数分の癒し
買ってきた野菜をカゴごと貯蔵室に入れ、リリィはまた家を出た。外にアランの姿はない。顔を合わせれば、また殴りたくなっただろう。しばらく会わないほうがお互いのためだ。
ユーグが絡まれていたところへ戻ったが、既に騒動は終わっていた。何事もなかったかのように閑散としている。顛末がどうなったのか、道を歩く人に尋ねる勇気が出せなくて、リリィは反対方向へ歩いた。
目的なく歩いているつもりだったのに、足は自然に郊外へ向いていた。そこに彼がいなければ、もう帰ろう。そんな気持ちでユーグがいるかもしれない家を目指す。
歩いているうちに怒りの感情は落ち着いてきた。
前回のように家の裏へ周り、裏口から中を覗く。いま一番会いたかった人物は、薄く切った木材を点検している最中だった。考え事をしながら選別している横顔は、真っ直ぐな本来の性格が現れている。
「リリィ?」
こちらに気が付いたユーグは、予期せぬ来訪を喜んで微笑んだ。心から嬉しそうな様子に、リリィは胸が苦しくなる。
「……僕のことで何か言われた?」
顔に全部表れていたのだろうか。ユーグは木材を置き、リリィを家の中へ招く。一つだけ置かれていたイスに座らせると、リリィの右手を見下ろした。
「赤くなってるよ」
リリィの前で膝をついたユーグは、優しくリリィの右手をとった。どこからか濡れたタオルが出てきて、リリィの右手に当てられる。水を含んだタオルは冷たく、痛みを感じていた手に心地よい。
「……感情で動くと良くないわね。アランにあなたのことを悪く言われて、言葉じゃなくて手が出てた。まだ痛いわ」
「拳で殴るところが君らしいよ」
理由を聞いたユーグは苦笑した。
「女の子らしくないって、よく言われる」
「他人が勝手に押し付けてくる『女の子らしさ』より、そのままのリリィの方が好きだなぁ」
ユーグはさらっと口説くようなことを言ってくるから困る。わざと惑わせるために言っているのではなく、思っていることが表に出てきただけだ。受け取ったリリィが勝手に解釈しているだけで、相手に翻弄する気がないことは分かっている。
「リリィ」
冷やしている右手に視線を落としたまま、ユーグが名前を呼んだ。
「な、何?」
「いくら言葉を尽くしても、人は聞きたいことしか聞こえない時があるんだよ。受け入れてもらうには、行動で示すしかない。時間はかかるけどね」
「それ、噂のこと?」
「根も葉もない噂を流している人よりも、僕を信じて黙っている人の方が多いよ」
「でもその噂を信じて絡んでくる人もいるでしょ? さっきみたいに」
「見てたの?」
リリィはユーグの手からタオルを取った。右手を膝の上に置き、その上からタオルを当てる。
「路上で絡んできた奴らなら、ちょっと拳で話し合ったら理解してくれたよ。心配しないで」
「逆に心配になるわよ」
それはつまり平和な話し合いでは解決できず、殴りかかってきた男達を返り討ちにしたということだろう。どちらに非があるのか、見物人が証言してくれることを願うしかない。
「ただ、兄貴って呼ばれるようになったのが悩みかなぁ。止めさせたいんだけど、いいアイデアない?」
「自業自得っぽいし、甘んじて受け入れたら?」
喧嘩を経てどう彼らが理解したのかは不明だが、今後は迷惑な絡み方をしてこないことだけは確定しているらしい。体育会系に好かれやすいユーグは、他人事のようにムサい舎弟は嫌だとぼやいていた。荒事に発展したものの、ユーグには怪我が見当たらないようなので、リリィは少しだけ安心した。
「信憑性がない噂はすぐに消えるよ。だから僕から言うことは何もない。ただ誠実に行動するだけだね」
これは自分の問題だから手を出さないで――そう遠回しに言われた。
回り道をしているようだが、きっとこれが一番良い方法なんだろうとリリィは思う。結局は一言で事態が変わるような『魔法の言葉』など無くて、信頼を一つずつ積み上げていくしかない。
ユーグは少し迷ってから、真剣な顔でリリィを見上げた。
「……もしこのままダメだったら、僕と一緒に逃げてくれる?」
「うん。他の領でも外国でも、一緒にいられるならついていく」
「じゃあもう少し頑張るよ」
リリィが即答すると、ユーグは真面目な表情を崩して照れたように微笑んだ。視線は逸らされてしまったけれど、答えたリリィも恥ずかしくなってきたので助かった。
全てを捨てて自分だけを選んでほしいなんて、断られても仕方がないことを聞くなんて珍しい。それだけ心を開いてくれたのだと自惚れてもいいのだろうか。ゆっくりと変わっていく心の距離が嬉しくて、くすぐったい。
沈みがちだった気持ちは、たった数分の会話で回復してきた。
「アランには殴ったことだけ謝っておくわ」
「締め上げるのも程々にね。幼馴染なんでしょ?」
「間違ってはいないけど……親同士が仲が良いから交流がある感じかな。アランよりもアニエスの方が幼馴染って言葉に当てはまると思う」
「……眼中に無さすぎて、むしろ同情するよ」
ユーグの呟きは小さすぎて聞こえなかった。
「何か言った?」
「アニエスって製菓店の子だったよねって言ったの」
「そう。学校に通い始めてから知り合ってね、そこから仲良くなったの」
何かを誤魔化されたような気もするが、リリィは深く考えずにアニエスのことを話した。聞き上手なユーグとはもっと同じ時間を共有したい。だがお互いに仕事ややるべきことを抱えているため、リリィは会話を切り上げて帰ることにした。




