそつなくこなす印象が強いせいだ。
ユーグは首を横に振ってため息をつく。
「僕、そこまで万能じゃないよ……というか、これ手すりなしで立てる気がしない」
今は立つだけで精一杯な様子だ。壁を向いて両手で縁を掴んでいる。
――どうしよう。可愛い。
もちろん助けてあげたい気持ちはある。だがスケートを始めたばかりの子供と同じ行動をしているところに、なぜか愛おしさを感じた。
「と……とりあえず、真っ直ぐ滑るところから始めよう」
「分かった。お願い、します」
お互いの両手を繋いで、リリィは後ろ向きで滑りながら説明していった。最初こそ戸惑っていたユーグだったが、持ち前の身体能力の高さを発揮して体で覚えていく。ゆっくり前進できるまで、そう時間は掛からなかった。
この調子なら次の段階に進んでも問題ないだろう。
「じゃあ次はカーブの曲がり方を」
「進行が早いよ!? リリィちゃん、初心者相手だってことを忘れてない? まだ五分ぐらいしか経ってないんだからね!」
スパルタ教育だと嘆くユーグだが、アルトロワの子供なら一日もあればできることだ。
「でも直線は出来てるんだから、問題ないでしょ? すぐ慣れるから」
「お、鬼教官だ……」
酷い言い草だ。相手の習熟度に合わせて進めているだけなのだから、恨むなら己の運動神経を恨んでほしい。
リリィが微笑んで手を引くと、ユーグは諦めて前進し始める。
最初のカーブを曲がり終えたところで、氷壁の外側にいた男が手を振っていることに気がついた。
「ニコラじゃないか。何してんの?」
自警団で同じ組のユーグが声をかけると、ニコラは氷の上で遊ぶ子供の集団を指差した。
「子守だよ。最初は親戚の子供を一人預かるって話だったのに、今日になって人数が増えたんだ。酷いと思わないか?」
「お疲れ様。賑やかな休日だねぇ」
子守は午前中のみだそうだ。家にいてもうるさいだけなので、近場にできたスケート場で時間を潰すことにしたらしい。
「寒いし暇だし、酒を飲むぐらいしかやることねーよ」
ニコラは木製のマグカップに入った酒を少しだけ持ち上げた。中身はリリィから見えなかったが、アルコール度数は高めのようだ。同じカップを持っている客は、一気に飲まずに少しずつ口に含んでいる。
「仕方ないなぁ。これあげるよ」
同情したユーグはニコラに小さな包みを渡した。表面は質素な生成りの布だ。中に入っているのが石鹸でもおかしくない。
「ニコラにはお菓子がいいんだろうけど、あいにくと甘いものは角砂糖しか持ち合わせていなくてね」
「貰えるものはもらっておく。ところでユーグ……」
ニコラは氷壁の上にカップを置いた。からかってやろうという態度を隠そうともせず、リリィたちに笑いかける。
「お前、スケートできなかったんだな」
わずかにリリィの手を握る力が増した。痛いところを突かれたと解釈してもいいのだろうか。
「意外なものを見せてもらったよ。戦ってる時はあんなに動き回ってるユーグが、氷の上では子供より滑るのが遅いなんて――気にすんなって、誰にだって苦手なことはあるさ」
不穏な気配を察したのか、ニコラは途中から主張を変えた。だが少し遅かったようだ。
「ニコラ、春の合同訓練では弓兵も接近戦を中心に行うらしいよ。集中的に狙ってやるから、楽しみにしてろよ?」
「い、嫌だな。俺たち友達だろ?」
「行こうか、リリィ」
「えっ? そ、そうね……」
滑り出そうとしたユーグだったが、ふと何かを思い出したのか、ニコラの方を振り返った。リリィから見えるのは勝ち誇った横顔だ。
「ねえニコラ。好きな子に手取り足取り教えてもらうのも、いいものだよ」
「当てつけ!? おい、それ俺への当てつけだろ!」
「じゃあ、子守を頑張ってねー」
嘆くニコラに適当に手を振り、ユーグは始めた時よりも自然な動きで氷上を進む。もう両手で誘導しなくても良さそうだと左手を離し、隣に並んで滑ることにした。
「絶対に、短時間でマスターしてやる」
「……正気なの?」
どうやらニコラはユーグを本気にさせたようだ。遊びの範疇を超えようとしている。
「子供以下だとまで言われたのに、黙って引き下がるのは僕のプライドが許さない。しっかり見返してやらないとね」
温厚なようでいて、たまに好戦的なところが顔を覗かせる。この差が良いと思ってしまうあたり、手遅れなほど惹かれていることは間違いない。
子供のようで可愛いと思ったことは、一生言わないでおこうとリリィは決めた。
ニコラが連れてきた子供たちの近くを通ると、シーリスが集団の真ん中にいた。氷の補修に来て、そのまま子供たちに捕まったらしい。一緒に補修のために来ていた行政棟の職員は、休憩ついでに遊んでおいでと言って壁の外側へ帰っていく。
子供の群れに放り込まれたシーリスは、氷の彫刻が見たいとせがまれていた。通り過ぎたリリィたちが一周してくる間に、氷の魔法で竜が作られていく。
だが得意げに作った彫刻は、あまり好評ではなかったようだ。さんざん格好良くないだの怖いだの言われ、膝をついて落ち込んでいた。翼が生えたカバにしか見えなかったことが原因に違いない。
子供は正直で、残酷だ。
シーリスは滑ってくるリリィたちに気がつくと、涙目で立ち上がった。
「リリィと言ったな、お主らがどのように我を貶めたのか、領主から聞いたぞ!」
「ごめーん。いま忙しいから、また後でね!」
リリィが返事をするよりも早く、ユーグが答えてカーブを曲がる軌道に入る。まさか受け流されるとは思っていなかったシーリスは、呆然と見送っていた。
「いいの? あれ」
「いいの。どうせ恨み言を聞かされるだけなんだから。時間の無駄」
竜ならこの程度では潰れないからとユーグは断言した。見た目が似ていても、人間とは精神構造が違う。子供のような外見に惑わされて、甘やかしてはいけないと釘を刺された。
「あれも社会経験だよ。放置して見守ってあげないと。それに交渉の本番は、もっと先なんでしょ?」
そんなことより練習だとやる気になっている彼に、リリィは新しい課題を出すことにした。
「スピードが出せるようになったら、軽くジャンプしてみよっか」
「だからリリィちゃん。僕が初心者だってことを忘れないでね」
「大丈夫、転んでも笑わないから」
「そういう問題じゃない」
上達が早い生徒は、はっきりと拒否してきた。
「僕がリリィの手助けなしで一周できたら終わろうよ。寒いし、大通りのカフェで温かい飲み物でもご馳走させて」
そこまで言われては妥協せざるを得ない。
リリィはそっと手を離した。
「……仕方ないわね。キャラメルソースのクレープも付けてくれるなら」
「交渉成立だね」
ユーグは滑る速度を上げてリリィから離れていく。長年、スケートに親しんできた領民に比べると、まだまだぎこちなさは残る。だが今日始めたばかりの初心者としては上出来だ。
冬の楽しみが一つ増えた。
人にぶつからないよう、気を遣って滑っているユーグに、知り合いたちが声をかけている。ニコラのときと同じようにからかわれているのか、苦笑しているのが見えた。
一周してくるまで、もう少しかかりそうだ。
戻ってきたときは『おかえり』と最初に言おうと決めて、リリィは氷壁にもたれかかった。




