ゼノ
雨は先程と同じように凄まじい勢いで地面を打ちはじめ、それは京一の身体をみるみるうちに濡らしていく。先程のは幻覚ではなかったのかと思えるほどそれは非現実的で、しかし今京一を襲う猛烈な痛みは、それらが幻覚ではなかったのだと理解させる。
「やはり駄目だな。全く本来の威力が出ていない……これだけ淀んだ世界ならば致し方が無いか。天も、空気も、水も、何もかもが汚れている。よくこんな世界で生きていけるものだ」
女は横たわった京一を見下ろしながらそう言って、剣を腰に備え戻した。
まるでこれで終わりだと言わんばかりに。
「なん、なんだよ……あんた」
「何なのか。それを問うべきは私たちの方だ、アライエン。そして誤った虚構の世界を生きるお前達に、それを知る権利も、意味も何もない」
「虚構の、世界?」
「……何でも無い。貴様に話しても無駄な話だ」
くるりと反転し、女はゼノと呼ばれた少女の元へと再度近づいた。
そして小さな彼女の身体を大事そうに抱きかかえ、立ち去ろうとする。
「待てよ」
女を呼び止めるように、京一は立ちあがった。悲鳴を上げる全身を無理矢理起こして。
そんな京一を、女は冷たい雨のような目で振り返った。
「それ以上は止した方が良い。何の力も持たないアライエンに、これ以上の戦闘は致命傷になるぞ」
「そいつを、どこに連れて行くつもりだ?」
「関係ない。心配だとでも言うつもりなら安心していい。この子の帰るべき世界。つまり家に帰るんだ」
「あんたはそいつの何だ。母親か? それにしては若すぎるだろ……それにさっきから世界世界って……何を言ってるんだ」
「本当に何も知らないんだな。お前達アライエンは……幸せそうで何よりだ」
女はそう言って鼻で笑った。
「ふざけんな……警察呼ぶぞ。中二病にしても度が過ぎんだろ……」
「呼べば良い。しかしこの世界の住人ではない私にとってそれは何の関係も無いことだ。貴様がその警察とやらを呼ぶ事で、被害者が増えるだけ。それでいいなら呼ぶがいい」
女が片手の平を京一に向けた。その手には何も持ってはいない。しかしそれだけで、京一の身体が一歩後ろに下がった。何か、どうしようもない圧迫感が京一を襲ったのだ。
「そうだ。それでいい。訳も分からず、恐怖していろ。これ以上邪魔をするんだったら、私は貴様に手加減はしない。何より、お前達は知る必要の無いことだ」
「あ、けいいちっ。ふ、ふわわっ」
突如、白髪の少女が目をさました。今までどれほど大きく揺らしても起きなかったのに、少女はようやっと目をさましたようだ。少女は京一を見つけて喜んだようだったが、しかし自分が今抱きかかえられて宙にいると知り、慌てて身体をふらつかせる。
「ゼノ。大人しくしてくれ」
「ぐえ~なになに? はなせーこのハゲ!」
少女は、女の髪の毛をわしわしと引きちぎる。
「こ、こら! 暴れるなゼ――」
腕の中で暴れる少女を抑え付けようと女がそちらに集中した瞬間、彼女の横から大振りの拳が飛んできて、頬を捉える。女は少女を手放し、ふらりとよろめいた。地面に落ちそうになった少女を、京一がつまみ上げる。
「ぐえっ」
「ちょっと後ろで大人しくしてろ」
京一は少女を後ろへ放り投げ、青い髪の女へと向き直った。女は思いきり殴られたにも関わらずたいして効いていないようで、頬の当たりを少しだけさすって京一たちを見た。
「ゼノ……どうして? 私だ。ブラウだ。ブラウ=リュヒテインだ」
彼女の目は京一を捉えてはいなかった。彼女は必死に、うろたえるような目で少女を見ていた。
だが少女は不機嫌そうにその顔をそらし、
「しらん! けいいちっ、こいつ変な奴だぞっ!」
「お前が言うな」
自分にしがみつく少女を尻目に、京一はブラウと名乗った女を見る。
ブラウはぎりぎりと歯を噛み締め、何か悔しさをにじませている様子だった。
「って言ってるけど……あんた本当にこの子の知り合いなのか?」
「当たり前だ! 私がどれだけこの子を知っていると思う! 貴様なんかの何百倍も何千倍も同じ時を過ごしてきたんだ……それなのに、どうして……」
「わけありか?」
たずねると女は少しだけだんまりとして、ゆっくりと口を開いた。
「……少年。貴様は〝異世界〟という物を信じるか?」
「異世界……? そりゃあゲームとかアニメの中だったら当たり前のように出てくるけど」
「じゃあもし、私がその異世界人だと、そう言ったらどうする?」
ブラウの目は嘘を言っている目では無い。彼女は至って真面目に話している。だから茶化そうとする気持ちを、京一はぐっとこらえた。今はそんな状況ではない。それは明らかだった。
「冗談じゃないみたいだが……証拠は? あんたがその異世界人だという証拠はどこにある?」
「さっき見せただろう。貴様を攻撃した私の神術を」
「シン、術? さっきの雨を操ったのか?」
「雨を操ったのではない。万物に宿る神々の力を少し借りただけだ」
「ますますもって、ファンタジーの世界だな……じゃあその奇妙奇天烈な格好も?」
「ふんっ。私からすれば貴様らアライエンの方がおかしな格好をしている」
「さっきからそのアライエンってのは何だよ」
「貴様ら異世界人の事だ。〝外からの来訪者〝〝輪廻の外の者〟という意味がある」
「じゃあお前たちがアライエンじゃないか」
そう当然のように言ってみると、ギッとブラウは京一をにらみ付けた。
「……そうだ。ここでは私は異世界人だ。しかしこの世界は主軸世界ではない。あくまで派生した分岐世界でしかない」
彼女の言っている意味は、京一にはなんとなくわかる。そう言ったものが題材のテレビゲームや映画を目にしているからだ。
「どういう理由で決めつけるんだ? それはそっちの勝手な主観だろ」
「ふんっ。こんなにも醜く汚れた世界で、未だ異世界の存在も知り得なかったお前達が主軸世界だと言い張るつもりか? 滑稽にも程があるぞ」
その挑発的な言葉に、京一は少しばかりの苛立ちを憶える。
彼は口は達者だが、かといって我慢耐性がある方ではない。
「で、その主軸世界のブラウ様とやらが、小さな女の子一人追っかけ回す理由はなんだ? そんな危ないもん持って」
「危ない? これがか?」
ブラウは自分の腰に添えた剣を指して少しだけ肩をすくめた。
「この剣は【ユングフラウ】。由緒正しき神々の剣だ」
「何が神々の剣なんだよ。ただの凶器だろ」
「じゃあ私に斬られたお前の顔の傷はどうなってる?」
そう言われてようやく気付く。京一の顔に深く切り込まれた傷が――無い。
綺麗さっぱり無くなってしまっていた。血もすっかり消えていて、まるで何事もなかったかのようだ。
「な、どうして……」
「この【ユングフラウ】は生命の剣。命あるものは斬れず、命無きもののみ斬り裂く斬魔の剣だ。基本的には幻獣や精霊、ひいては悪しき神々を切り裂くためにしか使用しない。形ある者を切ったところで、貴様と同じように意味がない」
「まじかよ……」
信じられない、と京一は再度自分の頬をさすった。
確かに傷はない。それは認めるしかない。
「だが、例え命あるものを殺せずとも、痛かったろう? 切り裂く際の痛みは充分に伴う。一瞬で傷は修復されるがな。だがそれでも、充分牽制になる。こんな剣でも、首をはねればその痛覚のあまり死せずとも気を失う。試してみるか?」
「いや、いい……充分痛かった……」
いよいよ化け物染みている。そう確信し、京一は生唾を飲み込んだ。
先程までほとんど与太話程度にしか思っていなかったのに、彼女の話が真実味を帯びてきた。
ブラウは美しいその青髪をなでながら言った。
「この世界は確か地球、と言うのだろう? 私たちの世界は〝アインヴェルト〟と言う。自然が豊かで、そこに棲まう精霊や神々と共存し暮らしている温かい世界だ。人と自然は同列であり、我々は自然に生かされているという考えを基に、日々安穏と生きていた。が、残念ながら我々の世界にも悪はいる。自然を汚し、乏し、管理しようとする輩がいた。そう、この世界のようにな」
いつのまにか雨は小降りになっていた。もはや全身びしょ濡れの京一には関係の無いことだったが。
「我々はその汚れた悪党に対し刃を掲げ、その傲りを打ち砕こうとした。だがそれらの行いに、ついに神々は怒りを示した。勘違いし傲った人類を滅亡させ新しい生命の誕生を計ろうと神々は行動を起こしたんだ。その結果、世界中を巻き込んでの戦争となった。我々自然を愛し神々との共存を望む者と神々を利用し更なる文明の発展を望んだ者、そしてそれら人を全て無に返そうとする神との、言葉では言い表せない程の大きな戦争だ」
ブラウは瞳をゆっくり閉じた。彼女の脳裏には、様々な戦いの記憶が呼び起こされているのだろう。その言葉程度でわかった気になってはいけない、それほどの経験をしてきたのだろう。
「長い長い戦いの末、私たちは神々との和平をつかみ取った。自然を汚し、利用しようとする者が今後再び現れても、私たちは必ずそれらを討ち、自浄してみせると。神々はしばらく様子を見ようと約束してくれた。それまでは共存を続けようと……」
「壮大な話をしてもらっているとこ悪いんだが、それとこいつと何の関係があるんだ?」
京一はそう話を振り出しに戻した。
「その白髪の少女の名前は、ゼノ、と言う」
「ちがうよっ」
京一の足に顔を埋めながら、少女は即座に否定した。ブラウはそれをとても辛そうな表情で眺めていた。
「……わかった。それならそれでいい。とにかく、その少女は元々私たちの世界の住人だったんだ。それ故この世界に合わない服装と髪色をしているだろう?」
「確かに」
そう言われれば納得である。彼女は外国人でもなければ日本人でも無い。異世界人だったのだ。そう言われてみれば、彼女の服装とブラウの服装には共通点がいくつもある。
西洋染みていると言うよりは、ファンタジー染みていると言った方が正しいだろう。おそらく彼女らの故郷であるアインヴェルトは、京一らの世界で言うファンタジーのような世界観なのだろうな、と勝手にそう解釈する。
「三年ほど前だったか。私は彼女と出会った。その時の私は触れる者を全て切り裂いてしまうような、そんなとがった性格をしていた」
今もだろ、という言葉を飲み込む。
こういった要らぬ事を口挿みたくなるのは、彼の悪い癖だった。
「悪を悪と憎み、ただ闇雲に正義を語っていた。が、ゼノと出会い旅をするにつれて、私は善悪とは何かということを学ばされた。絶対的な悪など無い。それと同じく絶対的な正義など無い。私は何のために戦っているのか。どうすることが真の平和に繋がるのか。それを考えさせられる日々を経て、私は、いや私たちは成長し、そして神々と相対した。その後、無事アインヴェルトに平和が訪れ、私たちは訪れた平和を享受していた」
だが――と、ブラウは続けた。
「ほんの一年ほど前だ。毎日元気な姿を見せていたゼノが、消えた。いなくなったんだ。私たちの前から、突然。まるで今までの物語の終わりを告げるように。その子はまるで世界の混沌の始まりに現れ、そして混沌の終わりを見届けると消えていったようだった」
「お前、そうだったのか?」
「知らないよっ! けいいちっ! あれ頭おかしいよっ!」
おそらく少女も嘘をついているわけではないのだろう。彼女の目を見ればそれはわかった。しかしだとしても、まるで全く憶えていないというのもおかしな話だった。
だとすれば、やはりブラウという女の話が嘘だと言う線が濃くなる。
「私たちは必死にゼノを捜した。世界中を回り、手がかりを捜した。それでもゼノは一向に見つからなかった。神々に尋ねてもわからないと言う。まるで元々その世界にいなかったかのようだった。そんな失意の中、私の元へと奇妙な男が現れた」
「奇妙な、男?」
「ああ。奇妙な鎧を纏った男だった。男はその世界の人間とは異なった様相をしていて、彼は自分の事をこう名乗った」
「まさか、異世界人か?」
ブラウは頷いた。
「確かに彼の持つ能力は私たちのそれとは異なっていた。その男は私に異世界の話をしてくれた。実際、私たちの世界には異世界の存在を思わせるような記述がある書物も見つかっている。それ故、私がそれを受け入れるのにたいした時間は掛からなかった。そして男は、かつての自分の世界にもその白髪の少女がいたのだ、とも教えてくれた」
「!? ……じゃあこいつは二つの世界を渡り歩いてきたってことか?」
「そうなる」
京一が少女を見下ろすと、少女はぶるぶる、と首を振った。
「だから今回もまた別の異世界へと旅だったのだろう、と男は言った。彼もまた、いなくなったゼノを捜しているようだった。そうして私は異世界への道を独自で捜し始め、そうしてようやく見つけた。異世界への扉を」
ブラウは再度剣を抜いた。【ユングフラウ】と呼ばれるその神の剣が、京一にその切っ先を向けている。
「少年。私はお前に恨みは無い。そしてこの異世界、地球に対しても何の思い入れも無い。私が返して欲しいのは、その子、ゼノだけだ」
「ちがうっ! 名前は、えっと……えーっと」
「……悩んだ時点でもうバレバレだよ」
あまりの嘘の付き方の下手さに京一は落胆した。それでは相手をだますにもだませない。
京一は少女の頭にそっと手を添えた。
「で、当の本人はこんだけ嫌がってるけど、それでも連れていくのか?」
「もちろんだ。きっと記憶が混濁しているんだろう。私はあちらにいる時に彼女と約束した。争いで消し飛びすさんでしまった大地に草花を取り戻し、いつか一緒にもう一度旅に出よう、と。今度は争いなど一切しない、世界を見て回る旅をしようと」
彼女の目は決意の目だった。
それほどに決意は強く、確固たる信念でここまで来たのだろう。たとえ異世界などという話が嘘だったとしても、それでも彼女のこの少女に対する思いだけは本物なのだと見て取れた。
決して頭のおかしい変質者ではない、そう確信するには充分だった。
「帰ろう、ゼノ」
「待てよ」
だが、すっと京一が少女を守るように手を差し出した。
まだ身体がきしむ。できればこのまま家に帰って眠りたい。そもそも自分は基本的には物事に対して積極的な人間ではない。事なかれ主義だ。
だがしかし、このまま嫌がる少女を渡すわけにはいかなかった。
「残念だったな。こいつはゼノじゃない。〝キリカ〟だ。人違いだ」
「……何?」
案の定、ブラウは眉をひそめて京一をにらみ付けた。
「キリカ……? そんな名前はどこから出てきた。先程まではその子の事を知らない様子だったではないか」
「気になったからちょっと話を合わせて聞いてみただけだよ。そしたら何だ、異世界だのなんだのって……さすがにそんな頭の痛い奴は初めて見たぜ。アンバサダーより質が悪い」
「私が間違えるわけがない。それに、だとしたらこの世界にそぐわないその少女はどこの誰だと言うんだ?」
「俺の妹だ」