和人街の日々・二
相州―――
ギルドを出て数分後、カイトは自分が取り囲まれていることにようやく気付いた。
目の前には果物に棒に刺した焼肉、油の滴るその香りと、甘い果実の匂い、同じ甘さでもやや硬質的で鼻をダイレクトに刺激するそれは砂糖菓子の匂いか。
あまりにも多くの物が目の前に並べられ、そしていっそ暴力な大声が耳を苛む中、カイトは半ば混乱状態だった。
手や服が引っ張られる。
痛い、引っ張るな……。
聞こえてくる言葉はグラナート語で、カイトはあまり理解できないのだが、英語に似たその言語のせいか、数字くらいは分かる。
ようは買ってくれと言うことだろう。
いや、俺、金ねえし……。
どう振り払おうかと考えるカイトの右手が、ひんやりとした感触を伝える。
声淡い香水のような香りが160の身長を持つカイトよりやや低めの少女から漂っていた。
ほっそりとしたその顔に、黒髪、鳶色の瞳……胸元に腹の部分がやけに薄い、十代半ば程の少女がうっとりとした目でカイトを見ている。
(お金……来栖に借りようかな)
一発で昇せ上がったカイトが来栖の方を向くのと、彼が何事かと和語でしゃべったのは、ほぼ同時であった。
そして何か非難するようなブーイングがほんのわずか後に木霊する。
「ジャップ……」
舌打ちしながら去っていく少女の顔は憎々しげに歪んでいた。
さっきまでの子供らしからぬ色気は既にない。
「カイト……ああいう物売りに囲まれたのならば和人ですと宣言すれば離れていきますよ」
「そうなのか……随分と嫌われているんだな、俺ら……ガックリだぜ」
早くも今日一日の気分が決定したと言わんばかりにしょげ返るカイトに来栖が苦笑しながら説明する。
十年前の戦争で和人は聖教会に敗北し、隷属の身となった。
奴隷はごく少数の例外を除き、基本的にはその日暮らしの文無しが大半なのだ。
あるいは金があっても財布の紐はご主人様が握っている。
ならば、最初からそのご主人様を狙えばよく、物売りにとって和人はハズレが多い無視した方が合理的な存在なのだった。
「ま、こんな状態を覆すべく我らは戦っているのです……どうです、やる気が出たでしょう」
「なんか十年前以上に派手に負けて今度こそ絶滅させられそうな気がするんだが……ほら、俺なんか改造失敗だし……リコールしていいか?」
「ははは……そう落ち込みなさんな」
笑いながら肩を叩く来栖は上機嫌で、反対にカイトはどこまでも落ちていく。
皺だらけの肌、しわがれた声……十代(多分)なのに本当の老人のようだった。
「さ、付きましたよ……ここがそういった隷属下の和人が暮らす和人街……貴方は当分はこことギルドを行き来することになるでしょう」
そこには相州という市街から隔離された場所。
和人街へ続く道は、石造りの頑強な砦と鉄製の扉で仕切られていた。
*****
市場・西門・詰所―――
「なんだ……和人はこの関所を勝手に通ったり……って、喫茶店のギルドマスターか」
詰所に入り、隊長格の男が不機嫌そうに来栖とカイトを睨む。
禿げ上がった頭部に、飛び出るような大きな目玉。
癖なのか、チチチ、と舌打ちを繰り返しているのだが、その音がネズミの鳴き声にも聞こえる。
うん、こいつの事は心の中で「ネズミ隊長」と呼ぶことにしよう。
カイトは失礼なことにこの男の名前を聞く前から勝手なあだ名をつけていた。
「ちっ、奴隷じゃねえんじゃ虐められねえ……面白くないぜ、なぁ?」
「分かっていますよ、隊長」
来栖はいつものポーカーフェイスで、隊長の手に硬貨を何枚か握らせた。
冒険者ギルド……それは有事の際に一つの部隊として機能するため、ギルドを統率するギルドマスターは和人だとしても、和人に科せられた奴隷の首輪の範囲外となる。
魔物などが街に攻めてきた時、いちいち主人の指図など受けてはいられないからだ。
独立とした存在として認められる以上、税も一人前として請求されるが、それよりもこういうように、衛兵などに請求される袖の下の方が財布を圧迫する。
結局のところ、敗北者と言う身分からは根本的に脱出してはいないのだ。
「知っているか……あのローレンツ司祭がやられたらしいぜ、奴の兄がストーブみてえに真っ赤だそうだ、一か月前みたいにどこかの街区が焼き討ちにされるかもしれない……隠れていた方がいいんじゃないのか」
とはいえ、この隊長はその中でもまともな方だった。
賄賂を貰うばかりでなく、見返りに情報を流してくれる。
大事な小遣い稼ぎ相手だからと言えばそれまでだが、一応は、良好な関係だった。
「悪いことしていないのに隠れる必要はありませんよ」
「チッ、カマトトぶるなよ……お前は金回りが良すぎる、あんなギルドだけじゃ俺への賄賂は払いきれねえはずだ」
「賄賂を要求する人間のセリフではないですね」
あくまで茶化す来栖に、隊長はどこまでも本気だった。
大きな目玉がギョロギョロと動かし、盛んに目の前の生意気な和人を威嚇する。
「やばい奴とは今のうちに手を切って置け……北も東も今はおとなしい、和人の抵抗組織を地下から引き釣り出すって上がうるせえぜ……特にあのダニ共……秋水率いる和平会なんかもう目の敵だ」
と、熱弁を振るう隊長はすっと視線をそらし、来栖の後ろでぼーっと立っていたカイトを見やる。
カイトは何だこいつはと睨みつけ返したが、特に隊長は反応を返さなかった。
「魔術士……なるほどそんな奴を連れているってことは、サムライとは手を切ったってことか……よしよし、いいことだ」
(何を納得しているんだ?)
首をかしげるカイトだが、いくら考えても分からない。
ともかく上機嫌になった隊長は手でわっかを作りニンマリと不愉快な笑みを来栖に向ける。
その卑しい笑い方に来栖の額に小さな青筋が立った。
「今月は入用でな……もう少し弾んではくれねえか?」
「もう払える金はないですよ」
「タダとは言わねえ……家内奴隷を一人二人買わねえか、まだ十を超えたばかりの少女でよ、このままいくと教会のジジイのエサよ、可哀そうだろう?」
粘着質なしゃべり方は笑みより癇に障る。
カイトもむっとしたが、対峙する来栖はそれ以上だったらしく、冷たく厳しい視線で彼を見据えると、やんわりと、だが断固とした口調でその申し出を断る。
「私が後ろ暗いことをしているのは知っているはず……その家内奴隷をギルドに入れて、もし彼女らが秘密を知れば私はその子を殺さなくてはいけません……お分かりですね」
来栖の視線に屈っするように、隊長は油汗を流し、体を後退させ、椅子のへりに背をぶつける。
それが彼のプライドを傷つけたのか、声を荒げ、先程までの(本人としては)和やかな表情を一変させた。
「チッ……どんな出来損ないの奴隷でも、お前のゴミ見てえな創作料理よりはマシな物を作るぜ……そこの魔術士が食あたりで倒れても知らないからな!!」
(あ……やっぱり来栖の料理ってまずかったんだ)
さっさと行けとと言わんばかりに手を振る隊長に、あくまで礼儀正しくお辞儀をして来栖は詰所から退出する。
それにカイトが続く……が、食あたりと言う不穏な言葉が頭から離れなかった。
ただ安堵してもいた。
異世界の料理がみんなゴミみたいに酷い物ではない。
単に来栖が料理下手なだけであると確信したおかげで。
*****
「来栖……これからご飯は俺が作るぜ」
「ははは……料理は私の趣味です、それを取り上げないでくださいよ」
カイトは本気でそう言ったのだが、どうも来栖はなぜかカイトが気の利いたジョークでも言ったのかと勘違いしており、本気にしてくれない。
あまつさえ、ギルドマスターの趣味を非難するとクビにしますよと冗談めかして言うほどだ。
(ギルドに帰ってまずやることはキッチンの占領だな)
そんなことを思いつつ、カイトは和人街の入り口をくぐった。