現れた異形
何かが結界に跳ね返された。教会にいたベルトランは、確かに空気の振動を感じた。教会の魔法に詳しくないベルトランにも、異常があったと分かるほどの変化だ。
近くにいた僧兵たちは言葉にしなかったものの、表情を強張らせて佇んでいる。
アルトロワの聖堂に集まった聖職者たちは、アウレリオを筆頭に町全体を覆う結界を張り巡らせていた。複数人で協力しなければ維持出来ないらしく、ミケーレ司祭の他にも魔法が使える聖職者が参加している。法国の行政府から派遣されたセレスティノだけは、別件でどこかへ行ってしまった。
「魔力の根源と思われるものが、結界の外に出現しました」
防壁にいる僧兵から、魔法で連絡を受けた聖職者がアウレリオに報告した。
「やはり来たようだね。もう少しで結界の修復が終わる」
ミケーレ司祭が結界の現状を告げた。
「諸君、気を抜くな。一度弾かれただけで諦める相手ではないと思いたまえ」
アウレリオがそう言った直後、聖堂全体が軋んだ。聖職者の中には苦しげな声をあげる者もいる。まだ若く、大規模な魔法の行使に慣れていないようだ。
「聖槍の充填は?」
「完了しました。いつでも行使できます」
結界の維持とは別の場所で動きがあった。アウレリオは結界の統制をミケーレ司祭に一任し、祭壇により近いところへ歩いていく。
――どれくらい要る?
敵のところへ向かったユーグの言葉が脳裏をよぎる。
獣の魔力が残っているとセレスティノから報告されたアウレリオは、結界が必要だと領主に進言した。アウレリオの頭の中にどれほどの数の未来が予測されたのかは不明だが、わざわざ主張してきたことを無視できない。彼の博識さと魔法の腕は突出しており、誰も反対意見をあげる者などいなかった。
領主の許可が出るなり、聖堂内部に結界を構築するための魔法陣が作られた。アウレリオによると、古い時代に建築された聖堂は、それ自体が魔法の効果を増幅させる役割があるという。ザイン教会が迫害されていたころに、各地で身を守るために建てられた名残だそうだ。
――聖堂を利用したら、帝国中に大規模な攻撃魔法を放てるってことだよな。
もちろん帝都にも古い大聖堂がある。幸いだったのは、このことを知っているのは、ほんの一握りの聖職者だけだということだ。魔法式だけでなく、媒体に使える物質や魔法に適した地形、効率がいい魔力運用などの複合的な知識も必要になる。またそれらを知っていても、共に魔法を行使する仲間との相性も関係してくるらしく、統合して運用する腕も問われる。
そう好意的に解釈しても、喉元にナイフを向けられている気分だった。
ベルトランは背負っていた剣を肩から下ろした。
聖堂の入り口に近いところには、元騎士だという自警団員も数人立っていた。結界は町の防衛で最も重要。獣に取り憑かれた人間が、トリスタンの他にいてもおかしくない。どこから攻め込まれても守りを維持できるよう、聖職者の護衛には気を遣っていた。
守るための戦いなら、騎士団長だったジルベールの方が向いている。だが彼は前線になりそうな防壁に詰めている。領民の気質をよく理解しているため、どうしても彼以外には頼めない。
もし帝国政府の許可が必要になる事態が起きたとき、上皇がいれば時間を短縮できる――フェリクスはそう言って、ベルトランに聖堂の警備を頼んできた。それに教会に不穏な動きがあっても、あなたなら対処できるでしょうと。
今ベルトランが持っている剣は、フェリクスが持っているものの本科。任意の魔法を封じたり隠蔽することができる。万が一、どこから敵が来ても魔法陣は守れるはずだ。
とことん自分を使うつもりの領主に、ベルトランは面白さを感じていた。今まで自分を戦場の駒として扱った者はいない。国民を率いてきた立場から、使われる立場になった。この歳になっても新しいことを体験できるとは、長生きはしてみるものだ。
祭壇に乗せられた魔石の一つ崩れた。魔力を失って、石としての形を保てなくなったようだ。まだ魔石の数は十分ある。アウレリオの見積もり以上に集められたそれは、ユーグが提供したものだった。
――どれくらい要る? 魔石なら、いくらでも出す。
防衛の結界には大量の魔力が必要と聞いて、ユーグは幼児ほどの大きさのものを出して聞いてきた。今までベルトランが見てきた、どの魔石よりも大きい。いったいどこで手に入れてきたのか。表情の変化に乏しいアウレリオですら、軽く目を見開いて沈黙してしまった。
「あとはあいつら次第か」
できる手は全て打った。戦いに専念できるよう、町はベルトランたちが守る。
全員で帰ってこいよとベルトランは聖堂の魔石へ向かって祈った。
*
荒野に女が立っていた。青白い皮膚の上を、魔法式らしき赤い文字列が動いている。赤いドレスは裾へいくにつれて透け、細い足がのぞく。艶がない黒髪が風になびき、銀と黒の目が見え隠れしていた。
「魔王の写し身に似ているな」
フェリクスが素直な感想を述べた。ユーグは心の中で同意しておく。
「森にいたはずだ」
女が口を開いた。二重に聞こえる不快な声だ。理解できる言語と、知らない言語が混ざっている。
「森にいたお前は誰だ」
女はユーグを見ていた。彼女が感じ取ったのは、偽装した道具。誘き出すための餌だ。だがユーグはそれを教える気はない。
結界を越えようとした敵を弾き、強制的に荒野へ転移させる作戦は上手くいった。現れたところを包囲し、戦力を封じるきっかけを探る。ユーグとフェリクスの他に自警団から選抜した人員は、女の動きに警戒しつつ距離を詰めていった。
「瞳を返せ」
黒髪をかき上げ、女は色違いの目を晒した。本来、そこには魔眼が揃っていたのだろう。右は眼球の代わりに炭よりも黒い塊がはまっていた。
「僕に聞いても知らないよ」
「されどお前は――の後継者」
名前のところは聞き取れなかった。何十にも重なる、特殊な発声法らしい。だが名前が抜けていても、ユーグは誰のことを言っているのか察しがついていた。
「違うよ。僕は後継者じゃない」
「――はどこだ」
「死んだ。いや、殺した」
「瞳はまだ潰されていない。生きているはずだ。どこへ」
ふわりと彼女の文字列の一つが空へ昇っていった。一文だけでも強い力を秘めている。あれが人へ向かって放出されたら、痛みを感じる前に蒸発してしまう。
「力が抜ける。憎しみが足りない。お前たちの心の拠り所をもらおう」
女を中心に空間が歪んだ。足元が引き寄せられる。黒いとしか形容できない魔力が押し寄せ、心がざわついた。
フェリクスが防壁へ向かって合図をした。間を置かずアルトロワの中心近くが発光し、空へ光の柱が昇る。
引き寄せる力が緩んだ。光の柱を見た女が手を空へ向ける。
ユーグは教会でもらった杭を投げつけた。異空間に収納していた杭は、投げる直前まで女に気づかれていない。柔らかい腹部に刺さり、蜘蛛の巣のように力が放射状に広がった。
叫び声を上げた女に上空から光の槍が降り注いだ。
上空には竜が旋回している。あの背中に乗っているのは、セレスティノだ。聖堂から出た力は放射状に広がってしまうため、上で屈折させて女に向ける役を買って出た。
女はトリスタンと同じく体の形を変化させて逃げようとした。だが背後から来ていた団員に、槍を刺されて動きが鈍る。
見た目はただの槍。何の強化魔法も付与されていない。だが森に自生する植物から抽出した毒素を塗っていた。魔獣の核である魔石を不活性化させ、体の自由を奪っていく。
上から竜が降りてきた。背中から飛び降りたセレスティノが女に駆け寄り、首から下げていた教会の印を向ける。呪文を唱えると、杭を中心に白い力が増えていった。
「返せ。あれは私の瞳だ。もう一つの瞳も奪う気か」
黒い目が砕け、女の体を赤く包んだ。セレスティノの力を駆逐し、槍で動きを止めていた団員が弾かれる。
どろりと溶けた体が地面に吸い込まれていく。
「絶対に、逃がさないっ」
セレスティノは空いている手で杭を取り出し、泥になった女に振り下ろした。白い力が復活し、大きく広がる。
「道が繋がりました! 敵はこの先にいます!」
「ありがとう。先に行くよ」
ためらう理由はない。ユーグは迷わず飛び込んだ。薄気味悪い魔力が全身をなでる。沈んでいく先に、より不快な力の気配を感じた。
――糸が。
リリィにつけた糸が、この先に繋がっている。まだ途切れてはいない。焦りそうな気持ちをこらえ、ユーグは黒い魔力の底に着地した。




