檻の中で
リリィを捕まえた男の隣に、歪みが発生した。
空中に開いた隙間から、女が出てくる。赤い文字に埋め尽くされた顔と、左右で色が違う瞳。赤いドレスは先端へいくほど透けて薄い。腹の辺りには白い放射状の模様が入っている。病的なまでに細い手足で、リリィがいる方へ歩いてきた。
「女王陛下」
男が恭しく一礼した。
女王と呼ばれた女は何も答えない。
「怖いか?」
女王が口を開いた。感情がこもらない平坦さと、二重に聞こえる声は、ひどく聞き取りにくい。雑音が混ざるラジオに似ている。
「私が怖いか。恐怖は私の糧。お前が怖がるほど、私を強くする」
ふわりと女王の顔から文字が浮かび上がった。上へと離れていく文字を、女王は黙って見上げる。
「その檻は、嫌いだ」
女王はリリィの結界に触れた。彼女の両手が結界の魔力を奪っていく。少しずつ壁を薄くされ、リリィはポケットから手を出して結界の限界まで後ろへ下がった。
「悪くない魔力だ。されど私が求めるものではない。もっと恐怖を。逃げられないと悟ったお前の絶望が欲しい」
乾いた音をたてて結界が割れた。
「富嶽、お願い!」
手に握っていた紙に魔力を与えて、女王へ向かって放り投げた。紙はすぐに日本犬の姿に変化し、女王へと立ち向かう。
忠実な猟犬の仕事ぶりを確認する間もなく、リリィは逃げだした。結界が女王に効かないなら、一箇所に留まることはできない。富嶽が時間を稼いでくれているうちに安全地帯を見つけなければ、あの男のように取り込まれてしまう。
出口を探して走っていると、後ろから追いついた男に腕を掴まれた。振り払おうと抵抗するが、男の手は少しも動かなかった。
「女王の御前から逃げるとは、無礼ではないか」
「離して!」
「すぐに終わる。女王の力を受け入れてしまえば、その恐怖も薄れる。さあ」
男はリリィの腕を強く引いた。女王のところに連れて行かれたら、この男のように黒い獣にされてしまう。自分の意思が消えて、ただの道具になる。意味も分からず誘拐されて、こんなところで終わりたくなかった。
リリィはポケットの中の魔石を握った。知っている魔法式の中で、攻撃性が高いものを選んで付与する。
「同じ手は通用しないと言ったはずだ」
投げつけようと振りかぶった手が動かなくなる。男は片手を変形させて、リリィの腕に巻き付けた。リボンのように長くなった手は、魔石ごとリリィの手を包んでいる。
魔石はリリィの手から取り上げられ、白い床の上に転がった。
男はリリィの顎を掴んで上向かせた。
「諦めないのか。その目は非常に好ましい」
「触るな。お前みたいな犬は嫌いだ」
思いっきり睨みつけてやったが、震えた声は隠しきれなかった。
面白いものを見つけたと言わんばかりに、男の口角が上がる。ゆっくりと顔を近づけ、優しい声音で囁く。
「あと少し、何をすれば心が折れる? このまま顎の骨を砕いたとしても、涙は見せてくれないのだろう?」
男の手が顎から下へと移動する。
首をなぞり、鎖骨に指先が触れて、消失した。
「な――」
リリィと男の間に割り込んだ影が、手にした刀を振るう。男は胸から黒い煙を撒き散らし、後ろへ退がった。
「リリィ。遅くなってゴメン」
荒く息をするユーグがリリィの肩を抱き寄せた。右手で握った刀は切先を男に向けている。ここへ到着するまで、どんな無理をしてきたのか。袖に切られた跡があった。
「遅い」
「ごめんね」
少し強めに頭をなでられた。温かい手に安心して、視界がにじむ。
言いたいことは他にもあるのに文句しか出てこない。全力で探しに来てくれた相手には、もっと相応しい言葉があったはずだ。けれど口を開くと弱音しか言えない気がした。
「下がれ、呪物」
女王が手で宙を薙ぐと、富嶽が犬らしい悲鳴をあげて紙に戻った。引き裂かれて花びらのように無惨に散る。
邪魔者を片付けた女王はこちらを指差して、真っ赤な唇を開く。だが呪文が発せられる前に、飛来した衝撃波で中断を余儀なくされた。
「せっかくの再会に無粋なことをするな。獣の女王」
どこから現れたのか、女王とリリィたちの間にフェリクスがいる。剣を肩に担ぐように持ち、油断なく女王と男を見ている。
そっと離れたユーグがリリィにコートを羽織らせた。リリィはようやく自分の体が冷えていることに気がついた。暖房がきいている工房から外へ連れ出されたため、防寒具は一つも身につけていない。
ユーグはリリィが袖を通すのを見てから、優しく頬に触れてきた。目を合わせるように軽く上向かせる。
「待っててね。すぐに終わらせるから」
分かったと言おうとしたら、キスで口を塞がれた。軽く触れるだけで離れ、そのまま振り返らずに行ってしまう。
その場に残ったリリィのところには、ユーグが新たに作った富嶽が現れた。焦茶色の犬は同じ色の目でリリィを見上げ、温かい毛皮を押しつけるように寄り添ってきた。




