和人街の日々・三
和人街―――
詰所を通り、鉄の門を潜ると……そこは粗末な小屋が通りをひしめき合う粗末なスラム街だった。
これはマッチ一本で全焼だな、と不穏当なことを考えながら、カイトは市街と和人街を結ぶ大橋を渡る。
小屋に似て粗末で、まるで角材をただ並べてだけのように見えるその橋は、歩くたびにきしむ音がする。
多人数、あるいは荷馬車などが一斉に通れば、それだけで崩落しそうな危うさだった。
「付きましたよ、ここが和人街です……」
「随分と、まぁ……なとこだな」
「正直に貧民街と言って結構ですよ」
気を使って言葉を濁すカイトだが、来栖は気にした風でもなくはっきりと現状を話し始める。
彼にとってこの光景は見慣れたもの。
十年前……世界の中心から底辺まで堕ちた和人の無残な姿なのだ。
ここは監獄。
戦争で負けた和人は(技術者などを除いて)市街から追い払われ、この和人街に隔離されたのだ。
理由は反乱を起こす恐れがあるから。
自分たちが侵略したせいで和人は自分達に恨みを持っているに違いない。
ならばその恨みをぶつけられない様、拘束してしまえ……と言う教会の「まっとうな」理由であった。
「ここは監獄……ただし金次第で抜け出すことも可能ではあります……私のように」
「来栖……?」
「金があれば自由になれる……そのため、ここでは現金が強い力を持ちます……酒、女、薬……貴方の頑張りしだいで何でも手に入ります」
「……」
にっこりと笑い、親しげにカイトの肩に手を置く来栖。
その笑い方は……そう、武家屋敷であった名前を知らない神官が浮かべていた悪い笑顔だ。
なるほど……カイトは来栖の言わんとしていることをほぼ正確に捉えていた。
自分に従え……つまりはそういうことだ。
カイトの本当の主人は、カイトを異世界召喚したという、秋水とかいうジメッとしたワカメ女。
来栖は仮の主、ただ秋水の命令で配下として振る舞っているに過ぎない。
(大変だな、本当に……俺は金や女で喜ぶ男じゃないぜ、いいけどよ)
来栖は勘違いしている。
カイトが来栖に従っているのは、衣食住をくれる雇い主だから……それとなんとなく……言うなれば気まぐれでしかない。
好きにしてくれ……とばかりにカイトは周囲を見渡し、何か気を紛れるようなものでもないかと探し始めた。
無視された形の来栖がカイトの肩に置いた手に力を籠め始めるが、カイトはそれも無視した。
(貧民街と言う割には……そこまでひどくは)
粗末な小屋が立ち並び、道行く人の姿もみすぼらしい。
だがその表情に陰鬱な物はあまり感じられず、よくよく見れば通りには店らしきものがチラホラある。
果物、野菜売り、雑貨らしきものを売る露天商。
何やら小さい絵を売っているのはなんだ?
その時、カイトは己の直感が何かに刺激されたのを感じた。
遠くを見ると女性が店主と何やら揉めているのを見つける。
やや癖の強い黒髪を胸にかかる程に伸ばした、二十に差し掛かったぐらいの女だ。
こんなうらぶれた貧民街には珍しい清楚そうな表情に、左目の下に泣きぼくろ。
模様のない地味な浅黄色の着物、その下には足首まで届くズボンを履いていた。
(優しそうな顔……少し好みだぜ)
揉めているのならば助けてあげたい……いや、あげねば。
とりあえず、ちょっかいをかけるべく、近づこうとしたが、突如として肩に乗っかている来栖の手が鋼のような強度となり、フラフラと向かいそうになったカイトを押しとどめる。
「やめなさい……」
「なんだよ……何の理由があって止めるんだよ」
件の女性は店主との話が終わったのか、残念そうに肩を落としてすごすごと去っていく。
追いかけようとするが、意外に足が速く、それ以前に来栖に肩を抑えられているため、行くことができない。
ああ……なんということだ。
許すまじ来栖……せっかく綺麗な人と話せると思ったのに。
「俺、もうギルドに帰るわ」
「分かりやすい反応ですね……いいですか、あれは他人の女です、さらに詳しく言えば教会の神官の妾です、手を出しても無駄ですよ」
もはや何もかもどうでも良くなったカイトを叱咤するように、来栖が矢継ぎ早に「彼女の」説明をする。
彼女の名前は穂乃香……教会、つまりはグラナート上層階級のお妾さん。
最近この街に越して来た左も右も分からぬ新人さん。
「とりあえず、この街の事を案内してあげた方がよくね、ほら、俺……一日だけどこの街長いし」
「手前に何が案内できるんだよ……まさか他人の女に手を出す趣味はねえだろうな……
ただでさえ、性格に問題があるくせに、これ以上厄介な性癖を増やすんじゃねえ!!」
突如としてキレ出した来栖にカイトは首を傾げる。
俺の何に問題があるってん言うんだよ。
確かに「小さな」問題は起こしているけど、ちゃんと敵は倒したから問題はねえだろ。
まったく……俺は他人の女に手を出す趣味はねえ……ただ直感が働いた女の人がたまたま人妻だっただけじゃねえか、こちらも問題ない!!
仮面の奥、朱色の目でカイトは来栖を睨む。
その本気の目にわずかに来栖はたじろいだ。
「もういいでしょう、とにかく街の案内を再開します……いいですね」
「……分かったぜ」
ドスの利いた声でこの話題の終了を宣言する来栖に、カイトは渋々ながら頷く。
意外と来栖って短気だよな。
「ダメだ……こいつに市街を回らせると問題を多発しかねない……後、一ヵ所だけ回って後は、宴を開いて懐柔してしまおう」
「何を言っているんだ、来栖?」
何やら一人でブツブツ呟きながら頭を抱える来栖をカイトはこいつ大丈夫かと、不審げに見る。
ひとしきり独り言をつぶやき終わった来栖はすっきりとした顔をしていたが、きっちりと整えたはずの髭が、汗で少しずれていた。
*****
焼け果てた神社―――
一本の真っ黒な柱だけが立っている。
それがかつて鳥居の一部であり、帝を祭る神社の入り口であったと、かつてを知らぬものは、推測することはできない。
その徹底した破壊は、襲撃した者の病的ともいえる執念さえ感じられる。
この国、秋津は異世界人と、その混血たる和人を中枢に置く国家。
異世界人は強大な術を操り、優れた知性、類まれなる知識でもってこの世界の知恵なき蛮族を指導した。
十年前、蛮族・グラナートを率いた聖教会に裏切られ、蹂躙されるまで……そうやって数百年の時を過ごしてきたのだ。
「気をつけなさい……あれこそ本当の敗北者」
そう言って来栖は意地悪く笑う。
よく見れば神社跡の各所に複数の人間が佇んでいる。
端に寝転んでいる刀を持った中年の男。
くたびれた胴鎧を身に着けた老人……薄汚れた鞘が着物の隙間から覗いていた。
その目は虚ろで、あるいはギラギラと形容しがたい赤く濁った目を虚空に向けている。
サムライ……テレビやゲームでしか見たことがない、主君に命をささげた戦士の名を、カイトはなぜか呟いていた。
「……」
「民を治めていた、秋津の帝 (アキツノミカド)、そして戦巫女 (イクサミコ)に仕えていた……抜け殻ですよ」
その瞳には既に正気の色はなかった。
かつてはあったかもしれない姿。
今カイトが見ているのは朽ち果てた死に体でしかない。
哀れとは、カイトは思わなかった。
直感的に感じる。
あれは手を差し伸べた人間を引きずり込んで喰う妖怪だ。
堕ちるところまで堕ち、彼らが欲しがるのはエサか、慰め。
自分より悲惨な境遇に堕ちたものこそを欲していた。
「怖いな……」
「ほう……なかなか見る目がある」
ならば大丈夫です、そう言って来栖は満足そうに口髭を整えた。