現状1
リリィは新たに開墾された畑を見回した。
先日まで荒地だったはずの場所には、今すぐにでも種を蒔けそうなほど柔らかい土が盛られている。開墾した本人の性格を反映したかのように、綺麗な長方形の畑が二つ並んでいた。
「これ、貴方が耕したの?」
新鮮な土の匂いがする。リリィが隣を見上げると、晴れやかな笑顔でユーグが答えた。
「うん。開墾したら、一部はお前にやるってフェリクスが言ってくれたから。でも耕すのは精霊に手伝ってもらったよ。だから全部とは言えないね」
簡単に言うが、畑の大きさは平均的な農家の耕作地よりも広い。豪農ほどではないが、真面目に手入れをして作物を育てれば、余裕を持って暮らしていけるだけの面積がある。畑のすぐ側には用水路も設けられ、開いた水門から綺麗な川の水が流れ込んできていた。
水門や耕作地を広げることは、去年から出ていた話だ。ただ手付かずだった荒野を開拓して畑にするには時間がかかるため、今年は土壌の調査と測量だけに留めると聞いていた。ユーグがこの町へ来たことで、計画を前倒しにしたらしい。
「……耕作地の選定は領主の判断だからね。僕が勝手に範囲を決めたわけじゃないよ?」
リリィが疑問を口にするよりも先に、ユーグが言う。
「今週はあと二箇所ほど開墾して、そこは作物の試験場にするらしいね。この地で収穫できる農作物を増やしたいって」
「特産品を増やしたいってこと?」
「いや、そこまでは期待してないみたい。食料の種類を増やして、麦が凶作になっても領民が生活できるようにって。そういえば麦の品種改良もしたいって言ってたっけ」
耕作地はまだまだ増えそうだ。領主がユーグに命じて開墾させたなら、文句を言う住民はいないだろう。その報酬に広い畑をもらったとしても、これから増える面積を考慮すれば少ないほどだ。
ユーグは自分のものになる予定の畑を眺め、のんびりと今後の予定を立てている。
「今の季節ならヘラ麦しか植えられないなあ。本格的に農業をするのは、まだまだ先になりそう」
ヘラ麦は秋に種を蒔いて、春の終わりに収穫する。人が食べる麦ではなくて家畜用として流通している種類だが、病気に強くて栄養が少ない土壌でもよく育つ。収穫した後に土と根をよく混ぜると、痩せた土地にわずかに栄養をもたらしてくれる農作物だ。
他にも土を良くしてくれる植物はある。だがヘラ麦の種籾は安価で手に入るため、家畜を扱うこともある農家には最も身近な作物だった。
「今から種を蒔くの?」
「もう蒔いたよ」
「もう!?」
あっさりと告げるユーグに、リリィは驚いた。
種蒔きの時期としては正しい。むしろ少し遅いぐらいだ。広い土地を一人で管理できるのかと思っていると、ユーグは大丈夫だよと告げる。
「色々と反則技を使ってるから、一人でも維持できるよ。新参者が好き勝手にしてると思われるだろうけど、僕がちゃんと結果を出せば認めてもらえるだろうね」
穏やかに、静かにユーグが語る。
冷たくなった秋の風がユーグの薄灰色の髪を乱した。陽の光に当たると銀髪にも見える、不思議な色だ。
リリィを見下ろす視線は優しくて、いつも心を動かされる。彼の顔立ちが整っていることもあるが、やはり前世からの縁のせいでもあるのだろうとリリィは思っている。
ユーグが初めて町に来たときは、本当に大騒ぎになった。現れるなりリリィに求婚したことが主な原因ではあるが。
貴公子然とした容姿なのに、気取ったところは全く無い。己のことは深く語らないが、それすら魅力の一つと思わせるような立居振る舞い。領主夫婦とは歳が離れているにも関わらず、古い知り合いであることも、ユーグの不思議さに輪をかけていた。
当然とも言うべきか、未婚の女性の中には彼の魅力に惹かれて声をかける子が現れた。彼女達によれば田舎の泥臭い男どもよりも、帝都から来たような洗練された彼と仲良くなりたいそうだ。
そのせいでリリィにはちょっとした嫌がらせをしてくるが、通過儀礼だと思って受け流している。嫌がらせといっても陰湿なものではなく、顔を合わせた時に一言嫌味を言ってくるぐらいだ。もともと素直な子が多い町なので、こちらから挨拶をすれば普通に返してくれる。
それに女の子の全員が敵ではないことが、気楽にいられる理由だった。彼に興味がない子もいれば、自分は相手にされていないと察して身を引いている子もいる。リリィの親友に至っては、あなたにもようやく興味を持てる男が現れたのねと、しみじみと言っていたぐらいだ。
一方で、ユーグの容姿に警戒していた未婚の男性や、年頃の娘を持つ父親は、彼がリリィ一人にしか興味がない様子を見て安心したらしい。初対面では刺々しい態度を取っていても、ユーグが気さくに接するうちに態度が軟化していった。
これが一ヶ月でユーグがもたらした混乱と変化だ。
たった一ヶ月。もともと移民が多い町だから、外から来た人間への抵抗感が薄い。とはいえ沈静化するにはあまりにも早い。リリィの負担にならないよう、ユーグが水面下で努力した結果なのだろう。人の心に敏感な彼は、どう行動すれば良い印象を与えられるかよく知っている。
ユーグは過去を語らない。前世のリリィと別れて再会するまで、どんな道を歩いてきたのか、全く想像がつかなかった。リリィのことは生きる希望だったと彼は言うが、死ねない呪いの類ではなかったのかと不安になる。
彼に再会したことで、リリィは前世を思い出した。こちらの世界に生まれてから十七年。女性として生きつつもどこか違和感があったのは、そのせいかと納得した。女の子の遊びの大半には興味が持てず、恋愛からは逃げ回っているような子供だったのだから。
――前世が男だったから? それともユーグとの約束があったから?
どちらも当てはまる。心のどこかで覚えていたのだろう。
前世を思い出すことは、幼少期を思い出すことに似ていた。ゆっくりと浮かび上がってくる記憶はどれも優しくて、もっと早い段階で取り戻したいと思ったほどだ。
前世の由利としての人生も、今のリリィとしての人生も、どちらも自分を構成する大切な要素だった。
「ユーグ」
リリィが呼ぶと、彼は幸せそうに微笑む。まるで透明人間が存在を知ってもらえたかのように。
ユーグの珍しい紫の瞳は、前世では藤紫と呼ぶ色だ。この世界に藤と呼ばれる花は無い。リリィがすぐに思い出せるよう、瞳の色や外見は別れた時から変わっていない。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「うん?」
予想外の質問だったようだ。ユーグは子供のように首を傾げる。
「リンゴだけ齧って、お昼ごはんにするのは駄目よ」
「えっ……そんなことしないよ?」
気まずそうに視線が逸れる。リリィの予想は当たったようだ。
ユーグは料理をしない。掃除も裁縫も完璧にこなすけれど、料理だけは苦手と言って避けている。それに放っておくと時間を忘れて仕事に没頭してしまうから、ますます食事が貧相になるのだ。
リリィは足元に置いていたカゴを拾い上げた。近くの森で木の実を拾った帰りに、様子を見にきて正解だった。逃げられないようにユーグの手を握る。
「どうせ、そんなことだろうと思ったわ。私の家に来なさい。一人ぐらい増えても平気だから」
「いや、そんな負担になるようなことは」
「いいから来なさい」
「……はい」
強い口調で言うと、ユーグはようやく頷いた。渋々と、けれど嬉しそうに。
リリィはユーグの手を引いて、新しい農道を歩いた。