ガラスと華金魚
今年は金魚だった。
白縹の水面に、赤と白の蓮が咲いている。常盤色の葉はゆうらりと風に揺れ、ときおり花片がほろほろと散っていた。
その下を、ひらり、ひらりと泳ぐのは金魚たちだ。彼らはうすぼんやりとした朱色の影をちらつかせたかと思うと、水面の近くまで浮き上がり、あでやかな模様を晒してみせた。
水際を染めるのは、青褪めた夜の色。その中でぼうと白く浮き上がる花は、月下美人。
朝と昼と夜が混じりあった世界で、清らかさの象徴たる蓮と一晩かぎりの花を咲かせる月下美人、そして金魚が踊っている。
まるで、当てつけのように。
「どう?」
彼女は草むらにたたずむ俺へと顔を向け、ふっと微笑んだ。とたんにあどけなくなるおもざしは、橙がかった日の光を浴びて上気している。
彼女の細い首筋には後れ毛がぺったりとはりつき、生白い足は水を張った盥に沈んでいた。うす紅のつま紅があでやかで、こいつも大人になるのか、なんていまさらのように思う。
「最悪だな」
「えー、これでもがんばったのに」
悔しそうに呟いて、彼女は浴衣の袖をひらめかせた。風が吹いたように蓮が揺れ、布地に波紋と流水紋が浮き上がる。
彼女が揺らした袖が、帯の月下美人に当たった。つややかな花がほとりと落ちて、花片を散らす。水面をたゆたった花片はやがて薄墨色のしみになり、周囲に溶けた。
それに気づいた彼女は、あ、と声を上げる。
「花がひとつ落ちちゃったじゃない」
ひと月もかかったのに、と俺をねめつけ、彼女は指先で帯に触れた。
「どうせ一晩しか咲かないだろ」
「そう一晩よ、だから今日咲くように織ったの」
ご苦労なことだ。
「そもそもどうして一晩しか咲かない花にしたんだ」
「そんなの決まってるでしょ」
彼女はくちびるを尖らせる。
「君に見せるため」
妙に子どもじみた仕草だった。
「……まあいいや」
黄昏色の中、彼女は青褪めた世界をまとって笑う。
俺は彼女を、ガラス、と呼んでいた。
理由は簡単だ。彼女の名前が「硝子」で、透き通るようなまなざしがとてもきれいだったからである。ラムネ瓶の中に入っているガラス玉のように輝く瞳は、彼女が〈機織り〉である証なのだと聞かされていた。
「どう、この金魚たち。たくさん織り込んだから、すごく元気でしょ」
ガラスの言葉に、俺は浴衣を眺める。
白縹の布に織り込まれた金魚たちは悠々と布の中を泳ぎ、花はきまぐれに吹く風に揺れていた。濃紺の帯に咲き誇る月下美人は、月光に濡れたようななまめかしさを宿している。
「元気だな、たしかに」
「でしょう?」
しぶしぶと認めると、彼女は得意げに胸を張った。
ガラスの浴衣は特別だった。
それは、〈機織り〉たる彼女が布を織っているからである。
〈機織り〉によって織り込まれた模様には命が宿り、彼らは布の中に息づく。うさぎは跳ね、鳥は羽ばたく。雪は季節のうつろいと共に雨となる。花は咲き綻んでは朽ち、また芽吹くのだ。
山間の小さな村には、そんなファンタジーがいまだ残っている。
ひときわ大きな金魚が水面近くを泳ぎ、真っ白な蓮を揺らしていく。花はふるりと身体を震わせ、ぽと、ぽと、と涙のように花片を散らした。
そのとたん、落ちた花に金魚たちが殺到する。
先を争うように花片を啄む金魚たちを、俺はぼんやりと眺めた。
口を開いた金魚が、崩れて水面に散らばる花片を噛みちぎる。水面越しだというのに――そもそも布に織り込まれた模様だというのに――鋭い牙がはっきりと見えた。
大ぶりの花片があらかた喰らいつくされた頃、どこに姿を眩ましていたのか、先ほどの金魚が戻ってきた。あざやかな模様を持つ金魚は、どの金魚よりも大きな口を開ける。生えそろった牙がぎらりと輝いた。
金魚がすべてを丸呑みするに至って、俺はようやく我にかえる。
「おい、どうして金魚に牙があるんだ」
「華金魚だから」
ガラスはこともなげに答えた。
「牙がないと花片を噛み切れないじゃない」
たしかに花を好んで喰む金魚――華金魚は牙を持ついきものだ。
しかし、今のはどう見ても。
「……お仲間を食べてたけど」
「食べられる方が悪いと思う」
浴衣の中は現実と同じくらい、みもふたもない世界だった。
「不満そうだね」
彼女は指先で華金魚に触れ、慈しむようになでる。華金魚が嬉しそうに体を揺らし、兵児帯のように薄く透ける尾びれがふうわりとたゆたった。
身体の芯がざわつくような、嫌な感覚が蘇る。
俺は顔をしかめ、華金魚から目をそらした。典雅な名にそぐわぬ凶暴さを秘めたこの魚を、俺はどうにも好きになれない。
そんな俺を眺めていたガラスは、変わらないなあ、と苦笑して盥から足を抜いた。かたわらの手ぬぐいで水気を拭き取り、やや乱れた裾を直す。
「少し歩こうか」
白いつま先に赤い鼻緒の下駄を引っ掛けて、彼女は歩き出した。
俺とガラスの付き合いは、意外と長い。
今から二十年ほど前、俺たちはこの村に生まれた。子どもの少ないこの村では唯一、同じ年の相手だったから、俺が進学のために地元を離れるまで、ずっと一緒にいたのだ。
俺たちの関係を言い表すのなら、幼なじみ、という言葉が合うのだろう。
――生きていたのなら。
「いやあ、あの時はびっくりしたよねえ」
からん、と下駄を鳴らしながら、ガラスは言う。
「養殖池に落ちるなんて。そのせいで、華金魚が嫌いになっちゃったんだよね」
「死んだんだから、当然だろ。喰われてたんだぞ」
そうなんだけど、と彼女は苦笑する。結い上げた髪からほつれ落ちたひとふさが水面を叩き、白く波紋を描いた。
「何だか、他人ごとみたいな言い方だよ」
死んだのは君なのに。
その言葉を無視して、俺はガラスの手を握った。ひと回りちいさな手は温かくて、不思議な安心感と、ほんの少しの寂しさを運んでくる。
幽霊になったのに、俺たちは手を繋ぐことができた。今だって、てのひらのやわらかさや温かさを感じている。おまけに会うたびに身体は成長している。
〈機織り〉たる彼女が引き寄せる不思議に比べれば驚くようなことではないのかもしれないが、これも立派な不思議だった。だからこそ、どうにも落ち着かない。
舗装されていない道をふらふらと歩いているうちに、昔なじみの駄菓子屋にたどり着く。
「あ」
ガラスは懐かしそうに目を細めた。
駄菓子屋は、幼い俺たちの遊び場だった。店主だった婆さんがギックリ腰で店を閉めるまで、なけなしの小遣いを握りしめ、毎日のように通っていた。おかげで俺の夏は、ガラスと、駄菓子屋と、婆さんの記憶で埋め尽くされている。
「おばあちゃん、留守かな」
ガラスは足を止め、駄菓子屋の看板を眺めた。
「今朝お話したんだ。お婆ちゃん、今年も君と夏祭りに行くの、仲いいのねえ、って笑ってたよ」
「……あ、そう」
うん、と彼女は頷いて、透き通ったまなざしを和らげる。婆さんはもう、とっくに帰らぬ人となっているというのに。
俺は黙って駄菓子屋を通り過ぎた。ガラスは繋いだままの手をぶんぶんと振って、嬉しそうについてくる。
夕闇に沈む道には、標のように提灯が灯されていた。ぼう、と青白く輝くそれをたどるように歩いていくと、なつかしい音がどこからともなく聞こえてくる。
風に乗って、近く、遠く、笛の音が駆け抜けた。地鳴りのような太鼓の音が絡みつき、シャンという鈴の音が空を切り裂く。
「……ああ、祭囃子か」
夜をまとって青褪めた神社を眺め、俺は呟いた。毎年のように繰り出した夏祭りからも、ここ数年はすっかり遠ざかってしまっている。
「おじさんとおばさんに会いたいなあ」
今年もお店番をしているんでしょ、とガラスが呟いた。
「かき氷が食べたい。金魚すくいもしたい」
たこ焼きも、わたあめも。夢見るようなまなざして、ガラスは神社を見やる。
「ガラス」
ふらりと足を踏み出した彼女の手を、俺は慌てて引っ張った。
ガラスは俺を見て、はっとしたように口をつぐむ。
「……ごめん」
いいよ、と俺は笑った。
幽霊は水を飲めないし、あそこは神社、曲がりなりにも神聖な場所だ。そんなところに幽霊が入り込むなんて、危険すぎる。
うつむいてしまった頭を軽く叩いて、俺は歩き出した。ついてくる足音は、どことなく元気がない。
しばらく歩いていると、提灯の標がふつりと途切れた。どこに向かっていたのかが思い出せなくて、俺は少し考え込む。
「……ねえ」
ふいに腕を引かれ、俺は振り返った。
ああ、そうだ。ガラスだ。
とうとつに思い出す。
俺はガラスを、連れて行きたいんだ。
「帰ろう」
疲れちゃった、と弱々しく呟いて、ガラスが微笑んだ。
今にも砕けてしまいそうな笑顔に、胸の奥がざわめく。
「帰らない」
力任せにガラスを引っ張って、俺は歩き続けた。からん、からんと悲鳴のように響く下駄の音を聞きながら、遠い日の記憶をたどって進んでいく。
「……この先に行くの、やめようよ」
弱々しく抵抗していたガラスは、ついにうずくまった。足を止めて振り向くと、小さな子どものようにべそをかいている。
いつの間にか俺たちは道を外れ、森とも林ともつかぬ場所に入り込んでいた。頭上には銀の粉がまかれ、周囲は闇に覆われている。祭囃子はすっかりと遠ざかり、夏の夜独特の熱気と、水と土と草のにおいがしていた。
「なんで」
俺が首を傾げると、彼女はだって嫌なんだもん、と首を振った。元より白かった顔は、見て分かるほどに青褪めている。
「その、先は」
消え入るような声を無視して、俺は足を進めた。ガラスの手を握りしめたまま、覆い茂った草葉を掻き分けていく。
この先にあるのはかつての遊び場、そして――
ふつりと、声が途絶える。
古い人工池のほとりで、ガラスはへたり込んだ。
かすかな月明かりを頼りに、俺は周囲を見渡す。
足元には丈の低い草がびっしりと生え、野の花が咲いていた。墨色の水面では、夥しい数の蓮が朝を待っている。
こぼれ落ちた月の光が、揺らめく水面に白い模様を描いていた。その光に助けられ、蓮の下で蠢くものが見える。
俺はガラスから手を離し、足元の花をちぎって水面に放った。
とたん、激しい水音が立つ。闇の中に潜んでいたものが赤と白の体を見せつけるようにくねらせ、ひときわ大きなそれが花を仲間ごと飲み込んだ。
月明かりに輝いたのは、花を喰むための牙だ。
「……華金魚」
震える声が耳に届く。
俺はガラスを見下ろした。
「思い出した」彼女は囁いた。「死んだのは――」
そう、俺ではなく、ガラス。
数年前まで、華金魚は村の宝物だった。
花を食べる美しい金魚たち。美しく芳しいものをたくさん食べた金魚たちは、やがてその体の中で結晶を育む。花のような香りと形の結晶だ。
みずから光り輝き、叩けばりぃんと澄んだ音を響かせる。加工などせずとも美しい形を持つ、宝石のような石。〈機織り〉と同じように世界の片隅に眠るそのファンタジーを、華水晶、と俺たちは呼んでいた。
けれど数年前に、華金魚は宝物ではなくなってしまった。
理由は簡単だ。華金魚が、〈機織り〉を食べてしまったから。
ちょうど夏祭りの日だった。ガラスは自分の浴衣を作ってみたいのだと、俺に語っていた。
たくさん練習したから、もうそろそろ、大物に挑戦してもいいと思うの。来年は自分で織って縫った浴衣で、君と夏祭りに行くんだよ。
そうだ、柄はなににしようか。君が好きな柄にしてあげる。
楽しそうに話すガラスの目は、まぶしいほどに輝いていた。俺は彼女と小指をからめて、じゃあ来年は浴衣を着て、一緒に夏祭りに行こうと約束した。
けれどその日の夕暮れ、ガラスは池に落ちた。
俺は待ち合わせ場所の鳥居の前で立ちつくし、大人たちが血相を変えて養殖池に駆けつけるのを、ガラスのやつ遅いなあ、なんてぼやきながら眺めていた。なにが起きたのかを知らされたのは、数日後、華金魚の池を掃除していた村人が、ガラスの髪飾りを池の中からすくい上げた後である。
彼女は華金魚の池に落ちた。
華金魚は、花だけを喰むわけではない。
池に落ちたガラスは、――食べられてしまったのだ。
彼女の両親はもう亡くなっていたから、村は次代の〈機織り〉を永遠に失った。人を食べた華金魚たちは、その身に結晶を宿せなくなった。ひとつの不思議がひとつの不思議を喰んで、世界から、ふたつのファンタジーがこぼれ落ちた。
彼女の手を握りしめて、俺は唇を噛む。
ガラスは死んだ。
けれど、自分が死んだことに気づいていなかった。
『……幽霊?』
線香を上げるためにガラスの家を訪れた俺は、縁側に腰掛けていた彼女の言葉に文字通り腰を抜かした。
『そっか、成仏できなかったのか』
彼女はひとり納得して、俺を勝手に幽霊に認定してしまう。
ガラスの中で、華金魚の池に落ちたのは俺になっていた。そして俺は、ガラスと一緒に夏祭りに行く約束をしたばかりに成仏できなかった、ということにされていた。
『……そうだった』
呆然とする俺の前で、彼女は思い出したように機織りを始める。
『ガラス、』
声をかけた俺を振り返り、待っていてね、とガラスは笑った。
『君との約束を守って、見送ってあげるから』
見送られるべきなのは自分の方だというのに、その時の俺は、どうしても、本当のことを告げられなかったのだ。
その日から、俺たちの奇妙な関係が始まった。
ガラスは自分が幽霊であることに気づかずに俺につきまとい、俺は幽霊のふりをしてガラスにつきあう。ガラスは夏祭りのたびに自分で織った布で浴衣を仕立て、それをまとって俺を出迎えた。
そうして気づけば、もう数年もの間、幽霊の彼女と過ごしている。
初めのうち、俺はガラスが幽霊になったことを喜んでいた。生前のガラスが嫌いだったわけではない。「さようなら」をしなくてもいいことが嬉しかったのだ。
けれども、それも最初の数年だけだった。
なぜなら――
「……悪い」
唇を噛んで、俺はうつむく。
ガラスは池に落ちた。誰もが青褪め、それから首をかしげた。
ガラスはどうして、あんなところにいたのだろうと。
養殖家しか近寄らない、人気のない池。明かりもない、暗い場所。昼間ならばともかく、夕暮れ時に、たったひとりで、ガラスはなにをしていたのだろう、と。
その答えを、俺は知っている。
「俺のせいだ」
「違うよ」
ガラスは首を振った。髪がまたほつれ落ちて、みっともないことになっている。
「俺が殺したから、ガラスは化けて出るんだろ」
「だから、違うって」
「違わない」
どうして分かってくれないのかなあ、とガラスは困ったように笑う。
「お祭りに行きたかっただけ、だと思うんだけどなぁ」
はりん、と。
どこかで、なにかが砕ける音がした。
それが俺とガラスの関係だったのか、ガラスの心だったのか。それとも俺の心だったのかは分からない。
けれどもたしかに、なにかが壊れたのだ。
「もういいや」
〈機織り〉は呟いて、ガラス玉の瞳を伏せる。
そうしてファンタジーの種明かしをした。
するり、と、ガラスのつま先がほどける。
つま先の次は足の甲、ふくらはぎ、膝。指先からするするとほどけて、地に落ち、一反の布になる。
俺は足元に散らばった布に手を伸ばし、おそるおそる持ち上げた。
古びた布だ。手触りは悪く、ごわごわとしている。今にもほつれそうで、指先で触れただけで分かるほど目も粗い。
見えなくてもわかる。
この布の中に息づくのは、不格好な蓮と華金魚だ。
池に落ちたあの日、ガラスは蓮と華金魚を観察しに行ったのだろう。どんな柄にしようか、と聞くガラスに、俺が蓮と華金魚と答えたから。
――そう、ガラスを殺したのは俺なのだ。
そのことに気づいてから、なにも知らない顔をして笑うガラスは棘になった。砕けたガラスのかけらが肌に食い込むように、無邪気なガラスの言動は、ひとつひとつ俺に突き刺さった。
そして俺はいつしか、この関係を終わらせることを望むようになった。
ガラスが俺の罪を忘れさせてくれない存在へと、変わり果ててしまったから。
けれども今、ガラスがいなくなったという事実に胸がきしむのはなぜだろう。
ふと、布の固まりからなにかがこぼれ落ちた。足下に転がった結晶に気づき、俺は息をのむ。
蓮とも月下美人ともつかぬ形をしたそれは、大ぶりの華水晶だった。
光を振りまきながら転がった華水晶は、とぷんという音と共に水中に沈んでいく。あわい輝きに照らされ、踊りかかる魚たちの影が一瞬だけ見えた。
しかしその輝きはすぐに失せ、辺りは闇を取り戻す。
〈機織り〉の布を抱きしめて、俺は長いこと、跳ねる水面を眺めていた。