Crocus
あけましておめでとうございます。
新年最初が、まさかの短編です。
「別れてくれないか。」
その言葉に、柑奈はそっと目を閉じた。
わかっていたのだ。
ざわざわと賑わう昼時の、暖房むわっとした空気漂うカフェに、飲み物を適当に頼んだだけで座らされたときから。
目の前の彼が、気難しい顔でじっとテーブルを睨んだまま、なかなか言葉を発しなかったから。
ようやく上げたその瞳に、付き合ったばかりのあの頃にはあった熱情が、全く感じられなかったから…
柑奈の瞼が再び持ち上がったとき、男は彼女を探るように、そして決して譲らないという意思を表すように彼女を睨みつけていた。
胸の前で組まれた腕がまるで防波堤のように、彼と彼女との間を隔てている。
「そう…」
柑奈はその一言を述べた後、ゆっくりと目の前のカップへ口をつけた。
ほっそりとした指に摘まれた白く滑らかなカップが、ソーサーへと戻るときにカタリと音を立てる。
それに合わせるようにして、琥珀色に透き通る紅茶が小さくさざめいた。
「もうカンナとは付き合えない。」
何を考えているんだ。
そう訝しむ口調で、端的に事実を伝えながら、男は彼女を正面から睨みつけた。
そうすることで、もう修復不可能なのだとわからせようとする、そんな決意が男には滲んでいる。
柑奈は、その男の視線をただ静かに、真正面から受け止めている。
そしてその、薄紅色のふっくらとした唇がゆっくりと動く。
「わかったわ。」
ただそれだけだった。
それだけ言葉にした彼女の顔には悲しみも、怒りも、憎しみも、何も浮かんでいなかった。
限りなく無に近い静寂。
それが今、彼女の纏う表情である。
「…そういうところが嫌いなんだよ。」
男が苦々しく、今までの表情とは全く違う意味で皺を刻み、彼女から顔を逸らした。
その吐き捨てるような声は、先ほどよりも低くく掠れて聞き取りづらい。
「お前、俺のことが別に好きなわけじゃないだろ?俺が別れようと言ったところですぐに受け入れられるくらい、それほどまでに俺のことがどうでもいい。だから別れたいんだ。」
男はそう言うとゆっくりと、しかし自分の叱咤するように、柑奈に向かって視線を戻す。
それを受け止める彼女の表情は毅然として変わることはない。
こんなんじゃなかったのに。
男は、まだ付き合いはじめたばかりの頃の柑奈が浮かべた、恥じらうような笑みを思い起こしては虚しさに苛まれる。
あの頃は、俺たちはまだ幸せだったのに…と。
「…なんではっきり言わないの?」
凪いだ表情のまま柑奈が男に問いかけた。
そのアルトボイスは落ち着き払った、どこか淡白な印象を受ける、ひどくあっさりとしたものだった。
何をだ?そう男が聞き返す前に、柑奈はまた言葉を紡ぐため、唇を震わせた。
「私じゃなくて、他に好きな人ができたって、なんで言わないの?」
問いただすのではなく、本当にそのことを聞きたくなった、そんな口調で柑奈は男に言葉を向ける。
男はそれに動揺し、視線を少し揺らしたものの、改めて気合を入れるように眉間と肩に力を入れた。
強張った体が己を包む鎧のように、硬く男を閉ざしていく。
「それは別れようと思った決定打であって、その前から俺たちの気持ちは噛み合ってなかっただろ!」
自分の後ろめたさを隠したような、言い訳がましい言葉が、大きくなってしまった声によって店内に響き渡る。
さすがにその声で、彼らの険悪な雰囲気に気がついてしまっている者が何人もいるようだ。
チラッ、チラッと、不躾な視線が何度も近くのテーブルから2人の元へと注がれる。
「…責めてるわけじゃないの。ただ、"私にもう気持ちがない"と、はっきり伝えて欲しい…それだけなの。」
そこで柑奈はようやくその眉尻を緩めた。
気の強そうに見える猫目が和らぎ、寂しげな笑みを淡く浮かび上がらせる。
その陰りある美しい表情には仄かに色香が乗り、否応無しに人の視線をより集めた。
男も見惚れそうになるのをぐっと堪えるように、眉間のシワを強く刻み直す。
「あぁ、そうだよ…俺は、もうお前のことが好きじゃない。これで満足か?」
せせら笑うような悪どい笑みが、男の顔に歪に浮かんだ。
どんなに悪く思われようと、男はもう引くことはできないのだ。
なぜなら彼は、その新しい女と約束してしまったのだから。
彼女と別れると。
「えぇ…もう十分よ。」
柑奈が精一杯の笑みを作る。
その優しくも悲しく、美しくも壊れそうな表情は男が見てきたどの表情よりも、心揺さぶられるものだった。
彼女の下がりきった眉の下で薄く膜が張り、大きな黒い瞳が揺らめく。
無意識に、自分が唾を飲み込んだことに遅ればせながら男は気がついた。
それだけじゃない。
密かに自分たちを盗み見ていた誰もが、忍ぶことも忘れこちらに見入っていることも感じ取れていた。
しかし、そんなことには目がいかないと言う風に、彼女は彼だけを見て笑っている。
「沢山の思い出をありがとう…その女性とは幸せになってね。」
彼女はそう震える声ではっきりと言うと、すっと席を立った。
カツっ、カツっと、
いつもよりゆっくりと鳴るヒールの音に、男は思わず声をかける。
「カンナっ!?」
「…今更ごねるつもりはないわ。あなたを不幸にしてまで、あなたのそばにいたいと思えないから。」
彼女がゆっくりと振り返った。
亜麻色の細く、艶やかな髪がさらりと揺れ、現れた横顔は笑おうとして笑えない、そんな哀しく歪んだ表情をしていた。
そしてその絹のように滑らかな肌には一筋の涙が…
「ごめんなさい…もう行くわね。………好きな男に気持ちを否定されて、平気でいられるほど、私…強くないから……」
"さようなら"
その言葉は一瞬にして崩れ去るように小さく、でもはっきりと男の耳に届いた。
伸ばそうとした手をすり抜けるように、彼女は振り返ることもなく走り去っていく。
「………うそだろ……カンナっ!」
男の、失意に満ち溢れた悲嘆の声が虚しく響いた。
しかし、その男を周りの誰も直視することはできない。
何故なら気がついてしまったからだ。
彼女の涙を見た男が、
彼女の言葉を受け止めた男が、
たった1つの本当に大切な物を失ってしまったということに…
そしてそれはもう、
手遅れだということに…
表情の薄い、不器用な彼女(柑奈)と
彼女のことが好きだったはずなのに、不安と嫉妬からいろいろ見失ってしまった男(名前敢えてつけず)のお話。
クロッカス…花言葉、気になったら調べてみてください。