自殺道
富士の樹海。
日本の自殺名所としても有数の場所だ。
三原和樹は枝からこぼれるように伸びたしめ縄をぎゅっと握り生唾を呑んだ。
これからこの縄の輪が自分の首を絞殺するのだから。
「よ、よしっ!」
覚悟を決まった。
「むっ?」
自殺しよう和樹の目の前に現れたのは道着姿の男だ。無精髭にざんばらな黒髪。もののふを思わせる隙の無い構え。
和樹は一瞬幽霊かと思ったが野太い足がしっかり二本ある。
「なにをしようとしていると?」
胴着男が問うと首絞めの縄を握ったまま和樹は
「自殺だよ。見ればわかるだろ」と力なく答える。
「毎日上司に頭を叩かれ、営業先にも頭を叩かれ、薄給にもかかわらず深夜まで働かせて、帯状疱疹でこっちの体はボロボロだよ。
こんな世界になんの興味も──」
社会に疲れ切った和樹に対して道着姿の男の表情が険しいものとなる。まるで獣のような気迫を持っている。
「自殺をなめるな!」と男が怒鳴ると腰を締めた黒帯を見せつける。
その気迫に和樹は力強く握っていた縄を手放してしまう。
闇に包まれた富士の樹海に道着男の声がこだまする。
「誰ですか、あなたは!」と言う問いに黒帯の胴着男はにかりと笑い
「私は自殺黒帯保持者安藤長政というものだ」
長政は樹海にその野太い声を響かせる。
「自殺の矜持とはなんだ?
信念も理想もなく軟弱な自殺を行おうとしている人間には私自ら指導しているのだ」
「軟弱な自殺……」
「貴様に問おう。自殺とはなんだ!」
「……えっと、こ、この苦しい世界からの脱出する術」
特に深く考えていない和樹の言葉に長政は毛深い腕を組んで深く頷く。
「その答え、間違ってはいない。だが自分のことしか考えない自殺など昨今流行っている軟弱な自殺そのものではないか。
真の自殺道と言うものを私が貴様に叩きこんでやる」
◆▼◆
「そこに座れ」
胴着男、長政の言われるがままに和樹は切り株に腰をかける。椅子としてちょうどいい形のものが三つある。そのうち二つに長政と和樹が腰を下ろし向かい合う。
──富士の樹海で俺は何をしてるんだ?
目の前に座る道着男を見るたびに和樹の頭の中は混乱する一方だ。
「完璧にして芸術的な自殺を完遂するためにはおよそどれだけの時間と努力がいるか貴様にはわからないだろう。
見たところ若いが貴様に両親はいるか? もしくは婚約者や息子娘は?」
「数年前に定年退職したオヤジとオフクロがいます。結婚はしてないです」
──なんで俺あこんなことをこの人に語ってるのだろう。
「遺書などは書いたのか? もしくは別れの言葉は?」
「そんなこと言ってないですよ。第一、出来の悪い息子だし、両親としては俺が居なくなってくれた方が──」
「喝ぁぁぁぁーーーっっっ!!」
突然怒鳴る長政に和樹は思わず肩をすくませてびびる。
巨大な気迫が富士の樹海を駆け抜け、真夜中に鳥をはばたかせる。自殺を覚悟してきたにもかかわらず和樹は目の前に鎮座した道着姿の男が恐ろしかった。
「軟弱ッ! なんと軟弱たる自殺!! これが昨今を生きる若者達か。
ふふ。久しぶりに教育し甲斐のある若者と出会ってしまったな」
不気味に笑う道着男を前に和樹は黙ることしかできない。
「真の自殺とは他人はもちろん、肉親をも重んじ、決して一人よがりなものにならないことなり。
これ自殺道の教えだ。
両親に何も言わずに貴様が死ねば当然両親は探すだろう。必死に。必死にな」
「うちの両親がそんなこと言うわけ──」
「喝ぁぁぁつ!!!!
理性ではなく親の本能がそうさせるのだ。貴様の自殺は最も大事にすべき肉親に最大の迷惑をかけ逝く。これは自殺道では最大のタブーとされている」
「そんなこと言ったってあんたの自殺は俺と何も変わらないだろ」
「吠えるな若造。私の自殺がどれだけ凄いものか教えてくれよう」
「いまや寝たきりの両親を優しく仏の心で介護し、時間と共に衰弱する両親が老衰からいずれ来るであろう死出への旅立ちをいまかいまかと待ちわびてはや一五年。まずは両親の大往生を見届ける。これは自殺道において最重要項目だ。故に日の出とともに日に三度、感謝の心を忘れず飯を食べる。このとき玄米などで根菜などのバランスも良く考えた献立を事前に準備すること。
親より先に死んでは自殺道の歴史に汚点を残してしまうからな。健康体がまずは基本だ」
「……」
「更に言えば私は童貞だ。子を成さず、番を持たず、一代限りのこの血ゆえに肉親は両親だけだ。ここで兄弟などがいると理想の自殺がまた変わらるのだが、私は幸い一人っ子だ。
そして事故が決して起こらないよう緻密な生活リズムの構築と安全面の確保が重要だ。特に道路の近くを歩くときなど、車が後ろから突っ込んでこないかいつも気を張っている。ここで死んではこの数十年の努力が全て水泡と化してしまうからな。
そして両親が亡くなったとき私も自殺する。これが私の完璧な自殺道なり。
どうだ? 凄すぎて声も出まい。軟弱な貴様の自殺とは理想の高さからして違うのだよ」
「ふぉっふぉっふぉ」
「誰だ!?」
道着の男の話が終わったころに木の陰から出てきたのは仙人のように伸びた白髭が目立つ背の曲がった老人だ。杖を突きながら出てきた老人は今にも天へと召してしまいそうだ。
老人は長政同様に腰に帯を巻いているがそれは虹色に輝いている。
「その虹色の輝きはもしやあ、あなた様は──」
「えっと、どちら様?」
「馬鹿者! 指をさすんじゃない!」
和樹が指さすと長政は怒鳴りつける。
「指をさすな。この御方はな、自殺道創始者でありながら最高の自殺を可能とした御方。豊長自殺永世名人であられるぞ! その虹色の帯の輝きこそまごうことなき本人の証!」
「話しは始めから聞かせてもらいましたよ。長政君の自殺の理想の高さにはなかなかの驚かされました。すぐにでもあなたは黒帯の壁を破り有段者になり、高みへと上っていくでしょう」
「あ、ありがとうございますっ!
永世名人様にそう言っていただけること、私、感無量でございます!」
道着男は感極まり嬉しさのあまりに涙を流しそうになっていた。
「しかし、まだ甘いですね。理想はもっと高く持つことです」
「……え、永世名人、失礼ながら私が追い求める自殺道とはこの世において最も崇高と呼べる自負があります」
自分の自殺道を低く見られたことがよほど不服だったのか長政は切り株から腰を持ち上げ背の曲がった永世名人を見下ろした。その瞳に怒りが混じっている。
「井の中の蛙大海を知らず。 されど空の青さを知る。良いでしょう。最高峰の自殺道がどういったものか教えてあげましょう」
老人はもっていた杖を横にかけ、残っていた切り株に腰を下ろした。
「あなたに関わった多くの人達はあなたほどの素晴らしい人が亡くなることに悲しむでしょう。あなたの自殺道はその悲しみを回避する事は出来ない」
「ぐっ! それは……」
長政にもそれはわかっていた。両親のことだけでなく他者の配慮こそも自殺道だ。しかし、関わった人間全員が亡くなるのを見届けることは不可能だ。ましてや彼ら彼女らに息子や娘、次の世代が居ればなおのこと。わかってはいたが長政はそこから目を逸らしていた。
「し、しかしそれを、他者の部分まで考慮する自殺などあるならばもはや神の域!」
「そうです。故に私は神になったのです。自殺道とは言ってしまえば自身の存在の痕跡を無くすこと。
極論を言えば生きてきた記憶の痕跡すらも。私は世界線を歪めることで自身が存在しえなかった世界を創り出すことに成功したのです」
「か、神……」
あまりの言葉に長政は腰から崩れ落ちるように地面へとへたりこむ。
「そう神となったのですよ。そうして人々の記憶、世界の歴史から自分の存在を消す事で誰一人にも迷惑をかけることのない究極の自殺を完成させたのです」
「す、凄すぎる!!」
──なんだこれ?
和樹はぽかんと目の前でやられているやり取りを見ていた。
「私の理想がいかに低いか教えられました!」
「君の自殺道も人レベルでは立派なものだ。どうかそれを完遂してほしい。だが、完遂したところで自殺道はまだ終わりでないことも心に刻んでおきなさい」
「は、はい!!」
地面に土下座する長政に対して老人は優しく声をかけ手を置く。
「では最後に真の自殺を見せてあげましょう」
老人がそう囁くように声をこぼすと眩いばかりの光が樹海一帯を包む。
◆◇◆
「どうだ? 凄すぎて声も出まい。軟弱な貴様の自殺とは理想の高さからして違うのだよ」
道着男の強い声に青年は呆れたような顔だ。
「貴様も軟弱な自殺などせずに私のように硬派にして理想の自殺を追い求めるが良い。そこに自殺道は続いているのだから。では私はこれから帰って両親の朝御飯を作らなければならないのでさらばだ」
道着姿の男はまるで森の賢人のように身軽な動きで枝から枝へと飛び移り樹海の闇へと姿を消す。
「なんだったんだ?」
富士の樹海の出口に立った青年はぽつりと呟いてからポケットに入ったスマートフォンを取り出す。
──まずは両親の大往生を見届ける。これは自殺道において最重要項目だ!
不意に道着男の言葉が頭に過ぎる。
「あ、先輩ですか? 俺、仕事辞めますね。内山課長にはよろしく言っといてください。後日辞表も持って行きますんで」
電話の向こうでなにか喚くような声が聞こえたが、青年はそのまま通話を切る。
「さてと、静岡だし、ウナギパイでもオフクロとオヤジに買って帰るかな」