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嫉妬は行動の母

 ホームセンターで包丁を買ったのは、二日前のことだった。万が一、刃先で自傷してしまってはたまらないので、とりあえずは買ったときについてきた入れ物にしまったままだ。

 そのまま黒のトートバッグに入れた。

 買いにいくときもいまも、マスクをつけていた。ニット帽も被ろうと思っていたが、七月にそんなものを被っていてはかえって目立つだろうからやめた。

 べつに捕まるのが怖いわけではない。どうせまともに生きていても、どうしようもないのだ。それならいっそ刑務所で暮らしたほうがましかもしれない。

 だが、なぜだろう。自宅の玄関を一歩でて、すぐに思い直した。

 捕まるのは怖くない。が、外にでるのは怖かった。もし警察に捕まれば、どうせ自宅から外にでなければいけないのだから、けっきょくはおなじことなのかもしれない。

 ともかくぼくはいちど部屋に戻り、ベッドの柱に引っかけていたニット帽をとった。

 働きはじめて間もなくのころ、母が買ってくれた。わざわざ、宅配便で送ってきてくれたのだった。お菓子やらカップラーメンといっしょに。

 ――今日、たまたまみつけたの。あんたに似合うと思って。

 ニット帽には、そんなメモが貼りつけられていた。

 子どもはいつの日か母親が買ってきた洋服を着なくなるそうだ。

 恥ずかしい。

 ダサい。

 ぼくには、その気持ちがよくわからない。

 ようは、無頓着なのだ。

 もともと着るものにこだわりなどないから、恥ずかしいともダサいとも思わない。

 だから、母が買ってくるものでも、躊躇なく着られてしまう。もっとも最近は外出すること自体がほぼないので、ダサいと笑われる心配など、はなからする必要はないのだけど。

 そういえば、今日着ている水色のポロシャツも浪人時代に母が買ってきたものだ。

 ぼくは踵を返して、部屋をでた。ドアを閉めるまえにまじまじとじぶんの部屋を眺めた。

 隅から隅まで。

 天井から床まで。

 もうここに帰ってこないのかと思うと、多少の寂寥感をえないでもなかった。

 が、そんなことをいいだせば、ぼくは今日中にこの家をでることはできないだろう。じっくりと家の景色を目に焼きつける。

 そうやってのんきにノスタルジーに浸っていれば、母か父とでくわすことになる。日曜日なので、父も仕事にでていない。

 顔をみれば、じぶんの決意が揺らいでしまうかもしれない。そうなると、目もあてられない。泣いて止める母をみてしまえば、ぼくは無理にでも計画を実行しようなどとは思えないだろう。

 所詮はその程度なのだ。それはわかっている。ぼくの決心など、たいした重さでも強度でもない。だからこそ、心変わりを誘発する要因はできるだけ避けたい。だから、リビングルームに入ることができなかった。


「フフ」


 バカバカしくてじぶんでじぶんを笑ってしまう。その程度の決意では、どの道決行することなどできないだろう。ちっぽけでもろい。あっさりと翻意してしまう。すべてをあきらめてきたぼくは、自暴自棄になることすら容易にあきらめる。

 そうなったとき、なにが残る。

 なにも残らないだろう。

 あえていえば、虚無。

 あえていえば、無力感。

 あていえば、嫉妬。じぶん以外への他者への嫉妬。

 ルサンチマンは、ときに人間を突き動かすニトロになることもあるが、ぼくのなかにはその回路は存在しない。

 ルサンチマンを動的エネルギーに変換することはできない。

 つまりその嫉妬には、意味がない。

 ぼくはやっぱりなにもできない。なにもなしえない。何者にもなれない。そうやってじぶんを奮い立たせた。

 今度は、じぶんでじぶんを挑発し、嘲笑することによって。

 それは、他者への嫉妬で己を督戦できないぼくができる唯一の方法だった。

 じぶんを極端に客観視することにより、どうしようもない、情けないじぶんの姿を現前させる。

 傍からみたら、おまえはクソでグズだよな。恥ずかしい。死ねばいいのに。じぶんを笑う。それに怒る。

 笑うじぶんと怒るじぶん。

 人格を分離させる危険な思考法だが、そうでもしないと勇気を持てない。いや、それは勇気などという健全で好ましい情動ではなかった。歪んでいたのだろう。

 蛮勇だ。

 階段を下り、玄関でスニーカーを履く。手には得物が入ったトートバッグ。スニーカーも母が買ってくれたものだ。これは高校生のころに買ってきてくれた。それだけはよく覚えている。

 ――おまえって、小学生みたいな靴履いてるよな。

 同級生の言葉だ。これが案外、きつかった。効いた。そのころはもういじめれるようことはなかったが、なんとなく孤立していたような気はする。

 しかし、孤立はしていたが、敵意をもってぼくを攻撃してくるやつらはいなかった。

 だからこそ、余計に響いてしまった。この場合なら、それは不協和音だった。いやな音を響かせた。不意打ちであり、青天の霹靂だった。

 友だちがいないだの、クラスから浮いてるだのは、この際、問題ではない。暗い性格だったので、それは致しかたないと当時のぼくはそれなりに納得していた。

 成績が落ちて鬱屈していたせいもあったろう。孤独であることに、大きな痛みを感じていなかった。むしろ、安住していた。

 だれもぼくにかまわない。実際、それが強がりであったかどうかはここでは問題にしない。とりあえず。

 ――だれもぼくをいじめない。

 中学時代を思えば、幸せだといってやれないでもない。ただし、それはかなり歪んだ形ではあったが。

 そんなときに急に投げかけられた言葉。陳腐の表現だが、それは言葉のナイフだった。ぐっさりとぼくに刺さった。

 フラッシュバックしてしまった。中学時代のつらい経験を。思い出したくなくとも、忘れることなんてできないあの経験を。

 あのときのあの言葉を。

 あのときのあの痛みを。

 あのときの彼らの表情を。

 下卑た彼らのあの表情を。

 ぼくはそのとき以来、「小学生みたい」といわれたその靴を履こうとしなかった。これまで、ほぼ毎日履いていたのに。

 実をいうと、少しだけ気に入っていた。いわれてみれば、たしかに小学生が履いてそうなデザインだが、なぜかそのときまではカッコいいと思っていたのだ。

 やはりぼくには服飾のセンスが根本的に欠如していたようだ。だから、この一件は自己責任だといえないでもなかった。

 気に入っていたからこそ、余計に傷ついたのかもしれない。いま服装に無頓着なのは、頓着して否定されるのが怖いという恐れがあるのだろう。

 だからこそ、どうでもいいという態度を装っている。あまりに長期間続けたものだから、ブラフであることを本人ですら忘却してしまったのだ。

 母は、変化にすぐ気づいた。毎日履いていた靴を、靴箱の奥にしまったのだから、当然といえば当然だ。が、なにもいわなかった。

 二日後、玄関に見慣れない靴が置かれていた。光沢があり、新品であることが、一目でわかった。

 ニューバランスのスニーカー。赤色だった。

 カッコいいと思った。とっさに思ってしまった。このことをもってしても、ぼくのファッションに興味がいないという態度は、ポーズであることがわかるだろう。

 母にありがとうといわなかった。いえなかった。

 スニーカーに足を入れたとき、ぼくの脳裏にある言葉が浮かんだ。

 ――母さんが買ってくれたものを汚したくない。

 ぼくは、いつもはぬぎ捨てるスニーカーを丁寧にぬぎ、部屋への階段をかけあがった。部屋に入り、ポロシャツをぬいだ。丁寧に畳んで、いまはパソコン置き場と化した勉強机のうえに置く。ジーンズもぬぐ。

 パンツいっちょうになった。あたりを見渡し、すぐに目当てのものをみつける。袋から体操服を取り出し、いそいそと着用する。短パンも履く。自室で高校時代の体操服の上下を身につけるのは、なんだかおかしな気分だったが、そんな些事を気にかけている場合ではなかった。こうやってダラダラとしていれば、せっかく奮い立たせた決意がにぶる。それだけは避けたかった。

 そして、あるものを探した。それはわりとすぐみつかった。母に買ってもらった服を着ることはできないが、これなら大丈夫だろう。汚れることも返り血を浴びる心配もない。それをトートバッグのなかにつめた。バッグのなかには、それと包丁だけが入っていた。

 玄関に降り、下駄箱の奥を探る。

 あった。

 取り出したのは、兄のスニーカー。薄汚れていて、もう何年も履かれれていないことが一目でわかる代物だった。たしか、兄は高校生のころにこの靴をよく履いて学校に行っていた。

 いまはだれも使ってないから、これならいいだろう。

 ぼくは兄が置いて行ったスニーカーを履いて、家をでた。


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