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夕焼けを愛した男達の弔い

作者: 栗茸しめじ

 

 夕焼けを愛した男の葬列


 その葬列は、大都市クフラン・ガベルの外れを越え、隣町であるエルジットにほど近い荒れ野原・旧メト平原の丘の上に続いていた。

 乾いた大地を踏みしめるのは、クフラン・ガベル所有軍隊、ガベル軍第二部隊の面々であった。皆性別は男であったが、髪の色も体格も、それぞれに様々であった。泣きそうな顔をしている者もいた。苦しそうに唇を噛む者、瞳孔を開いて眉を顰める者。皆がそうしているのは他でもない、彼らの上司、ガベル軍第二部隊体長を務めた男が没したからである。

 ガベル軍第二部隊体長、英雄、アウレル・エメリヒの戦死。

「わああああ! なんで死んじまったんだよ、アウレルうううう」

 黙したまま葬列は歩を進める。ほとんどの戦士はアウレルの遺体が入った棺を持ち上げながら歩いていた。その後ろを、花束を抱えた二人の戦士が追うように続く。

棺の主が、道中誰かに称えられることなど無い。風の音すら彼らの沈黙に味方するというのに、一人の男は子供の様に泣きじゃくっていた。

「お前まだやんなきゃいけねえこと沢山あったろおおお。ズビッ。奥さんといちゃつくとかあああ、お前の故郷の名産品、部隊の皆に御馳走してくれるって約束したじゃんかあああああグスッ」

「……おい、ザカリア」

「俺とカノジョが結ばれたときは祝福してくれるって……言ってたじゃん嘘つきいいいいい」

「ザカリア! 煩い! とりあえず鼻水をどうにかしろ」

 花束を抱える二人の男。一人は黒い髪で、大泣きをしている。もう一人は銀色の髪で、黒髪の男にちり紙を手渡した。

 黒髪の男はザカリア・フルードといった。今だけでなく常に子供っぽい行いが目立つ反面、腕も頭もキレる部隊の副隊長である。

 銀髪の男はクロヴィス・シェルツといった。冷静な性格で、ザカリアとコンビを組んで行動することが多い一般兵。態度はお世辞にもいいとは言えないが、一応ザカリアの部下である。

 ザカリアはちり紙を受け取って、チン! と鼻をかんだ。

「煩いって……。だってよぅ、クロヴィス。これが泣かずにいられるかってんだ」

「アンタがそうやってオイオイ泣いてるから、他の皆が泣くに泣けなくなってるんだぞ。いい加減気付けよ」

「うるせえ! 泣きたい奴は泣きゃいいだろうが!」

「俺に当たるなって」

 ザカリアとクロヴィスの言い合いは、最早この部隊の中では日常的な物になっている。基地の中だろうが戦場だろうが、彼らのお喋りは止まることを知らない。それは上司の葬列の中であっても同じであることを、部隊の兵士たちは現在身を持って知った。

 喧しい二人の問答を哀歌に、葬列は進む。クフラン・ガベルを出て、西の荒野へ。

 棺の主が、道中誰かに称えられることなど無い。棺の中の英雄の名を、一般人たちは皆知らない。ガベル軍第二部隊は機密部隊。どの部隊より働くけれど、それは全て暗躍となる。

「アウレルは、夕焼けが好きだった」

 やはり止まらない涙をぬぐうこともせず、ザカリアは呟く。

 ザカリアはアウレルの同期でもあった。共に同じ部隊で切磋琢磨をした、彼だから知り得る思い出を葬列に添える。

「知ってるか? 基地のてっぺんに立ってるアンテナの下に、小さなスペースがあってさ。そこは立ち入り禁止になってるんだけど、三階の休憩室のベランダから結構簡単に登れるんだ。アウレルはそこから毎日夕日を見てた。俺も一緒に眺めたっけ……」

 雨の日や曇りの日は見れない景色。大都会クフラン・ガベルで拝める数少ない絶景。ビルの群れを軽く一望して、西の荒野、東の森までも届く見渡せる。茜色の光に満たされた景色に、西の荒野に赤く燃える丸い夕日。

「でも、基地のてっぺんから見える夕焼けを眺めながら、アイツはいつも同じことを言っていた。クフラン・ガベルより西の荒野……嘗てメト平原と呼ばれたそこの丘の上。黒曜石の大岩が好きなのだと。そこからは、特に美しい夕焼けが見れるんだと。太陽もこーんなに大きいんだと」

 ザカリアは右手に花束を手にしたまま両腕を広げた。日に焼けた褐色の腕はよく鍛え上げられており、しなやかに宙に伸びる。こーんなにだ、とそんな子供っぽい所作は、彼の専売特許である。誰もそれを咎めないし、笑わなかった。葬列の参加者は皆一様に、静かにザカリアの様子をちらりと見るだけだった。

「だからか?」

 一人、クロヴィスだけがザカリアに問う。

「アウレル隊長が、旧メト平原の黒曜石の大岩の元に、自分を葬ってほしいなんて遺言を残したのは」

 アウレルの死を看取ったのは、他でもないザカリアとクロヴィスである。

 アウレルが死んだその日の戦場は、上も下も真っ赤だった。果て無く広がる燃えるような夕焼け空に、地面も敵味方の血で赤黒く染まっていた。狂ったような赤い光が目に痛く、呼吸をすれば生臭い鉄の匂いが肺に満ちる。

 アウレルもザカリアもクロヴィスも、例外なく真っ赤に染まっていた。しかし、アウレルだけ致命傷を負い、赤の中でその生涯に幕を引かんとしていた。どんなに止血しても、薬を塗っても駄目で。その最中に、彼は笑って言った。

「何処までも赤、赤、赤だな。綺麗だ。こんなにも美しい風景の中で、大事な友に看取られ逝くのなら、もう思い残すこともない。ただ、願わくば、私の亡骸は旧メト平原の黒曜石の大岩の元に葬ってくれ。いつまでも、そこに。ザカリア、お前は場所がわかるな」

 それが、アウレルの最期の言葉だった。

「不思議に思ったんだ」

 クロヴィスは脳裏にあの日の赤を思い出しながら言う。

 アウレルには家族がいた。両親、奥さん、息子。彼らは軍の守る安全な街、クフラン・ガベルに住んでいる。一方で西の荒野は、そのクフラン・ガベルから遠く離れている上に野生の獣が多く生息している危険地帯だ。

「あんなところに隊長の墓を作ったんじゃ、彼の家族はおちおち墓参りにも来れない。何よりも家族を愛していた彼なのに、どうしてそんな遺言を、と思ったんだ」

「そうさなァ……。アイツが何を思って言い遺したのかは、俺にもわかんねえ。俺もクロヴィスと全く同じことを考えたさ。あんな寂しいところに亡骸を、なんてとんでもないことだとすら思う。けれど、アウレルは色々と複雑なことを考えるのが得意だったからな。アイツなりに色々な考えがあったんだと思う。その壮大な真意なんざ、馬鹿な俺にゃ理解したくてもできないんだ」

 旧メト平原。今よりもはるか昔、この地は自然豊かな草原が広がる場所だった。しかしいつからか、大地は荒れて恵みの乏しい土地になってしまった。むき出しになった黄土の大地を、葬列が進んでいく。

 重い兵士達の足取りが、乾いた地面を踏みしめる度砂煙が上がる。しかし兵士は動じない、ただ眼前の丘を目指す。

「アウレルは、夕焼けが好きだったんだ」

 嗚咽こそ上げなくなったものの、静かにザカリアは涙を流す。葬列の足音に、涙の雫が大地を叩く音が混ざる。

「この丘の上から眺める夕日が、一等好きだったんだ」

 緩やかな坂になる大地。登り切れば、葬列も終わる。誰も辛いとも悲しいとも言わない。ただ泣き屋は、ザカリアだけで十分だった。

「理由なんて、それでいいんじゃねえかと思うんだ、俺」

 ロマンだよロマン。なんて投げやりにザカリアは言う。ロマンを追わねえ男は男じゃねえから。誰もその呟きに同意する人はいない。

 葬列が進んでいく。泣き屋が一人、葬列に華を添える。

 誰も英雄の死は悼まない。この死を知るものはごく少ない。それでも英雄を英雄と認める者は、それに相応しい眠りの場所を手向けたいのだ。

 愛する上司が、どうか安らかに眠れるように。

「ついたぞ」

 葬列が足を止めたのは、丘のてっぺん。

 遂に大岩の前につけば、赤い赤い夕焼けが眼前に広がっていた。

「ああ、これが」

 この丘は旧メト平原の中で最も標高が高い位置。荒野をどこまでも見渡せるそこだからこそ、燃える夕焼けに包まれたような心地になる。

 どの方角を見渡しても、鮮やかな朱。大きな大きな太陽が、地平線の際で輝いている。

「アウレルの愛した景色……」

「教会で習った神話にでてくる、神々の黄昏。こんな感じの場所が戦場なんだろうな。さぞ見事な黄昏なんだろうから」

「神話だぁ? 小難しいこって。お前の感想わかり難いな、クロヴィス」

「そっちこそ、らしくもなくしみったれるなよザカリア」

 棺は大岩の横、土の中深くに。

 墓標は英雄の愛刀一振り。盛り土の上に刺し。

 黄昏に見守られて、英雄は永久に眠る。

 葬列者は皆、揃って黙祷をささげた。この時ばかりはザカリアは涙を止めていたし、クロヴィスも言い合いをおさめていた。

 緋色の世界に、雫がひとつ、ふたつ。

「夕立ちか?」

 急な夕立が旧メト平原を襲う。天気雨だ。大きな紅の太陽はそのままに、雨が兵士たちの体を叩く。至って激しい雨足だが、雨粒の大きさはごく小さいものだった。繊細な粒であった。

 まるではらはらと滴り落ちる涙のそれのように。

「ああ、天まで、アウレル隊長の死を惜しんでいるのか」

 そんなことを呟いたのは、葬列者の誰だったか。黄昏色の光が無数の雨粒に反射し、黄金が降り注いでいるかのような幻想的な風景には似合わない、呆けた呟きだった。

 クロヴィスが笑う。笑って、ザカリアの肩を叩いた。

「よかったなザカリア、泣き屋はお前だけじゃないみたいだ」

「はぁ? 泣き屋? なんだそりゃ」

「泣き虫はお前だけじゃないってこと」

「誰が泣き虫か!」

 懲りずに言い合いを始めた二人を、部隊の皆が笑った。

 葬儀は終わったと皆が旧メト平原から去るまで、クロヴィスとザカリアの漫才と観客の笑い声は止まらなかった。




 英雄を悼む花束に愛を込めて

 

 戦士はいつか敵地で散るために生きていると、誰かが言った。

 ガベル軍第二部隊旧隊長、大英雄アウレル・エメリヒ没後。時は流れて、彼のあとを継いで部隊の指導者として立ち上がった旧副隊長のザカリア・フルードは、立派な戦死を遂げた。

「やっとわかった。アウレルの遺言の意味が」

魂は肉体から解き放たれて、帰るべき場所に。

 それは墓石の下だったり、青空であったり、夕焼けの見える丘であったり、あるいは、愛する人の腕の中だったり。ザカリアは死の間際、笑いながら語った。

「あの子の元に、帰れたらどんなにいいだろうか。スラム街で出会った気高く美しい、俺の最愛の人。彼女の腕の中に帰れるならば、そんなに幸せなことはない」

 彼は血で全身を汚していた。そこはまるで地獄であるかのように真っ赤な戦場で、けれどその世界はどうしてか、戦士たちには神聖なもののように思える。

 赤い夕陽が戦場に降り注いでいた。アウレル・エメリヒの没時と同じように、狂おしいほどの赤い光がザカリアを労うように美しく。それを神々の黄昏と称したのは一体誰だったか。ガベル軍第二部隊隊長、まだ若く未熟な戦士であったザカリアも死に召されることで大英雄になろうとしている。

「ああ、でも、俺はもう死ぬんだ。あの子の元に帰ったところで、俺の死んだ腕はあの子を抱きしめることはできないんだ。やさしいあの子は、俺の亡骸を見ればひどく悲しむだろう。良くも悪くも俺の骸は彼女の記憶によく残って、そうして彼女は、俺を忘れることなどできなくなってしまう……」

 英雄・ザカリアの遺言。

 彼は選んだ。

「旧メト平原の、黒曜石の大岩の元に。アウレル隊長が眠る丘の上に。俺を葬ってくれ。あそこは夕焼けがきれいに見える。それに、クフラン・ガベルからずっと遠くにあるだろう。あの子もきっと、俺を忘れて幸せになれる」

 武力を持たない市民は、まず旧メト平原に赴くことはできない。ならば旧メト平原に墓をつくれば、そこを訪れる人などごく限られてくる。戦事から守られてきた愛する人は当然、頻繁に墓参りなどできないはずだ。

 戦士者をのことなど忘れて、幸せになってほしい。

「ああ、アウレル。お前こんな気持ちで逝ったんだな」

 彼はそう、呟くように言って目を閉じた。

「どうか、俺が居なくなっても、幸せに……」

 もう息耐えようとしているのに、どうしても捨て去れない希望がある。諦められない愛がある。死にたくない。しにたくない。まだ生きていたい。頭では終わりを理解しているのに、頭に浮かぶのは愛しい人の姿。

 ベレッタ。死ぬ前に一度、もういちどだけ、会いたかった。

 しかしそんなザカリアの願いが叶うことはなく、無慈悲にも終わりはやってくる。意識が闇へ沈んでいく。眠りにつくときのように、抗えない意識の混濁。

「苦しくはない。悲しくもない。ただ疲れたんだ。一寝入りして目が覚めたら、また」

 きっと、あの子に会うんだ。

 そうしてザカリア・フェーンは息を引き取った。





 クフラン・ガベルはとにかく、大きい都市である。

 大陸の中心に存在し、貿易や産業に長け、莫大な富と有能な軍隊を有し、全世界の覇権をも握ろうとする。それだけの力を持った大都市だった。しかし大きな街には、それゆえに貧富の差も激しい。クフラン・ガベルのスラム街は、世界のどの都市のそれよりも広大で悲惨であった。

 そのクフラン・ガベルのスラム街入り口に、小さな花屋がある。

 その花屋がいつから存在していたのかは誰にもわからないが、クフラン・ガベル随一の鮮度と品揃えを誇る花屋だとは富裕層の人間にも名が知れていることであった。

桃色の錆びかけた看板が特徴的なその花屋の女店主、ベレッタは腕に下げたバスケットの中にお気に入りの花々を詰めて、その日はもう店を閉めようとしていた。

「ベレッタちゃん、今日は閉店が早いねえ。まだ日がてっぺんから少し傾いたくらいじゃないか」

 スラム街の奥から歩いてきた身汚い老婆が、ベレッタに声をかけた。ベレッタは気立てがいいとスラムの人間に多く好かれていた。彼女はこの老婆ともそれ相応の友好関係を築いていた。老婆に笑いかけながら、ベレッタは美しい亜麻色の髪を揺らして唇を開く。

「今からお花の配達に行くのよ」

「その籠の中身かな」

「ええ」

「ええと。白と青の薔薇に桃色のカーネーションに向日葵と紫のチューリップ。ああ、ゴデチアとアネモネにネリネまで。随分と情熱的なラインナップだねぇ」

 老婆はベレッタの腕のバスケットの中身を覗き込んで、どこか悪戯めいた笑みを浮かべた。笑った口元にボロボロになった歯が見えても、老婆の青い瞳は聡明な輝きに満ちている。

「いやだわ、ソフィアさん。随分と花言葉にお詳しいのね」

「クフラン・ガベルがまだこんなに大きくなる前には、乙女は花言葉を嗜むもんだったのさ。それが今や、この街は花どころか土も草木も忘れちまった。悲しいことだねえ」

「だから花屋が儲かるのだわ!」

「ベレッタちゃんは逞しいねぇ。そうそう、老婆心で一つだけ。その籠の中の花に、スターチスを加えてはどうだろう」

「それはいい考えね!」

 ベレッタは店に並んだ水鉢の中からスターチスの花を数本取り出すと、籠の中に加えてから店のシャッターを閉じるのだった。


 ベレッタには生涯の愛を誓った恋人がいた。


 クフラン・ガベルが所有する軍隊の戦士だった青年。ザカリア・フェーン。ベレッタは彼を心から愛していた。

 愛していたのだ。それは、今も昔も彼女にとって変わりないことであった。

 戦士はいつか敵地で散るために生きていると、誰かが言った。ある日ザカリアは戦に赴き、そしてとうとうベレッタの元に帰ってくることはなかった。戦死したのだという。ザカリアの遺体の損傷は激しく、彼の葬列は戦の鎮静後、すぐに執り行われたのだという。ザカリアの同僚から言伝られた凶報であったそれが、本当かどうかなどベレッタには確かめようがなかった。

 英雄ザカリア・フェーンの戦死。誰からも労われなかった英雄、その男の葬列は旧メト平原に続いた。

 旧メト平原とは、クフラン・ガベルのむやみな土地開発の影響で砂漠化し、荒野と化した無人地帯である。昔は緑と生命に溢れた湿地帯だったそうだが、その姿を知る者は今や限りなく少なくなってしまった。ベレッタが産まれた時にはもう、メト平原は旧くの名称となってしまっていた。

 そこは荒れ果てて静かな寂しい場所である。旧メト平原の丘の上、黒曜石の大岩のふもとにザカリアは屠られたのだった。そこには彼の上司であるアウレルも眠っている。ベレッタは、少なくともザカリアが独りで眠っているわけではないことに安堵しつつも何故そんなに辺鄙なところで眠りたいと願ったのか不思議で仕方なかった。

 何でも、旧メト平原に葬られることを望んだのは他でもないザカリアなのだという。

「あの場所には、花どころか草一本生えていないのだから」

 ベレッタはクフラン・ガベルの道を歩く。コンクリートで綺麗に舗装された道ではあるものの、人通りは少ない。それはその道が、西へ続く道だからだ。何もない場所へと続く道。街を出て西、そこに旧メト平原は存在する。

「ザカリアはいつも、私の店の花を褒めてくれた。いいにおいで、素敵な花だって。貴方は生き物が好きだった。犬も猫も、魚も草花も。だからね私、貴方の好きなもの、今から持っていくからね」

 ベレッタは西へ西へと迷いなく歩を進める。しっかりした足取りに、彼女が履いている革のサンダルがぱたりと音をたてた。

 バスケットが揺れれば、その中の花が芳しい香りを大気に撒いていく。ベレッタは鼻歌を歌いながらクフラン・ガベルの外へ出て、荒れ野の道を進んでいく。そこには凶暴な野生の獣が生息していたが、ベレッタとて伊達にスラム育ちではない。バスケットの花の下に、物々しい拳銃が一つ忍ばされていた。

「この荒野には、獣が出るから」

 人間に住処を追われ、環境の破壊により餌もなく、お腹を空かせて野獣になり果てた動物たち。気性は荒く、まともに戦えば並の人間では敵わない。あっという間に骨を砕かれ、動けなくなったところで肉を毟られ、助けも呼べずに朽ちていくことになるだろう。

「そう言えば、ザカリアは知らないかもしれないわね」

 荒野の黄色く乾いた地面に紛れるような、黄土色の毛皮が何処からともなく近づいてくる。四つ足の獣だ。二匹がベレッタを囲むように駆けていた。足音は殆ど立てていないが、獣らしい呼吸音が静かな荒地に響き渡っている。ベレッタはバスケットの中に手を伸ばした。花々の下にある拳銃を手に取る安全装置に手をかけ、獣を睨んだ。

「銃には、ちょっとだけ腕に自信があるのよ」

 獣が一斉に飛び掛かろうとしたその瞬間、ベレッタも動きだす。ハンマーを下ろし、そのまま引き金を引いた。獣の足に、鼻先に拳銃の玉がめり込んでいく。血しぶきが噴いては乾いた大地に落ちてまたすぐに乾いていく。

 二匹の獣はやがて動かなくなった。それらが死んだのかどうかは、ベレッタにはよくわからない。その銃はスラム街で取引されているごく安価なものだ。人間同士の打ち合いであれば問題ない威力ながら、野獣相手となると十分ではないかもしれない。けれど、別にベレッタは獣を殺したいわけではない。ただ愛する人の眠る丘へ行く道を邪魔されたくないだけだ。

 

 ベレッタはザカリアを愛していた。その気持ちは、彼が死んでも変わらなかった。

 遺体にすら会うことが許されなかったベレッタには、正直愛する人が亡くなった実感が薄かったと言えた。それでも彼が居ない日々が、彼女に現実を教えてくれる。もう二度と、ザカリアには会えないのだと。彼の人のいい笑顔を見ることも、若干乱暴な口調を耳にすることも、一緒に花を育てることも、もうできないのだと。これから訪れる彼のいない日々を、ベレッタは恐怖したし悲しさに涙も溢れさせた。

辛くて悲しくて、けれどどうして優しく頼もしい最愛の人を忘れることができるだろう。いくら時が移ろっても、ベレッタは恋人を愛する気持ちを忘れることがなかった。

 彼の墓が危険な荒野にあるのだというのなら、彼女はそこへ赴いて花を手向けるだけだった。何も難しいことはない。愛おしい人の眠りに寄り添うことは、当然のことなのだから。

「愛を込めて」

 砂を含んだ乾いた風が旧メト平原に吹き荒れていた。風の音しか聞こえない静かな荒地の、丘を登っていく。華奢な乙女の亜麻色の長い髪は風にふわりと揺れて、ベレッタは暴れる横髪をそっと抑えた。

 旧メト平原の丘と言えば一つしかない。嘗てより平原と呼ばれるだけあってそこは平野なのに、たった一か所にだけ丘陵があるのだ。その丘の上には何故か黒曜石の大岩があり、その岩の形などからその丘自体がメンヒルとして意図的に人間により作られたものなのではないかとも言われていた。だがそれは考察にすぎない。大昔からあるその丘が如何にしてできたのかなど、誰にもわからないのだ。

 ただ一つ確かなのは、その丘の上、大岩の傍らから見る夕焼けはとても美しいということだけ。

 その場所に何もないからこそ、どこまでも届く赤い光。

 遮るのもが何もないから広々していて、遠くまで見渡せる大きな空は燃えるような赤色に染め上げられる。地平線まで余すところなく広がる、澄み渡った紅蓮。素晴らしい夕焼けだと、それを目にした誰もが同じ評価をするのだ。

 ベレッタの知る限りでは、ザカリアは旧メト平原の丘の上から見る夕焼けを心から愛していた。元々自由なものや大空を好む快活な人だったので、ベレッタとしてもそこに思うところはなかった。寧ろ彼らしいと思ってしまったくらいだ。そしてまた、彼の上司であるアウレルもその夕焼けを酷く愛していたことを記憶していた。

「この場所に、こんなに頻繁に通うことになるとは思わなかったけれど」

 なだらかな丘を登りながら、額に汗を滲ませてベレッタは笑う。ザカリアはよく笑う人であったので、ベレッタも自然と笑顔の多い女性になった。ザカリアと出会う前、自分がどんな表情をしていたかをベレッタは思い出せない。

 夕暮れ時が迫っていた。

徐々に黄金色に染まる空に、地平線近くまで傾いた太陽が真紅の光を拡散しはじめる。荒地に蔓延る黄砂に夕焼けが反射して、ちかちかと輝いていた。

「貴方が教えてくれた通りに、ここの夕焼けの風景は美しいわね」

 やがて登り切った丘の頂上。黒曜石の大岩の隣。晴れ渡る美しい赤色の空、燃えるような光を浴びて、そこには錆びついた二本の剣が並んで地面に刺さっていた。

 それは墓標であった。

 ここに眠る二人の英雄、彼らが生前腰に差していたソードである。ガベル軍に所属する兵士はさまざまな武器を使用するが、アウレルもザカリアも両刃剣をよく使っていたものだった。ベレッタはアウレルに会ったことはないものの、ザカリアの腰の剣の形はよく覚えている。薄い刃、どっしりとした柄に、滑り止めの布が巻かれていて、刀身に太陽の模様が掘り込まれている。

 それは、戦士の誇りの証。英雄が死してなお死なないもの。戦う者の証。剣は猛き者の手足となり、死後にはこうして拠り所となる。

 ベレッタは籠の中の花を一輪、また一輪と手に取って錆びた剣の墓標に花を手向けていく。乾ききった荒野に、色彩が敷かれていく。

 死者を悼み、死者を労う生命の色。ベレッタは花が好きだった。ザカリアも花が好きだった。

「アウレルさんには、青い薔薇の花束を。何となく、貴方にはこの花が似合う気がするの。英雄アウレル・エメリヒは空が好きでしょう? 茜色の夕焼け空も、雲一つない晴天も。軍人は、心は自由でしかるべきだと、あの自由なザカリアに教えたのは貴方だった……」

 青空を閉じ込めたような、鮮やかな青い花びらからは芳しい薔薇の香りが漂ってくる。ベレッタは、丁寧に幾輪かの青薔薇をアウレルの墓標の元に置いた。乾いた風に、みずみずしい花びらが揺れる。

「大空は自由で、世界もまた自由。本来人間は、何にも縛られてはいないの。規律に縛られない心は時として、世界の問題となり。また時として人々の希望になる」

 アウレルはザカリアに自由と希望を教え込んだ。戦がどんなに続こうと、戦地の空も死うかな平原の空も一続きで繋がっているのだ。血煙に染まる空の色もいつか、穏やかな色を取り戻すのだ。そうして上司は部下を育てたことをベレッタは知っている。秩序ある自由と、平和でありますようにという希望は時としてザカリア達兵士の癒しになり、進軍の意味になった。

 アウレルは部下たちの希望であろうとした。そして正しく、部下達の模範となりたくさんの希望を背負って死んでいった。

「だからね、アウレルさんには青い、空色の花が似合うと思うの」

 何処か確信めいたようにベレッタは言うが、最早死者となったその人に本当に似合う花というのは、確かめようがないのであった。

 けれど、ザカリアはその限りではない。ベレッタの記憶の中で笑顔を浮かべている年若い兵士には、明るい色の花が似合うということをベレッタは知っている。

「ザカリアには、愛を込めて花束を」

 ベレッタはバスケットをひっくり返して、中の花々をザカリアの墓標の剣の周囲に散らせた。剣を丸く囲うように、赤白黄色、色とりどりの花々を敷き詰めて、ベレッタは泣きそうな顔で笑っていた。

「私にはなぜ貴方がこの場所で眠ろうと思ったのかわからないけれど」

 帰るべき場所へ。

 ザカリアの帰る場所は、ベレッタの腕の中であると。ベレッタは信じて疑わなかった。彼はどんな姿になっても帰ってきてくれると彼女は信じていた。しかし彼は帰ってこなかった。骨を埋めたのは、荒野の丘の上。薄情な恋人だと、憤りこそしたけれどそれでも。

どうしたってベレッタは、ザカリアを愛していた。その尊い気持ちを、愛する人を、忘れることなどできなかった。

「私、今でも貴方がこんなにも好きよ」

 きっとザカリアも、ベレッタを同じように愛していたのだ。ベレッタは思う。死の間際まで彼はベレッタを愛し抜いて、愛しているが故に死後彼が彼女の腕の中に舞い戻ることはなかったのだろうと。

「『自分を忘れて幸せになってほしい』なんて殊勝なこと、優しすぎる貴方ならきっと考えたことでしょうけれど。私は一途なの。貴方以外の殿方と幸せになる未来なんて、考えられないわ」

 だからベレッタは、独りで生きることを選んだ。

 それが本当に幸せなことかは、ベレッタ自身にもわからなかった。ザカリアが気を遣ったであろう「女としての幸せ」を、掴むこともまた幸せの一つなのだとは理解している。しかし彼なくして得られる幸せなど、彼女にしてみれば全てがまがい物に違いなかった。

 少なくとも、ベレッタは今の生活に満足していた。大好きな花々に囲まれて、唯一の愛する人との思い出を胸に生活することは、思いのほか快適で穏やかなものだった。

 寂しくないかと問われればそれは寂しいのだろうけれど、ベレッタはそれでもよかった。過去にしがみついていると非難されても、構わなかった。

「私、今でもこんなにも幸せよ」

 明日はどんな花を入荷しようかしら。ベレッタは笑みを混じらせて墓碑に語りかける。白薔薇に桃色のカーネーションに向日葵と紫のチューリップ。ゴデチアとアネモネにネリネ、スターチス……。剣の回りに散らせた花々を摘まみ上げては手づから整えて、彼女は息をついた。

「貴方が好きだと言った橙の花もいいわ。わたしの好きな白い花も。入荷して店先に並べたら、素敵な包装紙で包んで、リボンをつけて、ブーケにしてお客さんに渡すの」

 そうしたらお店に来てくれたお客さんはきっと喜んでくれるわ。幸せそうに微笑んで、家族に、恋人にそのブーケを渡すでしょう。小さな子はブーケのお花を、パパとママと一緒に花瓶に移し替えて、得意げにするのよ。気の弱い男性が、ブーケに想いをのせて意中の女性に告白するの。結ばれて、二人は幸せになるのだわ。

 花々が幸せを彩る。そうして生まれた誰かの幸せを羨ましいと思ったときには。

「その時にはまた、ここに来るわ。ザカリア、貴方に会いに来るわ」

 飛び切りのお花をバスケットに詰めて、荒野の丘を登って。ベレッタは面白おかしそうに言う。

「そうして、何度でも貴方とこの丘の上から夕陽を見るわ。そうね、隣にいるアウレルさんに私たちの熱愛っぷりを見せつけてやりましょう!」

 空は真っ赤に染まっていた。遠い地平線の向こうで、太陽が徐々に沈んでいく。赤い光が丘の上を照らしていた。夕日を浴びて、ベレッタは墓碑の剣に寄り添っていた。美しく荘厳な光が、完全に宵闇にかき消されるまで。

「綺麗な夕日ね」

 独りぼっちでベレッタは呟く。寄り添う錆びついた剣は鉄の冷たさを持ち、乾いた風も夜の空気を纏い始めてずっと温度を下げていた。紅の空は徐々に紫と青の色を帯び、漆黒を広げていけばそのうちに月も浮かんでくる。

 風がベレッタを吹き付ける。夜になれば夜行性の獰猛な獣が活動し始める。鉢合わせる前に街へ戻らなくては。大都市クフラン・ガベルの恵まれないスラムへ。思い出がつまった花屋の店先へ。

 バスケットを持って、衣服の埃を払ってベレッタは踵を返した。誰もすっかり冷え切った彼女の身体を温めてくれる人などいない。街へと戻る道中、か弱い乙女のその身を守ってくれる人などいない。

「…………また来るね」

 風にベレッタの長い髪が靡く。彼女の言葉に応える人はやっぱり存在しなくて、けれどそれでもベレッタは幸せそうに笑って丘を下っていった。黒曜石の大岩はどんどん遠ざかっていく。

既に夕日はもう半分以上も地平線に沈んでいた。この分では、ベレッタが街につく前に夜が訪れてしまうだろう。

 それでもベレッタは気丈に砂を蹴って歩いていった。鼻歌を歌いながら、荒野を去っていった。

「次にここに来るときは、どんなお花を届けようかしら」

 そんなことを考えている彼女の背に、宵闇が迫っていた。


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