森の神殿
深夜の森の中、ドニは手斧を持って歩いていた。頼りない月の光は木々に遮られて届かない。手持ちのランプを調節して光量を落とし、自分で付けた目印を頼りに進む。
自分でも、どうしてこんなことをしているのか分からない。いつの頃からか心に粘ついた気持ちが巣食っていて、破壊衝動に駆られることがある。思い通りにならない現実に苛つき、酒に逃げる日もあった。
――たぶん、ユーグが来たからだ。
得体の知れない移住者。目立つ容姿で女共の関心を集めているくせに、一人を除いて全く見向きもしない。そんな一途さが良いと、評価だけは上がっていく。
不公平だと思った。
生まれた時から人生は決まっている。ただの農夫の息子が良い暮らしをするなど、不可能だと断言されているようだった。
素行が悪い若者に噂を吹き込んでけしかけてみたこともあったが、どういうわけか逆に感化されて大人しくなった。最近では教会の奉仕活動に参加したり、真面目に職を見つけて働いているというのだから、気味が悪い。
「俺は町のためにやってるんだよ」
点々と続く目印を辿り、ドニはつぶやいた。
猟師だった叔父から、森の結界のことは聞いている。キノコから作った塗料に魔力を込めながら塗ると、効果が長持ちすることも。仕事のことはあまり話そうとしなかったが、酒が入ると饒舌になって同じ話題を繰り返す。叔父が生きていれば同じ道を歩んでいたかもしれないと思うほど、ドニを可愛がってくれた人だった。
――煮詰めた液体に、糊と灰を混ぜて一晩待つ。
子供の頃に酔った叔父が言っていた手順で作り、それらしい塗料ができた。植物の精霊が静かになる真夜中に、少しずつ結界までの道を調べていった。あとは実行するだけだ。
――あいつは猟師でもないのに、たまに森へ入っている。今日は自警団と結界を見回っていたらしい。やるなら今夜しかない。
ようやく運気が回ってきた。
結界を見回ったその日のうちに異常が見つかれば、まず新参者が疑われる。ドニはそう信じていた。
ドニは己の視野の狭さに気がついていなかった。何かせずにはいられない、焦燥感に動かされている。自分の生活が脅かされているという被害妄想で、矛盾した行動をしているなど微塵も考えていない。
目立つ新参者に全ての責任をなすりつけていることに、彼は何の疑問も持っていなかった。
あと少しというところで、目印が途切れていた。目的の結界が見当たらない。
「どこだ……?」
消えないように、しっかりと魔力を入れて塗りつけたはずだ。もしや雪で流れたのかと思い、近くにあった木に触れる。
探し回っているうちに、ドニは自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
遠くから獣の遠吠えが聞こえる。柄にもなく手が震えてきた。家族に内緒で家を出た時の自分は、どうして手斧しか持ってこなかったのだろうか。
今日は赤い月に青い月が重なる日だ。こんな日は魔獣の力が大きくなると言われている。
――俺は間違っていない。
ドニは森の中を進んだ。近くにあるはずだという確信と、危険な森にいるという焦り。ようやく冷静になれと心に言い聞かせて、引き返すことを思い出した。
振り返った森の中に、目印の光はない。
「嘘だろ……そんなはずは……」
塗料の光を求めて歩き回るドニの目の前に、石の建造物が見えてきた。半ば樹木に呑まれていたが、人が造った生活の跡を見つけて安堵の息が漏れる。
「そういや、森には昔の建物があるって話だったな……」
ドニが生まれるよりも前、森で迷っていた叔父は、ある遺跡にたどり着いた。集落の入り口から反対方向へ真っ直ぐに進むと沢に出る。そこから下流へ行き、森の外にある村に到着したと語っていた。
アルトロワに帰れるということが分かり、ドニは安心した。沢の下流にあるという村のことは全く知らないが、どうせリール領のどこかだろう。人がいるところへ出られる。迷っていた言い訳は歩きながら考えればいい。
安心した反動で気持ちが大きくなったドニは、初めて見る遺跡に目を向けた。叔父に聞いていた建物群とは、少し印象が異なっている。
「住居跡って言ってたような……?」
等間隔に並ぶ柱の先に崩れた壁が見える。時間の経過で他の建物は森に呑まれたのだろうか。それとも叔父とは別の方向から迷い込んだのか。
叔父が語っていた入口とは、どこなのか。
ドニは見えている建物に近づいた。元は大きな建造物だったらしい。几帳面なほど真四角に切り出された石が壁を構成している。崩れた場所から中へ入ると、広い空間がドニを出迎えた。
内部は地面に生えた光苔に照らされ、ランプが無くても十分なほど明るかった。ドニが知っている苔よりも光が強い。
光苔に照らされた壁には、色鮮やかな絵が一面に描かれていた。人々が何かを崇め、赤い果実のようなものを食べる姿。強大な魔獣に立ち向かう場面。人の姿をした黒いものを追いやり、白い檻に閉じ込めている。苔の光が神秘的に、仄暗い恐ろしさを引き立たせていた。
ドニは他の壁画も見ようと、夢中で遺跡の奥へと進んでいった。
――領主はこの遺跡を知ってんのか?
危険な魔獣が出るからと、森の立ち入りを制限している。森の様子は猟師や自警団からわずかに聞くだけだ。なぜ調査をしないのだろうか。こんな人の心を動かすような壁画があるのに。
「森にこんなものがあるって領主に言ったら、罪が軽くならねえかな」
歴史的に価値があるものを見つけたら、良い意味で有名になれる。たとえアルトロワで認められなかったとしても、帝都へ行けばいいだけだ。
「そうだよ、別にリール領にこだわることなんて無いんだ。俺を馬鹿にした奴らを見返してやる。田舎で燻ってるなんて、どうかしてた。女だって、帝都の方がよっぽど」
ドニの意識はそこで途絶えた。




