見えない悪意
早朝の森は静かだった。
少年は初めて仕掛けた罠を確認したくて仕方なかったが、父親の言いつけを守って入り口で立ち止まる。もし怒られるようなことを仕出かせば、二度と猟に連れて行ってもらえないから。そんな目先の損得を考えていた。
アルトロワでは子供は森へ入れない。だが十二歳になれば、親と一緒なら入ることが許される。昔の慣習――父親もまだ生まれていない頃は、十二歳から成人だった。今は十八歳へと引き上げられたが、森での決まり事だけは、何年経とうと変わっていない。
「森の恵みを分け与えて下さることに感謝を」
見えない何かに話しかけるように、父親が言った。小さな土の塊を森の中へと投げ、しばらく待つ。森の中で小動物が動いたのか、草の一部だけが揺れた。
「行こうか」
父親の声で、少年は我に帰った。前を進む父親の背中を追って、森の中へと入る。
「なぁ、今のは?」
「あれはな、森の精霊に許しを得るためにやるんだ」
「精霊……」
少年は教会の周囲にいる草や花でできた人形を思い出した。人が来ると逃げてしまうが、天気が良い日は日光浴をしている。あんな無害な生き物に対して『許し』が必要なのだろうか。
「精霊ってのは、本当は怖いんだぞ。教会にいるのが無害に見えるだけで、人間がどうこうできるようなもんじゃない」
「ミケーレ司祭は普通に話してるけど」
「司祭は精霊のことをよーく知っているから話せるんだ。精霊は動物でも人間でもない。自然そのものだ。精霊が嫌がることをすると、俺たちなんて簡単に殺されるんだぞ」
分かるようで分からない。家でも学校でも精霊の話はよく聞くし、文字の練習に精霊の話を書き写したこともある。だがやはり身近にある脅威と言われても、今ひとつ想像ができなかった。
そんな少年の気持ちを理解して、父親は話を続けた。
「もしお前が精霊が宿る木に火を付けたとする」
「うん」
「そうしたら、精霊はお前を川の底に沈めるだろうな。もしくは嵐をおこして家ごと潰すかもしれん。そういうことが出来るぐらい、強いんだ」
信じられない――そう言おうとした少年は、誰かに見られているような気味の悪さを感じた。もちろん自分と父親以外には誰もいない。
「だが、ちゃんと敬意を払っていれば、精霊は恵みを与えてくれる」
父親は気が付かないのか、森の奥へ進んでいく。
「獲物を獲りすぎない、火を付けない、植物を必要以上に傷つけない。簡単だろ?」
「う、うん」
精霊は人の前に現れることは珍しい。それは人に見える形になることが珍しいのだと先生が言っていた。
――見えないだけで、周りにいるんだ。
少年が精霊を不快にすれば、何倍も大きな力で仕返しされる。書き写したのは、水の精霊を蔑ろにして湖の底に沈んだ国の話だった。想像の話だと思っていたけれど、現実にあったことかもしれないと少年は思い始めていた。
風で揺れる草木の音が誰かの話し声に聞こえた気がして、少年は慌てて父親を追いかけた。
*
朝の冷たい風に乗って、ひそひそと囁く声が聞こえてくる。彼らの目線は畑に固定され、夜の間に起きた変化について、勝手気ままに憶測を立てていた。
畑の土には赤黒い血が撒かれていた。芽を出し始めた麦にも、べったりとこびりついて固まっている。水をかけた程度では落ちないことは明らかだった。
農道に近い場所には、魔獣の死骸が三体、放置されていた。特に強い個体ではない。簡単な罠で捕まえられるような種類だ。猫よりも大きなネズミで、農作物を食い荒らしていく。農家なら誰でも知っている害獣の一つだ。撒かれている血は、おそらくこのネズミのものだろう。
畑には人間の足跡も残されていた。犯人は畑の上で魔獣の首を切り、そのまま歩いて荒らしたようだ。
「酷い……」
同情するような言葉には、自分の畑でなくて良かったという響きが含まれているような気がした。
リリィがそれを聞いたのは、工房を開ける準備をしていた時だった。誰かの畑が荒らされていると近所から連絡があり、父親のテランスと共に自分の家の畑を見に来た。リリィの家が所有している畑に異常はなく、近隣の畑も無事だ。では誰のかと不思議に思っているところに、被害に遭った場所が判明した。
最も町から遠い、新しく開墾されたばかりの畑。領主がユーグに命じて作らせたところだ。
「わざわざ魔獣を捕まえたのか。ご苦労なことだね」
暖かい風が頬を撫で、ユーグが現れた。転移の魔法で来たのだろう。特に何の感情もなく畑を眺めている。
急に現れたユーグを見て、噂をしていた人々は静かになった。
「ええと……ユーグ、片付けるなら手伝うが」
気遣わしげに、若者の一人が声をかけた。怒ることも悲しむこともしないユーグの反応が読めず、周囲は遠巻きにしてる。
「片付けるって……僕の畑じゃないからなぁ」
「えっ? だって、ここはお前が耕してたじゃないか」
ユーグの言葉に驚いていたのは、若い人が多かった。他所から移住してきた者や、その家族は知っていたらしい。不安そうに『正当な持ち主』について教えあっている。
「僕はまだ領民じゃないから、土地を所有できないんだよ。ここは領主様の命令で開墾しただけ。だから、この畑は領主様の持ち物だね。僕のじゃない」
移民についての法律を知らなかった見物人の顔色が変わった。領民なら手続きをして審査に通れば、一部の土地を所有することができる。だが移民には数々の制限があり、土地の所有もまた認められていなかった。
生まれた時から領民としての恩恵を受けている者が、知らないのも無理はない。自分には関係ないと思っていることを、興味を持って調べようと思う者は少ないのだから。
ユーグは集まっている人の顔を盗み見て、犯人がいないか探っているようだった。不自然にならない程度に声を大きくして、所有者について説明したのは、このためだったのだろう。
一通り観察し終えた藤紫色の瞳が、町へと続く農道で止まった。人々が釣られてそちらを向くと、小さな人型の何かに手を引かれて、教会の神父が走ってくるところだった。
奇妙な人型は神父が転びそうになると、体を抱え上げて畑に向かってくる。ただならぬ様子に、集まった人々は道の端に避けて彼らを通した。
人型に連れて来られたのは、アルトロワの教会長を務めるミケーレ司祭だった。高齢の域に差し掛かってる穏やかな司祭は、人型から降ろされると膝を震わせて地面の上にへたりこむ。
「ミケーレ司祭? だ、大丈夫ですか?」
「い……生きてます、まだ……」
近くにいた中年の男が声をかけると、神父は首から下げた教会の紋を握りしめた。運ばれている最中に叫び声を上げなかったのは、聖職者としての意地だろう。
ミケーレ司祭を誘拐する勢いで連れてきたのは、雑草を寄せ集めたような外見をしていた。大きさはリリィの膝までしかなく、頭の部分に顔はついていない。ただ動作が大きいので、言いたいことは何となく伝わってくる。アルトロワに住む者なら、これが植物の精霊が顕現した姿だと知っていた。
精霊は運んできた司祭の体調など全く気にせず、畑を指して何かを訴えている。荒い呼吸をしつつも耳を傾けていたミケーレ司祭は、ようやく顔を上げて畑を見た。
「これは……誰がこのような酷いことを?」
立ち上がったミケーレ司教が周囲に問いかけるが、誰も答えられなかった。
司祭は精霊の通訳として連れて来られたようだ。他に領主の妻であるモニカも精霊と言葉を交わすことができるが、そちらはあまり知られていない。人間の事情を考慮しない精霊がミケーレ司祭を選んだのは、単に教会の方が畑に近かったからだろう。
精霊は怒りを表すように身体中の雑草を逆立て、汚された場所の近くをうろついている。だが次第に動きが鈍くなり、項垂れてしまった。ユーグがそっと精霊の頭を撫でると、精霊は彼に抱きつく。
「ユーグも精霊の言葉が分かるのか?」
最初に話しかけていた若者が問いかけると、ユーグは否定した。
「分からないけど、身振りで何となく。この子は、ここがまだ荒野だった時からいるからね。誰よりも思い入れがあるんじゃないかな」
ユーグが精霊を抱き上げて背中を軽く叩いていると、本当に泣いている子供のように見えてきた。
気まずい空気が流れる中、馬の軽快な足音が聞こえた。馬に乗った領主と訓練顧問のジルベールが、農道を通って向かってきている。連絡を受けて見に来たのだろう。リリィを含めた領民は、畑から離れた。
「詳細は?」
到着したフェリクスは、馬から降りるなりそう言った。
真っ先に動いたのは精霊だった。ユーグの腕の中から飛び降りると、領主に走り寄って何かを訴える。遅れてミケーレ司祭が言葉を通訳していく。続いて最初に発見したという領民に話を聞いたフェリクスは、不安そうに事態を見守っている領民へ向かって言った。
「一日、待つ。心当たりがある者は名乗り出ろ」
領主はそれだけを告げると、ジルベールに後を任せて帰っていった。
貴族らしい感情を表に出さない振る舞いは、かえって領民の不安を煽った。犯人が明らかになることと連動して、犯行を防げなかった自分達にも何か罰があるのではと疑っている。
冷静に考えれば、フェリクスの性格ならそんなことはあり得ない。だが平和な日常を脅かすような事件が起きたせいで、また別の『あり得ない事』が連鎖していくような錯覚に陥っていた。
「誰でもいい、手伝ってくれないか」
後片付けを任されたジルベールは、馬の背中から麻袋を下ろしながら呼びかけた。すぐに何人かが農具を取りに動く。リリィがユーグの姿を探すと、すでに手袋を付けて死んだ魔獣を拾い上げていた。
「リリアーヌ、俺たちは帰ろうか」
「……そうね」
人手は十分なほど足りている。ずっと黙っていたテランスに促され、リリィは工房へ戻ることにした。
「まさか領主様の畑に……」
「知らなかったとはいえ……」
町へ帰る人の流れに乗っていると、細々とした囁き声が、どこからともなく聞こえてくる。
「誰が――」
やはりユーグに対する嫌がらせだったのだろうか。誰も口にしなかったが、犯人の狙いだけは皆が感じていた。
「リリアーヌ、勝手な噂に流されるなよ」
心の不安を見透かすように、テランスがリリィの肩に手を置いた。
「今の段階で犯人を憶測しても意味がない。何で、誰が、何のために。どれもやった本人しか知らないんだ。ただの想像で悩むのは馬鹿げてる」
テランスは少しだけ間をおき、前を向いて無愛想な口調で続ける。
「それに、あいつはこんな嫌がらせで潰れるような奴じゃないだろう?」
「うん、そうだね」
案外、卑劣な行いに怒っているのはテランスかもしれないとリリィは思った。
父親の出身はタルブ帝国だが、故郷を魔獣に滅ぼされてリール領に流れ着いた過去がある。だからこそ移民の苦労を知っているし、元からいた住民と衝突しないよう、相当気を遣っている。
リール領は移住者に対して寛容だ。リリィが覚えている限り、こうした嫌がらせは聞いたことがない。
――ユーグはたぶん、この手の対応には慣れている。
あの時のユーグは、リリィが知らない顔をしていた。自身が放つ言葉の影響力を生かし、冷静に敵と味方を見極め、どう立ち回れば有利になるのか思案する策士だ。幾重にも策を巡らせ、自身が動かずとも敵が自滅するよう誘っている。
そこに感情はない。
当然ながら、敵に対する慈悲もあるわけがない。
終わりへ向かっている敵を、上から眺めているだけ。
あれが実家にいた頃の彼なのだと、ようやく知った。
狡猾であるほど喜ばれ、先回りするほど受け入れられ、けれどそれを悟らせないよう望まれる。
リリィは、ユーグにあんな顔をさせる犯人がいることが、ただ憎かった。




