赤の女王
封印へ近づいてくる者がいる。
彼女はまどろみから覚醒した。
武装している。再び封印する気か、それとも自分を討伐するつもりか。
まだ体を取り戻していない。彼女は片目を手のひらで押さえた。えぐり取られて空洞になった眼窩には、真っ黒な石がはまっている。四肢を切り落とされても再生するのに、なぜか眼球だけは元通りにならなかった。
彼女は時間が動き始めたことを実感していた。
ようやく壁の向こう側に印を付けられた。あの新しい道具はよくやってくれている。知りたかった歴史だけでなく、詳しい地理まで得ることができた。ここから出て瞳を取り戻したら、再び王として君臨するために必要なことばかりだ。
ふと彼女の思考に遠い日の風景が混在した。
集められた神殿で、彼女は無理やり魔石を体内に入れられた。凄まじい力だった。魔石から発せられた熱が肉体を焼き、全身を巡る魔力が急速に再生しようとする。
痛みがない場所などなかった。どんなに泣いても死ぬことはなく。いっそ狂ってしまえば楽だろうに、心すら正常に戻される。そんな責め苦が何日も続き、突然、力の奔流が止まった。
これまでの苦しみが嘘のように、体から消え去っている。それどころか魔石を入れられる前よりも、力が漲っていた。大勢いた候補者は、わずか片手で数えるほどになっていた、と彼女は記憶している。
力を得た彼女は、魔力が見えるようになっていた。
あらゆるものは魔力が教えてくれる。攻撃してくるとき。守りが甘い場所。空間に漂う魔力に己の力を混ぜたら、知りたいものが伝わってくる。
彼女は強大な力を得たにも関わらず、利用される立場だった。命令された時に力を使い、用事が終われば神殿に閉じ込められる。
次第に彼女は、なぜ己が従わなければいけないのか不思議に思うようになっていった。ただの道具だった彼女は、魔力で世界が見えるようになって初めて、自我というものを得た。
だから外へ出た。
道具と人間の境界は、どこにあるのか。同じ胎から産まれても、格差はある。それらを決定づけている基準とは、誰が決めているのか。
彼女が自由になるには時間がかかった。人は相変わらず彼女を便利な道具として見ている。道具は収納場所に片付けておかないと、気が済まないらしい。
だから彼女も真似をして、面倒なことは全て力で片付けた。彼女を攻撃してくるものは敵だと魔力が囁いている。
あらゆることは魔力が教えてくれる。
彼女の力を思い知った者は、露骨に態度を変えて従うようになった。持てる財産を彼女の前に積み、都合のいい言葉を並べる。どうか力を貸してほしいと言い、面倒なことを押し付ける。
道具だった頃と違うのは、彼女に拒否権があることだけだった。
気ままに力を奮い、魔石を貢がせる。そんな変わり映えのない毎日だ。
いつの頃からか、彼女は赤い女王と呼ばれるようになった。魔石を摂取し続けた体は、魔力が表面を覆っている。赤い模様となって浮き出た力は、絶えず動いて彼女を守っていた。魔石を取り込めば色鮮やかに変わり、人としての何かを少しずつ失っていった。
彼女は名前など、どうでもよかった。ただ己の尊厳を蹂躙してくれた奴らを、今度は己が踏みにじるだけ。
――我慢は美徳ではない。感情を発露させることは生き物として当然ではないのか。ためらっている間に、世界は自分を踏みつけて栄えていく。潰された者のことなど気が付かないままに。
どうせいつか壊れる世界なら、私が壊しても良いではないかと彼女は思う。封印を解き、手始めにあの町から始める。
「女王陛下」
彼女の思考が中断された。
新しく取り込んだ人間が、図々しくも話しかけてくる。
「あの男は僕がもらいたい。あなたも僕も、知識が欲しい。なぜだか、彼を捕まえたら封じられた記憶の代わりになる気がするんだ」
彼女が生きていた時代は、記憶を封じることは罪人の証だった。罪を犯した者は己の所業を思い出せないまま、ただ責め苦を味わう。理由なき罰は心に刺さる楔。そうして罪人を正しい方向へ矯正する。
この男は、どんな罪を犯したのだろう――彼女は男の記憶をのぞいてみたが、厳重に守られた情報は、ほんの少しの欠片でさえ見つけられなかった。
「欲しいなら、道を開け」
彼女は命令した。
「お前が残した痕跡へ」
「仰せのままに」
男は優雅に一礼し、町への道を繋ぐ。
手足は己の一部。手足が見ているものは、彼女も見ている。けれど手足は彼女が見ているものを見ることはできない。
「どうか、彼は残しておいてもらいたい」
男はもう一度言った。
「好きにしろ。お前の興味は、この封印に近づいてきている。ここで待っていれば、いつか会えるだろう」
「ありがとうございます」
男が笑う。
彼のそばで、わずかに空間が揺らいだ。人間の流儀に従い、人質を持ってきたと得意げに言っていた。そんなもので、あれの後継者を動かせるわけがないと彼女は考える。
瞳を奪ったのは、狡猾で無駄がない敵だった。なす術もなく瞳を盗られてしまった。人間の情に訴えたところで、動揺する心など持っていないはずだ。
後継者の相手は最後だ。
彼女の肌に風が触れた。ほろほろと赤い文字が離れていく。
後継者は器の作り方を知っている。
彼女は崩れ始めている体を魔力で繋ぎ止めていた。
あいつの知識で新しい体を。
魂に残された情報から、人だった頃の体を再生して。そしてもう一度、魔石を取り込む。
「まずは絶望を」
赤い女王は手足が開いた道の中へ飛び込んだ。




