ひらひら
ひらひら……ひらひら、と。
冷たいものが、弱々しく、僕の顔を打つ。
鬱蒼と生い茂った木々、宵闇の曇天と溶け合い、境界を無くしたその枝葉の陰から、隙間を縫って……。
ひらひら……ひらひら、と。
冷たいものが――降り始めた雨が。
子供を背負い、足の痛みに耐えながら彷徨い歩く僕の顔を……打つ。
――マズい、と思った。
体調も悪く、本格的な装備はもちろん地図も無く、不慣れな山中で現在地も不明。
さらに子供連れで、日も落ちている。
ただでさえ遭難と言って良いような状況で、この上、天候まで崩れるとなると――。
ほーーら……
ほーーら……
……どこからともなく、そんな……風の鳴くような呼び声を聞いたのは。
恨みがましく、どこからが空かも判然としない頭上を見上げていたときだった。
――先生に案内されて辿り着いたのは、村の神社だった。
鳥居を潜り、その境内に入って、古くともなかなかに大きく立派な本殿からは脇に逸れ……さらに奥、鎮守の森との境界近くで、先生は足を止める。
そこは、もう今にも咲き誇りそうな桜の古木がいくつもあったけど……先生が言っていた『史跡』はそれじゃない。
ここまで来れば、僕にも何となく分かった。
――それを見て、真っ先に連想したのは、昨日お爺さんにご馳走になった草餅だ。
あんな風に……まるで並べられたお菓子のようだった。
そう、桜の古木の合間に、並べられた……土饅頭。
青々と苔むすそれらは――つまり、古い古いお墓だ。
「……これらは当時、疫病で亡くなった子供たちのお墓だそうだよ。
ただし、葬ったという記録はあっても、その個々人のことまですべてが明確に残っているわけじゃないから……。
もしかしたら、このうち1つ2つぐらい、人攫いにさらわれて行方の知れなくなった子供たちのためのものがあるかも知れないね」
ほぅぅーーーら、ほぅぅーーーら……。
ほーーら…………ほーーら…………。
一際強く吹いた風の音が、僕の耳を撫でていく。囁きかけていく。
雲が厚くなったのか、さらに濃くなった緑の陰りのその奥……。
土饅頭の合間に、僕は――小さな人影すら見たように思った。
そしてそれは、なにかを唄っている気がして……耳を澄ますと。
確かに、独特の調子で……韻を踏んで、同じような言葉を繰り返す唄が、どこかから――。
「ああ、これは……村の童唄だね。
君はもう忘れてしまったかも知れないけど」
一瞬、先生も、僕が垣間見たものを見たのかと思ったけど……。
そう言った先生が振り返った先、本殿の方には、何人かの子供たちが集まっていた。
どうやら、もともと村で生まれ育った子が、移住してきた家族の子供たちに、遊びがてら童唄を聴かせてあげているようだ。
もとは、この神社で使われている祝詞から派生したらしい――という先生の解説とともに、僕も記憶を掘り起こしながらそれを聴いていると……。
なるほど、災いが祓われるように――という願いが、頻繁に繰り返されているのが分かった。
疫病に人攫いという続けての災いに苦しめられた歴史が、そうしたところに表れているのかも知れない。
僕は……ふと感じた懐かしさもあって、子供たちにも話を聞いてみることにした。
また何かあったらいつでも、と言ってくれた先生とはここで別れて……一人、子供たちに近付く。
子供相手だからこそ、なおさら……。
へらへらと、不誠実にはならないように気を付けながら。
その上、警戒されたらどうしようか、とも考えていたけど……結局、それらは杞憂に終わった。
子供たちにとって、僕のような人間は珍しいからか、興味を持たれ……その上、幼い頃はここに住んでいたことを話すと、もともと人懐こい子たちらしく、すぐに打ち解けてもらえた。
――もっとも、肝心の話を聞く前に、遊びに付き合わされて……思った以上にヘトヘトになったけれど。
風邪で熱っぽいというのを差し引いても、子供はすごいな、と感心する。
そして同時に、僕らも昔、こんな風だったのかな……と。
おぼろげな記憶が、熱に浮かされた頭の中、形を取るようで――。
ああ、そう言えば……いたなあ。
いつもああして、木々の合間から、物陰から、僕らを見ている子が――。
……いつも? ああして……?
そんな子は――――。
いや、いた…………間違いない。
思い出の中には、確かに――いた。
あれは……誰だ?
いたのは間違いないのに、名前はもちろん、顔も姿もはっきりと思い出せない。
でも、それでも、その子がそうだと分かるというか……。
そう、さっき土饅頭の合間に見た気がする人影と、きっと同じで――。
――ほら! ほら!
思い出の光景と重なるような呼び声に、僕は思わず目を瞬かせる。
――気付けば僕は、神社の石段に子供たちと並んで座っていた。
ああそうだ、ようやく〈はらはら〉の話を聞かせてもらっていて……。
一番の年長らしい、元々この村で生まれ育った少年が、他の子たちにも話していたからか、みんな〈はらはら〉については知っていて……。
でもそれだけに、真新しい話は聞けなかったんだった。
やっぱりか、と思いつつ……ふと閃いた僕が、ずっと自分たちを見ている子がいたことはないかと、雰囲気だけを伝えるような、曖昧な表現で尋ねると……。
その年長の少年が――弾かれたように勢いよく立ち上がって言った。
知ってる!……と。
そして――。
もう遅いから、と僕が止めるのも聞かず。
最近、川で魚を捕ってるときに見た、そこまで案内する――と、元気に山の中に駆け出していったのだ。
……あるいはそれは、単なる親切心というよりむしろ――自分だけが見た『何か』を、共有してくれる人が現れたのが嬉しかったのかも知れない。
そしてきっとそれは、僕も同じだったのだろう。
だから僕は、他の子たちには帰るように言い付けながら、その少年を連れ戻すという名目で……後を追ったのだ。
あわよくば、その『何か』を『確かなもの』として、少年とともに認識したい――と。
だけど……それは、軽率だった。
まず年長者の僕が、慎重になるべきだった。
少年に追い付いた時点で、今日は引き返そうと諭すべきだった。
……焦るべきでは――なかったのだ。
結果、足を滑らせた少年を助けようと、僕も一緒になって山の中の急斜面を滑落し――。
今、気を失った少年を背に、日も落ちた中、半ば遭難状態で山中を彷徨い歩く羽目になってしまっているのだから。
ひらひら……ひらひら、と。
雨までちらつき始めた、その中を。
ほーーら……
ほーーら……
――風が鳴くような呼び声を聞いたのは……そんなときだった。
ふと、視線を向ければ。
木々の奥の暗がりに、明かりも無いのにそうと分かる――でもはっきりとはしない人影が見えた。確かに。
そしてそれは、呼んでいるのだ……間違いなく、僕を。
ほーーら……
ほーーら……
そう――ずっと以前。おぼろげな記憶の彼方。
幼い頃より耳に残っていた……あのときと同じ、呼び声で。
僕は、ふらふらと……引き寄せられるように、その招きに従った。
ほーら……
ほーら……
はっきりと見えずとも、手招いているのは分かる人影に呼ばれるまま、歩く。
下生えを分け入り、まっすぐにそちらへ歩き続ける。
人影との、一向に縮まらない差を、それでも埋めようとするように……必死に、前へ。
ほら……
ほら……
そうして無心で歩いていると……僕は。
幼い頃の思い出を、一つ、また一つと取り戻していくような気がしていた。
その頃にもきっと、同じようなことがあって――。
迷って、迷って……途方に暮れた僕は。
ほら、ほら……
そう、この呼び声に従って。
いつも見ていた――見守ってくれていた友達に手招かれて。
そして――。
――ほらほら……。
「…………あ…………」
……気付けば、呼び声は聞こえなくなっていた。
手招きも、見えなくなっていた。
――そして、僕は。
ひらひら……と、目の前に舞い落ちた白い花びらに顔を上げると。
そこは――今まさに花開く、桜の古木の合間。
苔むして並ぶ土饅頭のただ中。
見知った神社の境内に……立っていた。




