ぐえっ
やっと本編です。
「あー痛ぇ……」
十院京一はうなるように上半身を折り曲げた。
そこは暗くなった公園のベンチだ。
「何だ、喧嘩でもしたのか、兄ちゃん」
髭だらけの汚らしい口元を歪め、見窄らしい様相をしたホームレスの男がそう語りかけた。京一の周囲にはホームレスをしている男がちらほらと何人もおり、公園の真ん中では火を焚いているドラム缶を囲むように円になっていた。
「違うよ。これは、あれだ、まぁいろいろあったんだ」
京一は自分の脇腹の辺りを摩りながらそう言った。それは昨日、島子からのアンバサダー、祝部釵にやられた部位だった。京一は命からがらあの女から逃げたものの、何度か攻撃をヒットさせられたのだ。それが酷く痛む。
「あいつ絶対ネットで悪い噂流してやるからな」
「兄ちゃんもいろいろあるなぁ」
がはは、とホームレスらは快活に笑い、それを見て京一も苦笑した。
京一は以前から彼らと仲が良い。深い付き合いは無いが、こうして夜の集まりに参加して談笑するだけの仲ではあった。
「ま、不良ですから」
そう自虐的に言うと、ホームレスらは再度大きく笑った。
「おめぇさんが不良ってか? がははっ! こんな品行方正な不良がどこにいるよ!」
ぐりぐり、と体格の良いホームレスは京一の頭を掴んで揺らした。
「おめぇさんはいつも口だけなんだよ。不良ってのはな、こうバチッと髪型決めてだな、ボンタン履いて、常に懐にはナイフを忍ばせて、そんで気に食わない奴がいたら相手が誰であろうとシメちまう。そういうのが不良って言うんだよ」
「時代だろ。そんなの」
「……なんだ、まだ家に居づれえのか?」
京一の表情を見て、ホームレスの男がそう尋ねた。京一はいっそう気まずそうに黙り込んだ。それは悪い話題に触れた証拠である。
「ま、居やすくは無いよなあ、実際」
「そうか。ま、ガキの頃はいろいろ抱えるもんだ。そんで全部なんとでもなる! がはは」
再び快活に笑う。
この何にも動じない明るい態度が、京一には酷く心地良く感じられた。それが京一をこの場に引き寄せてしまうその最大の要因でもあった。
こんな風に生きれたら、そう思ってしまうほどに。
「ほら、兄ちゃんも面倒な事は忘れて食おうぜ!」
ひょい、と差し出された何の肉だかわからないそれを、京一は豪快に口へと運んだ。
彼らは度々こうして集まっては、火を焚いてその上に網を乗せ、バーベキューをして騒いでいる。この寒い時期には最高の催しだ。
京一が初めて知り合ったのもその時だった。寒い公園で一人佇む京一を、彼らが暖かく迎え入れてくれたのだ。ホームレスという存在へ偏見のあった京一も、しかし彼らのその温かさに次第になじみはじめ、気がつけば毎週のようにここに来ていた。
ここが自分の場所だと勘違いしてしまう程に。
「俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」
すくりと立ちあがり、京一は公園に設置してあった公衆トイレへと歩を進めた。公園のトイレと言う割には小綺麗としていて嫌悪感が無い。これはホームレスの彼らが、自分達なりに誠意として、この公園の清掃を行っているからだ。それ故ここは綺麗だし、何よりこの公園にたむろするホームレスに地域の住民が寛容なのも、それが理由であったりする。
じょろろ、とこの時期に起こる小便の蒸気のようなものを鬱陶しく思いながら、京一がトイレから出た時であった。
「ぐえ~」
京一の耳に、そんな蛙を押しつぶしたような声が響いてくる。
何事かと視線を巡らせるが、誰もいない。
「何だ今の声……」
「ぐえ~」
まただ。また同じうめき声に似た音が響いてくる。
はっとして京一がトイレの入り口を隠すために正面にそえられている大きな一枚壁の向こう側へと顔を出し、その声の正体を見つけた。
それは少女だった。小さく、おそらく幼稚園から小学生低学年くらいだろうか。とにかくそれくらいの少女が、その壁に顔を押し付けるように地面にぐでっていた。
「おい、大丈夫、か?」
そう声を掛けると、少女は首を回し京一を見上げた。
その時京一は何か、この世界のものではないものを見た、そんな気分になった。
少女の髪が白い。そしてその服装も、白を貴重としたどこかファンタジー世界を思わせるような、そんな奇妙奇天烈な格好だった。
明らかに生まれる世界を間違えたかのようなその少女が、しかし今京一の目の前で奇妙なうめき声を上げながらぐでっている。酷く疲れているというか、眠そうである。
「どうした?」
「ぐえっ」
「……いや、日本語で話せ」
「ぐえ~トイレ~……」
そう言って、少女はその壁に向かって進もうとしている。
「お前、何してるんだ?」
「トイレ。かべ、じゃま」
端的に単語でそう答えた少女に、京一は理解する。おそらくトイレに行きたいが、しかし壁が邪魔で入れないと言いたいのだろう。
だが少し待て。この壁はトイレを囲っているわけではなく、あくまで出入り口を見えなくするためだけのものだ。故にトイレにはその壁を迂回して入るのが普通である。おそらく猿でもそうするだろう。
「迂回しろよ」
「うがい、もうした」
「違ぇよ。迂回だ……あ~もうほら」
京一は説明するのも面倒になり、少女を抱き抱えて女子トイレの入り口へと誘った。
「ほら、行ってこい」
「ぐえ~」
相変わらずの気のないその返事(?)で少女はトイレの中へと入っていき、そしてしばらく待っていると出てきた。
「終わったのか」
「ぐえっ」
「さっきから何だよその返事は、はいとかいいえとか言え」
ばしん、と京一が軽く少女の頭を叩くと、少女は同じようにうめき声を上げ、頭を抑えて涙目で京一を見上げた。
「いじめだ」
「違う」
「ぎゃくたいだ」
「教育だ」
京一は威圧するように少女を睨み下ろした。たかだか少女にである。
すると少女は少し怯えるように顔を下げた。
「あほっ」
「ボケ」
「かすっ」
「チビ」
「な、なすっ!」
「それは悪口じゃねえよ。ガキ」
「ぐ……」
即座に言い返されてしまうこの状況に、少女はもう減らず口も返せず黙り込んだ。そしてじわじわと涙を溜めていき、そしてその涙をボロボロとこぼして泣き出した。
「ぐえっぐえっ」
「お、おい泣くなって……悪かった。てかそれは泣く時も使えるんだな。便利なうめき声だ」
それでも泣き止まない少女を、京一はどうしたらいいかわからず、あたふたと身体を動かした。ぼりぼりと頭を掻き、困り果てた京一は少女を抱き上げて揺らした。身長差的に姪っ子と叔父くらいの差があったので、京一はそれが適切なあやし方だと思ったのだ。
「ほーれほれ。高い高―い」
「ぐえっ……ぐえっ……」
京一が必死に少女をあやすと、少女はぐずり泣きを次第に鎮めていき、むすっとした顔で京一を見下ろしていた。じゅるりと鼻を吸う。
「おし、泣き止んだか?」
「ぐえっ」
「だからそれで返事すんなよ。どういう時に使うか決めとけ」
「ぐえっ」
「今のはイエスって意味だな。今のはわかった」
どこか一人で納得して京一が泣き止んだ少女を地面に下ろそうと腕を下げると、しかし少女が京一の腕から離れない。というか、離れようとしなかった。
「お前名前なんて言うんだ?」
「おまえは?」
「お前って言うなクソガキ……俺は十院京一だ」
「けいいちっ!」
「おい、呼び捨てにすんな。てか降りろ。重い」
「や」
「嫌じゃないって。降りろよ」
「いーやー!」
ぐらぐらと揺らしてみても、少女は京一の腕から離れようとしない。あまり強く揺らしてもそれはそれで危なそうだったのでいかんせん強くはできない。
京一が少女を振り払うのを諦めると、少女は京一の腕を駆け上がり、京一の首に肩車のように跨がった。 そしてその表情を綻ばせる。
「高い高―い! ぐえっぐえっ」
「おい、暴れんな、危ないだろ! ていうか降りろ!」
「さっさと動け! ポチ!」
「だれがポチじゃ。こなくそ、こうなったら力尽くで……」
「あーいたいた」
京一が心を鬼にして見知らぬ少女を肩から叩き下ろそうとしたその時、京一らに声を掛けてきたのは先程の体格の良いホームレスの男だ。京一は彼の本名は知らない。しかし彼は周囲にタイショウと呼ばれてる。 彼がホームレスの中でリーダー的な存在だからだ。
彼は少し汗ばんだ額に、しかしどこかほっとした様子でこちらを見ていた。
「なんだよ。何かあったのか?」
「あーいや、兄ちゃんじゃねえ。そっちの子だ」
タイショウが指さしたのは、白髪の少女だった。
「おっちゃん、こいつの知り合いか? 近所の子かなんかか?」
「えっと、あー、なんて言えばいいんだろうな」
タイショウはぼりぼりと頬を掻いて、そう言葉を濁す。
「あ、こじき!」
京一の上に跨がる少女が、しかしその可愛らしい声で、とんでもない単語を発した。少女が指さすのは目の前のホームレスである。
「乞食って……最近の子供はなんて言葉を教えられてるんだ」
「いや、そいつあ正直な奴なんだ。気遣いできる子供なんて子供らしくねえだろ?」
「まあそうかもしれないけどさ……って暴れんなって!」
きゃっきゃと、それでも落ち着かない少女に辟易しつつ、京一は尋ねた。
「で、この子は誰なんだ?」
「そいつァうちの新入りだ」
「は?」
「だから、そいつも俺らと同じ、行き場のないホームレスってわけだ」
京一は上を見上げる。すると少女も京一を見下ろしていた。何故か睨み合う。
確かによく見れば髪も服も薄汚れていて、決して良い環境で過ごしていたようには見えない。ホームレスと言われれば、そうかもしれないと思えなくもない。
「え、いや、それはおかしいだろ。こんな小さな子なら、ただの迷子なんじゃないのか?」
「って俺も思ったんだけどよ、でももうここに住み着いて一週間になるが、こういう子供を探してる人間なんててんで現れやしねえ。警察に連れてこうにも、どうにもぐずってな」
へへへ、と男はもう一度頭を掻いた。
タイショウは職を失った時、同時に妻と娘を失っている。それ以来一度も会ってはいないそうだが、その時の娘の年齢と被るのだろう。彼が少女を甘やかしてしまうのも無理はない。
「そんで可哀相だからこの子の面倒を皆でみる事にしたってことか?」
「ま、まあそういうことになるな。だからできれば隠したかったんだが」
「そりゃそうだろな。下手すりゃ誘拐事件だ。よく一週間もばれなかったな」
やれやれ、と京一は再度上を見上げる。しかしどうやら少女はうとうととしており、既に眠ってしまっているようだった。
「寝やがった」
「まあ子供だかんな。この時間はいつも大体寝てるし」
「……そっか」
京一はゆっくりと少女の手と足を首から外し、自分の腕の中に収めた。今度は少女が京一の胸に身体を預けるように眠っている。それを見下ろしながら、京一はどこか物思いにふけった。
「珍しいな。いつも一人じゃないと寝ないのに」
「おっちゃんらの側で安心して眠れねえだろ。臭いし」
「うるせえ」
「ところでこの子の名前は?」
「聞いてない。それがここのルールだろ? 皆訳あってこんなクソみたいな生活を選ばざるを得なくて、ある意味過去に決別してえ人間ばかりなんだ。そういう人間の過去を一切合切詮索しない。名前も皆あだ名だしな。俺だって兄ちゃんの事、必要に詮索しねえだろ?」
言われて京一は視線を下げた。
「じゃあいいや。そんで、この子はどこで寝かすんだ? 俺が連れてくよ」
京一はホームレスの住まいである段ボールハウスが連なる方へと歩いて行く。そして指示された通りの、一番大きな段ボール小屋へ足を踏み入れ、少女を床の汚らしいシーツの上へ寝かそうと上体を下げた。
「……こいつ」
しかし少女が京一の胸のシャツを掴む手が、離れない。その小さな手が、ぎゅっと握りしめて離そうとしない。離れたくない、とそう言うかのように。
「俺は母親かよ」
その言葉とは反対に、京一の表情が軽く綻ぶ。
「なんやお前らっ!」
その時、外から大きな声が響いてきて、体をびくりとさせる。
この声はタイショウの声だ。しかもそこには明らかな怒気が含まれていた。
京一は少女の手を無理矢理はがして床に寝かせ、慌てて段ボール小屋の外へと飛び出した。